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『福田村事件』と、『月』と。

「無知」と「思い込み」ほど、恐ろしいものはない。

福田村事件のことは、100年が経ってしまった昨年まで、知らなかった。
自分が生まれた日でもある9月6日、何気なく聴いていたラジオから流れた「今日は何の日」のコーナーで知り、あまりの惨劇に言葉を失った。
それで、『福田村事件』をどうしても観ておきたいと思ったのだ。

1923年9月6日。関東大震災発生の5日後、千葉県東葛飾郡福田村(現在の野田市)の100人以上の村民たちにより、香川から訪れた薬売り行商人15名が襲われ、幼児や妊婦を含む9名が殺された。行商団は讃岐弁を話していたことから、朝鮮人と疑われ殺害された。自警団8人が逮捕され、実刑となったものの大正天皇崩御の恩赦によりすぐに釈放された。

背景には、関東大震災の混乱から広がった「朝鮮人」にまつわるデマと差別があり、6日までに6000人以上の朝鮮人が虐殺されたといわれている。

そして、『月』。
2016年に実際に起きた、障がい者殺傷事件をもとに書かれた辺見庸の小説の映画化作品。
この事件もあまりに衝撃的で、犯人の言い分はあまりにもめちゃくちゃで、ニュースを観ながらこれは現実なのかと混乱したことをよく覚えている。
生産性のある人間って、どんな人?
人は何のために生まれてくるんだろう?と。


両作品に共通するのは、どちらも加害者が、あるターゲットを“生きるに値しない”と断定し、信念を持ってひとを殺めていることだ。

なんて怖い、と思うと同時にこれは他人事だろうか、と背中が寒くなる。

マイノリティな存在に対する無知や偏見が、差別を生み出す。
そのこと自体もとても問題だけれど。

そう「見える」「感じる」という理由だけで、わたしは「この人は自分とは“違う”」と決めつけ、無意識のうちにバイアスをかけて見ていないだろうか、と。
たとえば、性別とか、生まれ育った時代とか、環境とか。

この2本を観たのは昨年で、もうずいぶん時間が経っているのだけれど、思い返すたびに目が覚めるような気持ちになる。

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