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【コンサル物語】コンサルティングに頼る会計事務所(世界最大のシステムコンサルティング会社 アーサー・アンダーセンの場合)

1970年代アメリカ。Big8(ビッグエイト※)と呼ばれていた大手会計事務所は、本業である会計監査での収入が頭打ちとなる中、好調なコンサルティングサービスを拡大することで苦難を乗り越えようとしていました。

前回のプライス・ウォーターハウス(後のPWC)に続き、今回はアーサー・アンダーセン(2002年消滅。コンサルティング部門は後のアクセンチュア)について、当時のコンサルティングの歴史を見ていきたいと思います。

※1970年代当時、アメリカに存在した8つの大手会計事務所のこと。ピート・マーウィック・ミッチェル、アーサー・アンダーセン、アーンスト・アンド・アーンスト、プライス・ウォーターハウス、ハスキンズ・アンド・セルズ、ライブランド・ロス・モンゴメリー、アーサー・ヤング、トーシュ・ロスの各社。後にDeloitte、PWC、EY、KPMGへと統合されていく

下の表は1971年のBig8売上ランキングです。アーサー・アンダーセンは1913年にアーサー・E・アンダーセン氏によりシカゴで設立された会計事務所です。コンサルティング部門は1942年に管理会計部という名称で設立されました。部門の設立当初からコンピューターに注目し、システムコンサルティングの分野を中心にコンサルティング事業を成長させていました。

Big8ランキング(1971年)
※会計事務所(監査+税務+コンサル)での売上順

『闘う公認会計士』

アーサー・アンダーセンはBig8でのランキングが上位(第2位)に位置しているだけではなく、当時のBig8の中で最も勢いのある会社の一つでした。特にコンサルティングへの傾斜は他社を圧倒し、売上に占めるコンサルティングの比率は既に20%を越えていました。他の7社が軒並み10%未満の比率であったなか、アーサー・アンダーセンのコンサルティングの規模は突出していたわけです。コンサルティングに関しては他社よりも一歩も二歩も先を進んでいました。

(1973年頃には、ブーズ・アレン・ハミルトン社やマッキンゼー社といった経営コンサルティング会社を含め、アーサー・アンダーセンのコンサルティング部門が売上では世界最大規模を確立していたと言われています。)

アンダーセンが、新しいコンサルティング市場で最初から最も巧妙かつ積極的に立ち回ったことは、誰の目にも明らかだった。アンダーセンは、MAS業務※の莫大な可能性を認識し、それを最大限に利用できるような体制を作ったのである。

『ビッグ・シックス』

※Management Advisory Service(経営アドバイザリーサービス)の略。コンサルティングサービスのこと

アンダーセンにおいては、コンサルティング部門がそれまで行っていた積極的なセールス戦略によって、会社内で充分存立できる部門に育っていた。アンダーセンは、監査からの収入が頭打ちになるのを、コンサルティング部門を拡大することで穴埋めすることができたのだ。

『アーサーアンダーセン消滅の軌跡』

アーサー・アンダーセンがコンサルティング部門をここまで強化できた背景には、業務の統一性と、全てコンピュータを基礎とするシステムコンサルティングに絞り込んでいたことが挙げられます。

会社は業務(コンサルティングサービス)に統一性を持たせるため、コンサルティングの各分野を教えるガイドブックを作成し、トレーニングを通してコンサルタントに徹底的に浸透させていきました。

アンダーセン社にとって非常に重要なこれらのトレーニングのため、当時のアンダーセン社は、シカゴ郊外の大学キャンパスを買取り、プロフェッショナル育成のためのトレーニングセンターを開設しました。そこには、世界中のオフィスからプロフェッショナル養成のための人員が集められていました。

1970年、イリノイ州セント・チャールズにトレーニング施設を購入することを決定した。シカゴのダウンタウンにあるこの施設は、もともと小規模のカレッジのために建てられたもので、現在はプロフェッショナル育成センターと名付けられている。パートナー、マネージャー、スタッフは世界各地からこのセンターに集まった。

『THE FIRST SIXTY YEARS』

イリノイ州のセント・チャールズにある中央研修所は、2000人までの会議を収容することができ た。150エーカー※の敷地にある建物は、数百人のアンダーセンの教育養成関係職員のオフィスや、 教室 大講義室や1675人の生徒を宿泊させる寮があった。

『アーサーアンダーセン消滅の軌跡』

※約60万㎡(770m×770m)だいたい、サッカーコート150個分に相当するようです。

ライバルたちは、セント・チャールズの我々の研修センターを見て、そんなに金をかけ大規模な施設を作ったのはなぜかと聞く。彼らは、セント・チャールズが我々にとってレバレッジの鍵であり、したがってビッグ・エイト中最高の利益を上げる部門を作る鍵であることを見逃していた。

『ビッグ・シックス』

このようにBig8の中で最もコンサルティングに注力していたアーサー・アンダーセンにとって、1970年代に突如噴出した連邦議会やSEC(証券取引委員会=会計業界の監督権限をもつ)からの懸念、会計事務所によるコンサルティングサービス提供への懸念、の動きはアーサー・アンダーセンにとって大きな問題になりました。

事態を重く見たアンダーセン社の会長は、大胆な策を打ち出しました。それは、アーサー・アンダーセンを2つの事務所、会計監査事務所とコンサルティング事務所に分割するという急進的な案でした。分割することで、監査事務所は気を使うことなく監査に専念でき、コンサルティング事務所は真に自由にコンサルティングを手がけられるようになる、という考えでした。

カプニック※は、SECがアンダーセンのコンサルティング事業の一層の拡大についてどう反応するか心配した。SECが、やがて、監査法人が独立性を保っているかどうかの調査を始めるだろうという噂が広がった。監査クライアントのどこかでこのテストが黒と出たら、監査法人はそのコンサルティング部門を切り離すよう要求されるだろう。 アーサーアンダーセンは、世界のどの監査法人よりも監査以外の収入を多く得ていたので、そういうテストをやれば、アンダーセンはコンサルティング業務を外せ、と言われるだろうと、カプニックは確信していた。

『アーサーアンダーセン消滅の軌跡』

※ハービー・カプニック。当時アンダーセンの会長

カプニックの案は、アンダーセンを二つの事務所 ―監査事務所とコンサルティング事務所に分割するというものだった。そうなれば、監査人は余計な気を遣うことなく本来の監査に専念できる。さらに、コンサルティング部門は、会計の分野に捕らわれることなく、投資銀行業務など高収益が見込める種々のサービス・ビジネスを手がけられるようになる。カプニックは、明らかに時代の先を行っており、先見の明のあるリーダーであった。彼は、投資銀行の急激な成長を予見し、その市場に参入したいと考えた。

『ビッグ・シックス』

監査とコンサルティングで事務所を分割するという会長案は、1979年9月のパートナー会議(アーサー・アンダーセンの経営陣が一同に会する会議)で提示されました。ところが、その場にいたパートナーは提案内容に反対し、結局分割案は拒否されました。

拒否の理由は、好調なコンサルティングを切り離すことへの抵抗が大きかったと言われています。

カプニックの事務所分割案が1979年9月にパートナーたちに提示されると、事務所は大騒ぎとなった。各地事務所の所長たちは、コンサルティング収入がなくなることを恐れた。また、監査人の多くは、コンサルティング部門がないと、クライアントのニーズへの幅広い対応を唱えるライバル事務所に比べ、不利になることを心配した。

『ビッグ・シックス』

1979年のパートナー会議には、1,100人のパートナーが出席したが、カプニックはコンサルティングをわけるという構造改革案を出し、「ひとつの偉大な会社を、二つの偉大な会社にするのだ」と言った。しかし、これこそ、アンダーセンのパートナーシップが期待したことの、正反対のことであったので、彼らはその案に対して懐疑的であった。それというのも、監査収入の成長が頭打ちになりつつある時に、非常に成功している急成長のコンサルティング業務を切り離すなど、どうしてカプニックは提案できるのか、と思われたからだった。

『アーサーアンダーセン消滅の軌跡』

1979年のコンサルティング分割案を否決したことは、アーサー・アンダーセン会計事務所が一層コンサルティングを強化していく決意を示したことになりました。その結果、数年後にはコンサルティングの売上は、アンダーセン全体の半分以上を占めるまでに拡大していきました。そしてそれは、カプニックの分割案否決から10年を経て、アーサー・アンダーセンが別の形でコンサルティング部門を会社分割することにつながっていきました。

さて最後に、アーサー・アンダーセンが会社分割を検討している裏で、他のBig8と中規模会計事務所の生き残りをかけた合併が起きていたことについて触れたいと思います。コンサルティング業務と国際業務での規模拡大を目的とした1980年代~1990年代の大合併時代がすぐそこまで来ているのが分かります。

1973年 Big8ランキング6位のライブランド・ロス・アンド・モンゴメリーと、クーパース・ブラザーズが合併し、クーパース・アンド・ライブランド(後のPWC)となる。

1978年 Big8ランキング5位のハスキンズ・アンド・セルズと、デロイト・プレンダー・グリフィスが合併しデロイト・ハスキンズ・アンド・セルズ(後のDeloitte)となる。

1979年 Big8ランキング3位のアーンスト・アンド・アーンストと、ウィニー・マリーが合併しアーンスト・アンド・ウィニー(後のEY)となる。

(参考資料)
『アーサーアンダーセン消滅の軌跡』(S・E・スクワイヤ/C・J・スミス/L・マクドゥーガル/W・R・イーク 平野皓正 訳)
『ビッグ・シックス』(マーク・スティーブンス著 明日山俊秀・長沢彰彦 訳)
『闘う公認会計士』(千代田邦夫)
『THE FIRST SIXTY YEARS』(ARTHUR ANDERSEN)

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