見出し画像

「いいね」の魔法

今年に入ってから体調が良かった。
今までよりも、睡眠時間が減り(といっても、十二時間が十一時間になっただけだが)、意欲的に行動することが増えた。
うつ病になって五年、体調が何ヶ月も優れていることがなかった私は回復したのだと信じて、嬉しくなっていた。
やっと周りの人と同じように生きていけるんだと希望に満ちていた。

だが、私にとっての夢の時間はそう長続きしなかった。
五月の下旬ごろから、体調が悪化した。
私は深く絶望した。
お前はダメなんだ。変われない。と言われているようで傷ついた。

そんな私はすがるように、高校の時の恩師に連絡した。
先生には高校時代、大変お世話になった。彼がいなかったら死んでいたと言っても過言ではない、私にとって大切な存在なのだ。

かくして、先生と電話することになった。
私は言いたかった。
「もう無理なんです。限界です」
「どうして私はこんなにしんどい思いをしないといけないんですか」と。

私の悲痛な叫びを彼は喜んでいた。
そして、「いいね」「いいね」と繰り返した。

決して私を馬鹿にしているわけではないのは伝わってくる。
けれども、こんなに困っている私にいいねかよ!と思わずにはいられなかった。なのに、私は彼の「いいね」を聞きたくなるのだ。

思えば高校の時からそうだった。
私が死にたいと訴えるのを聞きながら寝ていたこともある。
なのに、このいかにも適当な人に私は頼ってしまうのだ。

最初は怒りも沸きかけた先生の「いいね」はなぜか今も心に残っている。
絶望の中にいる私に向けたあの「いいね」の数々。
私はその言葉にすがってしまう。

体調悪くなったことに、私自身がまず一番落胆したが、それ以上に、周りの人の期待に応えられなかったことを申し訳なく思っていた。
なのに、先生はどう考えてもネガティヴにしか考えられなかった出来事を「いいね」と言った。私の弱虫で情けない姿を「いいね」と言った。

そう、彼の「いいね」は私の全てを肯定してくれたのだ。

いいんだ。
私はありのままの姿で。体調に波があって、生きるのが不器用で。
そんな私が「いいね」なんだ。

私たちはどうしても、出来事に評価をつけてしまう。
「いい」「わるい」は私たちの主観でしかないのに、それが正解だと信じて疑わない。
出来事はそこにあるだけで、本来どちらでもないということを忘れてしまう。

最悪な出来事にも「いいね」が潜んでいるし、最悪だと感じることができるということは生きているということだからそれはとっても「いいね」なんだ。

どんな時も「いいね」と笑い飛ばす、そんな強さが欲しいと願った。


最後まで読んでくださり、ありがとうございます。サポートしてもらえると飛んで跳ねて喜びます♪( ´▽`)