見出し画像

危ういものだから、美しい。

 結局、卒業の日までこれからどうしたいのか結論が出なかった。
 そんな俺を見かねた祖父が、卒業までに進路を決められなかったら店を手伝うように言ってきた。
 表参道にあるヨーロッパの輸入家具を取り扱う小さい店で、四月からアルバイトを始めた。

 みんな当たり前のように大学へ進学する高校で、俺だけはどうしてもその当たり前に疑問を持ってしまい進路を決めないまま卒業した。

 小学校から入った学校で、自分の成績ならば問題なく付属の大学のだいたいの学部に入れるからと担任が説得してきた。
 それでも、何が学びたいか分からないで適当に入学するのは違うと思った。自分が適当に選んで席を埋めてはいけない。その席を必死で勉強して目指してきた人に譲るべきだ。

 今までは、疑問を持たずに高校生になって高校生だから勉強をしていただけだ。外部から高校に入ってきた他の生徒たちの熱心さに触れれば触れるほど自分の人生に対する熱量の低さを感じた。

 今日も祖父の店で、朝九時からエントランスの掃き掃除をしてドアガラスを拭き、展示している輸入家具を拭く。
 象嵌が施されているテーブルと椅子、葡萄の実や蔓が彫刻されているチェストや繊細なステンドグラスのようなランプ、それらに似合う生活雑貨。
 家具という用途に美術の要素を取り入れた優雅な無駄がこの小さい店に所せましと集まっている。無かったら、無いで困らないのだけれど、有ることで愉しみが加わる。

 商品のヴェチアングラスの食器類と一緒に、蜻蛉とんぼ蟷螂かまきりなど昆虫や鷹などの鳥、植物をモチーフに使った、プライスの無いランプや花瓶が数点飾られている。祖父が長年をかけて蒐集したものだ。
 近づいてよく見るとかなり生々しい。色彩を出す技術と装飾や彫刻の技術だけで温度や湿度が感じられるほどに生命力が表現されている。なぜか引き込まれる美しさがある。
 これらは、鍵付きの飾り棚から出して綺麗にする。この飾り棚も祖父が大切にしている曲線美と象嵌細工で知られるイタリアの家具メーカーのものだ。
 すべてが巧緻に作りこまれていて、掃除をするのにも神経を使う。しかし、面倒だとは思えない。埃をかぶせるわけにはいかない、と思う。

 とくに今日の掃除はいつも以上に気合が入る。祖父が社長という肩書で店にやってくる。普段はこの店の運営会社にいて、他の家具店に卸すための家具を買い付けて輸入している。この店は、そういった取引先に対するショールームのような役割を兼ねている。

 「おはようございます!」

 宮下店長の渋いバリトンボイスと社員の青葉さんの透明感のある声が重なった美しく統率の取れたボスへの挨拶が聞こえてくる。
 この店の主は、無くても困らないけれど有った方が愉しくしてくれるものを揃える事が好きらしい。家具の美しさだとか、社員のイケボだとか。
 俺はこの二人のようなイケボを発することはできないから聞き入ってしまう。毎週この瞬間は余韻に浸ってしまう。
 何とか切り替えて、拭いていた祖父の収集品をそっと置き、飾り棚と扉もそっと閉じて鍵をかける。急いでエントランスへ向かう。
 出ていかないと名前を大き目の声で呼ばれるから、恥ずかしいのだ。

 「緑野ろくや!ロク!ロクはどこだ?」 

 間に合わなかった。
 まだお客様がいらっしゃらない時間であることをいいことに、祖父は孫の名前を連呼する。宮下店長が、奥の方で掃除をしていますよ。と言ってもお構いなしだ。

 「はい!社長!おはようございます。」
 「なんだ、いるじゃないか。店開けるまでに時間があるから、これでも食べてコーヒーを飲みながら先週の様子でもみんなに聞かせてもらおうか。」

 祖父は、駅の近くにある洋菓子店の紙袋と黒い重厚な革製の書類鞄、裏地が紺と茶色、白のチェック柄のトレンチコートにフェルトの中折れ帽を僕に持たせる。
 洋菓子店の紙袋には、カラフルでどことなくノスタルジックなロゴマークが描かれている。向かい合う金髪の童女の髪を枝に模し青い鳥がとまり果実や木の実が実っている
 中身は決まって、チョコレートコーティングをされたパイのお菓子だ。祖父の好物で冷蔵庫にストックしているのを、こうして持ってきてくれる。
 頭を動かし始めるのには、ちょうどよい甘さだ。
 俺はこの荷物を受け取って、コーヒーを入れるために呼ばれるのである。

 受け取った荷物で両腕をいっぱいにして、応接室へ向かう。コートをハンガーにかけて、帽子と鞄はソファーに置いて給湯室へ急ぐ。
 こんな感じで、僕は午前九時から午後六時まで店の雑用をさせてもらっている。宮下店長や青葉さんが接客している間、顧客情報の整理をしてお礼状を作ることもあれば、発送する商品の梱包作業や納品されたものの検品などもする。

 祖父と宮下店長、青葉さんとコーヒーブレイクをしながらのミーティングにコーヒー一杯分だけ参加させてもらい自分の仕事に戻る。
 さっきまでの掃除の続きと、それが済んだら昨日から引き続いてお礼状の作成と夕方には新しい雑貨が到着するので、それを検品する事が今日の作業のメインになりそうだ。

 お礼状の印刷をしていたら、事務室の扉がノックされ青葉さんが入ってきた。
 「堀之内くん、社長と店長がまだ打合せしているからちょっと早いけれどお昼行ってもらってもいい?」
 「じゃあ、買ってきてここで食べますね。」
 「気を使ってくれてありがとう。でも電話出たりしなくていいからね。ちゃんと休んでね。」
 「ありがとうございます。」
 青葉さんも宮下店長も、すごく優しい。ふたりとも合間を見ては色々と教えてくれて、自分が出来る事も増えてきている。高校をでて最初の社会人経験としてはかなり恵まれている。もうかれこれ半年がたった。恵まれているからこそ、このまま甘えるわけにはいかないという思いも出てきた。さらにできることを増やして、会社や店に貢献できるよう邁進するか、自分の進路を他に決めるかしなければならない。

 俺が食事を終えて、そのあと青葉さんも食事に行って戻ってくると、祖父と宮下店長がまだ話し足りないようで連れ立って食事に出る。
 「じゃあ、青葉君、堀之内君たのむね。社長はそのまま会社にお戻りになるから。」
 宮下店長が青葉さんと俺に声を掛ける。
 「二人とも頼むな。じゃ、よろしく。」
 祖父は社長の顔をして店をあとにする。週に一回、店舗を訪れた時は決まってこの流れだ。

 午後三時ごろ、宮下店長が戻ってきてすぐに納品される予定の雑貨が届いた。今回は量が多い。戻ってきた宮下店長が、バックヤードに運ぶのを手伝ってくれる。
 「今日は量が多いから、検品手分けしてやろう。今日はあと青葉君に来店予約が入っているだけだから。」
 「ありがとうございます!」
 「今日の夜友達と約束あるって言ってたよね?」
 「すみません。お気遣いいただいてありがとうございます。」
 昨日、納品に備えてバックヤードの整理を宮下店長としているときに今日幼馴染の並木 東彦はるひこに会う約束をしていると話した。

 一昨日の晩、急に連絡があったのだ。東彦とは家が近所で、幼稚園から高校まで同じ学校に通った。東彦は、家業の酒類卸売会社を継ぐつもりで就職するために経済学部に進学して四月から大学生になっていた。

 しばらく会っていなかったので、作業をしながら宮下店長に大学はどういう場所なのかを聞いてみる。
 「モラトリアムだったな。大学を出た後は就職するつもりでも、明確に何がしたいって決まってもいなかった。だけれど、高校を出てすぐ働くとも決められなくてね。だから、大学に行きながら決めようと思った。大体の連中がそんなものでね、みんなその時を楽しんでた。」
 宮下店長は、昔を懐かしむかのようだった。
 「堀之内君の進学しなかった理由を聞いたときは衝撃だったよ。潔いな、と思った。だから、そんなにギャップを感じる必要ないと思うよ。」
 今いる環境が違うと、幼馴染でついこの間まで良くつるんでいたとしても話が合わないのではないかと急に心配になったのだ。

 四時半を過ぎて、青葉さんも商談を終えてバックヤードに来てくれた。
 「今日、納品多いんですよね。手伝います!」
 俺の方が若いのに、青葉さんは声が透き通っていておまけに雰囲気まで爽やかだ。
 「じゃあ、検品終えたのを梱包してくれない?売約済みのを明日にでも出荷したいから。」
 「承知しました!」
 宮下店長が渋いバリトンボイスで青葉さんに指示をする。それにこたえる青葉さんの声はまたしても爽やかだ。
 俺たち三人は、検品したり、エアーパッキンを切り分けたり、梱包したりを繰り返して明日には出荷できる目途が立った。そこで、時計は午後六時を回っていた。

 「堀之内君、六時だから上がってね。」
 「お疲れさまー!集荷依頼はやっておくから大丈夫だよ!」
 「宮下店長、ありがとうございます。青葉さんもありがとうございます。よろしくおねがいします。」
 宮下店長と青葉さんに退勤を促されて、給湯室脇にあるロッカーに行って作業用の上着を脱いでコートに着替えて外に出た。
 国道二百四十六号線沿いをひたすら歩く。電車で渋谷に出ても良いのだけれど、渋谷駅から脱出することがまどろっこしい。待ち合わせに指定した宮益坂の喫茶店にはその方が早い。祖父によく連れていかれる喫茶店だ。どことなく調度品の雰囲気が店に近い。

 喫茶店に着くと、東彦が手を振って声を掛けてきた。
 「ロク!こっち!」
 「お待たせ。」
 俺たちは未成年なので、居酒屋で待ち合わせという訳にもいかない。俺に合わせて職場近くまで来てもらうのにファミレスやファーストフードを待ち合わせ場所にするのも気が引けた。だから、祖父と良く来るこの喫茶店を指定した。
 「お前こんな店、普段から来てんの?」
 「おじいちゃんに連れてこられるんだよ。」
 「たしかに、あのじいちゃんならここに来そうだなー。」
 「あとさ、カレーとオムライスがうまくて、ケーキがうまい。」
 とりあえず、腹ごしらえをしなければならない。俺はオムライス、東彦はカレーをオーダーした。

 「それで、話したいことって何?」
 「いきなり本題かよ。食ってからでもいいじゃん。」
 「出来るまで少し時間があるから、その間に聞けるかと思って。」
 「そんな簡単な話なら電話で済ますって。」
  何となく、今日は東彦らしくない気がする。いつもはお調子者で、人をいかに笑わせるかを常に考えているようなタイプだ。
 「なんか変だな。気になるから早く話して。」
 「ったく、お前って頑固なのなー。一度思ったら小さい事でも絶対曲げないよなー。」
 東彦は俺の頑固さを昔から知っているので、勿体ぶることを早々に諦めて意を決したように水を一口飲んでから口を開いた。

 「竹美たけみのことだよ。」
 「え?竹美がどうかしたの?」
 東彦はそれだけ言うと、バツが悪そうな顔をする。
 「お前って頑固なうえに、鈍感だしそういうことは疎いんだな。」
 「呼び出しておいてなんなのさ。その言い草なくない。」
 僕はさっきから、頑固と言われてさらに鈍感だの疎いだのが加えられちょっと苛立ってしまった。
 急に幼馴染の梨本 竹美の名前が出てきてなんのことやら分からない。
 俺と東彦と竹美は家が近所で、三人とも幼稚園から高校まで一緒の幼馴染だ。竹美も東彦と同じ大学に進学して、法学部に進んだ。早々に法学サークルに入ったそうだ。体が大きくて四角い感じだけれど優しそうなOBの元検事さんが司法試験対策をしてくれるらしい。

 「それで、竹美がなんなの?」
 「あのさ、竹美に告白しようと思ってるけどいいか?」
 「なんで俺にそれ聞くの?」
 「お前、マジで鈍感な。」
 東彦が呆れてため息をつく真似をしてから、堪えられないといった感じで笑い出す。
 「あのさ、お前、竹美のことずっと好きなんじゃないの?」
 「へ?」
 いきなりそんなことを言われても、考えたことが無かった。竹美は幼馴染で、大事な存在だからそんなことは考えたことがない。
 「お前、二年の時に彼女出来てたけれど三か月くらいで振られてたよね。」
 「あっ、ああ。なんかね、振られた。」
 「あれってさ、竹美にその時彼氏が出来ちゃったから諦めて、その子と付き合ってるんだと思ったんだけど。」
 東彦はこんな俺の様子を見て、またしても困ったような呆れたような顔をしている。
 「いや、竹美にもお前にも彼氏や彼女が出来たから、俺も考えてみようかなって感じで。自分を気に入ってくれた子がたまたまいい子だったから。」
 東彦の表情が呆れている様子から、諦めに移り変わろうとしかけているのが見て取れた。
 「だからさ、俺は竹美が先輩に告られて付き合い始めちゃったから、諦めて彼女作ったんだけど。お前もそのパターンじゃないわけ?」
 諦めに移り変わろうとしている表情でも、東彦は少しでも俺が竹美を好きである可能性を探ろうとしているようだ。
 「そうじゃないよ。だから、ハルが竹美に告白しても構わないよ。仮に俺が竹美を好きだったとしても、ハルが俺に断りを入れる必要ないよ。事後報告で構わない。」
 東彦は諦めに移り変わろうとしていた表情が急に引き締まり、俺をまっすぐに見つめていった。
 「とりあえず、告白しないでおくから少し考えてみろよ。俺たち付き合い長いのに何となくこういう話避けてたしな。」
 「考えるまでもないって。」
 「一日でいいから考えろよ。今まで何となく避けてただけかもしれないからさ。」
 「いや、いいって。」
 そんな押し問答をしているところに、カレーとオムライスが運ばれてきた。
 「とにかく、一日でいいから考えろ。いいな。」
 東彦はそう言って、カレーポットからルーをライスの上に掛ける。俺は俺で、オムライスをスプーンで一口分切り取って口に運ぶ。
 バターとケチャップと卵の柔らかい香りとチキンの少し香ばしい香りが鼻の奥を抜けていく。
 竹美の話はこれ以上せず、東彦の大学のことや俺のアルバイトの話など近況報告や他愛もない話を食事後もコーヒーや紅茶とともにそれぞれガトーショコラとアップルパイを食べながら続けた。
 これがゆくゆくはお酒の席に変わる日がもうすぐ来るのか、と思いながら
アップルパイのリンゴに添えられたバニラアイスをつけて一口食べた。
 一応、明日一日だけ考えてみるか。と思った。


 今日も午前九時に出勤して、まずはエントランスの掃き掃除をしてドアガラスを拭く。そして、ドアノブが光るまで磨く。
 展示している家具たちを丁寧に拭く。考え事をしながらだと、こういう単純作業は逆にはかどるような気がする。
 葡萄の実と蔓が彫刻されているチェストを拭き、象嵌細工のテーブルと椅子のセットを拭く。
 ステンドグラスのような装飾が施されたランプの傘の部分を用心深く拭いて、祖父が大切にしている曲線と象嵌細工が美しい飾り棚の鍵を開ける。

 まずは売り物のヴェネチアングラスの食器たちを拭いていく。赤や水色、緑色に青といったグラスに金彩が施され可憐な白い花が描かれている。その白い花にわずかながら立体感があり、その花が取れてしまわないか心配で出来る限り優しく拭く。
 祖父のコレクションも、生命力を感じさせる細工の精巧さが繊細だけれど、東彦とした竹美の話はどちらかというとこのヴェネチアングラスに描かれた花のような繊細さだ。

 東彦に言われて、帰り道から寝るまで考えてみた。
 確かに、俺と東彦と竹美との幼馴染という気の置けない馬鹿な話をしながらふざけ合える関係を保っていたかっただけなのかもしれない。
 竹美に彼氏ができた時に、俺も東彦もなぜかそれについての話は避けたし、竹美ともその話はしなかった。

 だけれど、俺の竹美に対する気持ちって何だろう。小さいときから一緒にいた大事な女の子。その大事な女の子に特別な感情を一瞬でも持たなかったかと言えば嘘になる。彼女が中学に上がって、中学校の制服に身を包んでいるのを初めて見た時は目を奪われたし、高校生になって甘いけれど爽やかな花と果物の香りがしたときはときめいた。それと同時に、そんな自分をなんとなく嫌悪した。

 美しい色とりどりのガラスに施された金彩、そして可憐な花々。それは、人々にとって憧れのようなものだ。儚くて美しい花を、煌びやかで美しい金彩に閉じ込める。本物の花は、摘んだらいつかは萎れて朽ちてしまうから。危ういものだから、美しい。そして、その危うさを孕んだ美しさに憧れる。

 頑固だし、鈍感かもしれない、それに加えて臆病なのかもしれない。
 でも、俺は頑固に鈍感を続けたいと思った。
 こんな自分のために、ずっと好きだった女性への告白を待ってくれる幼馴染が俺は大好きだから。

 可憐な花を咲かせた色とりどりのガラス食器たちを飾り棚に戻して、昆虫や鳥、草花の生命力あふれるガラス彫刻のランプや花瓶などを拭いていく。

 お昼休みになったら、東彦に「告白、がんばれよ。」とメッセージを送ろう。
 それから、祖父の買い付けを手伝えるよう必要な知識を身に着けるために大学受験をしよう、と思った。

 ランプに描かれている鷹の目が鋭く光り「その覚悟は本物か?」と睨まれたような気がしたが、「本物だ。」と睨み返しておいた。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?