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Many Chain letters (5-6通目) | 「住宅の庭」

「Many Chain Letters」、今回は前回に引き続き「住宅の庭」をテーマとした寺田・橋本による往復書簡の5〜6通目を公開します。文中で紹介した建築作品の平面コラージュも制作しました。

5通目

橋本さんへ

 前回までは橋本さんの問題提起、どうしようもなくうまれてしまう「庭」(と呼べそうなもの?)の存在を、《コート・ハウス》(松岡聡・田村裕希,2018年)や《西所沢の住宅》(佐藤光彦,2001年)、《代田の町家》(坂本一成,1976年)や《中野本町の家》(伊東豊雄,1976年)という事例と通じて、歴史を遡っていくかたちで振り返りながら、考えていきました。「中庭」や「ヘタ地」といった形式、あるいは「住宅を開くことと閉じること」、「街や家族との距離感」といったトピックが出てきましたが、「中庭」に関しては橋本さんが70年代の象徴的な事例を丁寧に紹介してくれたので、少し「ヘタ地」について考えてみたいと思います。

 橋本さんの文章には「建蔽率からどうしようもなくうまれてしまう余剰の空間」という指摘がありましたが、「ヘタ地」もまた、どうしようもなさからうまれるものでしょう。*1 その抗えなさは都市計画によって決定された敷地境界線であったり、敷地境界線によって決定された後退距離や斜線制限といった前提条件になりますが、いずれにせよさまざまな条件から建物のヴォリュームが制限されていき、その制限がかからなかったところ、言い換えると建物が図だとしたら地のところが「庭」となるポテンシャルがあるわけですね。


 ですから庭は設計していった結果、残ってしまった領域として「ヘタ地」性を帯びやすいですが、一方で制限がかからない(もちろん、緑化率といった制限もまた、あることにはあるのですが)という意味において、制約に縛られることがなく、ひょっとすると敷地境界を超えていくような可能性もあると思っています。《コート・ハウス》の庭はそういう意味で非常に「ヘタ地」性のある庭だと思っていて、平面図に隣家の植栽を描いていることにその特徴があらわれていると思います。橋本さんはこの庭を「隣地境界への緩衝材」と表現していますが、さらに言うと庭は「住宅を開くことと閉じること」を考えるとき、周辺環境と敷地内とを接続する可能性のある概念として捉えることもできそうです。*2

 こうした観点から2つ、事例を取り上げたいと思います。
乾久美子氏の《ハウスM》(2016年)は敷地が都道によってスライスされたまさしくヘタ地です。敷地内に庭らしい庭は存在しないのですが、敷地のコーナーを隅切りして植えられたヤタイヤシと街路樹の関係が、「ヘタ地」性のオープンさを感じさせます。

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 乾久美子《ハウスM》の平面コラージュ  制作:寺田

 あるいは、妹島和世氏の《梅林の家》(2004年)は敷地境界線と建物の外形線が平行でない点に、「ヘタ地」性を感じます。住宅特集に掲載されたテキストにも「曖昧な余白」とあって意図的なものだと考えられます。この事例も庭らしい庭ではないかもしれませんが、植物が生い茂った今の状態*3は、作品名にあるような、まちかどの梅林を超えて、植物がまちを侵食していくような強烈さを感じました。

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妹島和世《梅林の家》の平面コラージュ 制作:寺田

 一先ず2事例挙げてみました。もう少し住宅の内部に踏み込んでいきたい気持ちがありますが、長くなりそうなのでまちにひらいたところで一旦ここで筆をおいてみます。

寺田

*1 中谷礼仁・宮本佳明 ・清水重敦,「先行デザイン宣言」,『10+1』No.37,2004年
*2 橋本純,「借景論 緑ばかりが借景ではない」,『TOTO通信』2019年夏号
*3『住宅特集』 2019年1月号でそのワイルドな状態が確認できます。 


6通目

 「ヘタ地」性を考えていくことは、今回の往復書簡においても重要そうですね。寺田さんが「ヘタ地」という言葉で読み解いた庭を、今回僕は「道路」という言葉で読み解いていこうと思っています。一見、前回と全然違う話のように感じるかもしれませんが、「ヘタ地」も「道路」もどちらも建築単体というよりも都市につながりの深い言葉であり、ここを手がかりに議論を整理していけそうな予感も感じています。以下で事例を見ながら、「道路」的な庭を紹介します。

 寺田さんがあげてくれた《ハウスM》(2016年)も、道路の街路樹と同化した庭と読めます。『小さな風景からの学び』*4 の実践として、道路沿いのベンチや街路樹がささやかな公共性を顕在化させていますよね。

 「先行デザイン宣言」特集にも関わり、環境ノイズエレメントの概念を提唱した宮本佳明の《S。H。》(2003年)では、玄関アプローチに坂道の滑り止めとしてよく利用されるドーナツ型滑止めが付けられています。*5 前面の大きめの側溝を跨ぐために、敷地外まで続いているアプローチは、リテラルに道路と繋がっており、私有地なのか公道なのか一瞬分からなくなる不思議な風景を形成しています。雑誌に掲載された平面図にもこの場所は「ランプ」と記載されており、「道路」的なメタファーから場所がつくられていることが伺えます。

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宮本佳明《S。H。》の平面コラージュ 制作:橋本

 

 また、よりリテラルな「道路」的な庭をつくっている事例に中山英之《家と道》(2013年)があります。*6 この建築は、建蔽率ギリギリ(37.92% 許容40%)のボリュームを2棟に分け、その間に室内的に使える中庭を配置したシンプルな計画で出来ています。しかし中庭は建物と同シルエットの大きな扉によって開閉できるようになっており、扉を開けた姿は周辺の道路と見まごうような不思議な空間になっています。細かい話ですが、道路を模したアスファルトの床面以外の場所も、戸建住宅に使われるような細かい砕石でなく、若干荒々しい雰囲気を持った大きめの石が用いられていることも、この庭が「道路」的に見える一つの要因のように思います。

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 中山英之《家と道》の平面コラージュ 制作:橋本

 他にも、事例にあげるまでもないくらい有名な作品ですが、西沢立衛《森山邸》(2005年)なども「路地」のような空間を庭に取り込んでいますよね。*7  我々が学生時代(2010年代初頭)、設計課題や卒業制作に路地をデザインソースとして取り込む人が多かったのも、雑誌に掲載されていた「道路」的庭の魅力ゆえかもしれません。
 今回の書簡では、これら「道路」的庭の社会的な意義まではまた考え尽くせていません。ともあれ、「庭らしくなくなった庭は、都市に似てくる」という見立てをすると、わりと面白いのでは踏んでいます。いかがでしょう。

橋本


*4 乾久美子+東京藝術大学 乾久美子研究室 編著,『小さな風景からの学び』,TOTO出版,2014年
*5 『住宅特集』2003年9月号
*6 『住宅特集』2019年12月号
*7『新建築』2006年2月号


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