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堂々と恥ずかしい宣言

最近「恥ずかしい」という言葉が自分の中でホットワードになっている。

「恥ずかしさ」は普段当たり前に感じるのに、言うとなるとなんだか素直になれない。

先日、部屋に人を招待することのハードルの高さについて後輩と話していた。人を部屋にあげると、キッチンのスポンジの種類から使っている化粧水まで、本来見られるべきじゃない生活の一部まで見られてしまう。そういうことに抵抗があって人を呼べない、と後輩がいう。なんなら人の部屋に行った時に、見てはいけないものを見ている気がして気が落ち着かないらしい。

「なんで?」と理由を聞いたら「恥ずかしいからです!」と答えた。

不意に「恥ずかしいんです!宣言」をされ、普段あまり感じない新鮮な気持ちになった。彼女の「恥ずかしい」は清々しく堂々としているのだ。
私は過度に自分に注目が集まりすぎていたり、何かうっかりミスする時に「恥ずかしい」と感じる。でもしっかり恥ずかしさを感じている時に限って「恥ずかしい!」と口に出来ない。恥ずかしいと感じていること自体が恥ずかしい、と思えてきて段々感情の収集が付かなくなってくるのだ。
そんなごちゃごちゃな状態でうまく言葉が出てこず、ざっくり「嫌」とか「苦手」という言葉でひっくるめて状況を表現していたと思う。
「恥ずかしい」と「嫌」を同じこととして表現してきたなんて、なんだか損をしてきた気分だ。

だって、恥ずかしいって思うことって嫌悪感と必ずしもイコールじゃない。恥ずかしがる可愛らしい後輩を見て思った。
恥ずかしいものをありのまま恥ずかしく感じていたい。「嫌い」とか「苦手」とかで隠したくない。
「好き」「嫌い」の間にある無数の言葉を知って、反射的に蓋をしてしまっている無数の感情と出逢いたいと思った。

それにしても、恥ずかしがるとどんな人でも愛らしさが増すのは一体何なのだろう。


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