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チュポ=モティングの語る「PSG時代の思い出や、祖国カメルーンへの思い、今後のキャリア」

—— 以下、翻訳 (インタビュー記事全文)

ストークからPSG、そしてバイエルンへ。エリック・マキシム・チュポ=モティングは、センセーショナルなキャリアを歩んできたが、今後、さらなるタイトルを獲得できる可能性がある。彼の秘訣はこうだ。それは、常にリラックスすること。

エリック・マキシム・チュポ=モティングさん、あなたのキャリアは本当に飛躍しましたね。これは予期できたものではなかったのですか?

2018年、僕はストーク・シティとともに降格したが、確かに、その後にPSGから声がかかるなんて思ってもいなかったね。トーマス・トゥへルから連絡をもらったことで、嬉しさは一際大きかったよ。とても光栄なことだ。

ムバッペとネイマールをベンチから見ていて、不安な気持ちは生まれなかったのですか?

僕はいつも健全な自信を持っているんだ。交代で出場すれば、しっかりとプレーしたい。自分にできるという自信がなければ、パリには行かなかっただろう。移籍が実現するまでに時間を要したし、パリでは多くの人たちから色々と言われたね。でも、どうしてもやりたかったんだ。だから、他のクラブを断ってきた。そして最後は、本当にギリギリになってしまったが、期限最終日に契約書にようやくサインを交わすことができた。

パリでは当初、カヴァーニなどの世界的なスター選手らのバックアップとして、あなたは見られていましたね。バイエルンでは、レヴァンドフスキの代役を期待されています。これだけバックアッパーとしての役割が求められると、気持ち的に複雑なものがあるのではないでしょうか?

そんなことは全然ないね。レヴァンドフスキは現在の世界最高のストライカーであり、僕らがワントップでプレーするならば、たいていはレヴィが出場することになるだろう。それでも、バイエルンで出場機会を掴みたい。そして、これまでの経験から僕は知っている。FCバイエルンのようなチームでは、シーズン中の試合数が非常に多く、数多くの選手が必要になる。これは、シーズン開幕時には、さほど取り沙汰されないこともあるけれどね。PSGの時も同じだった。最初、僕は主力選手ではなかったが、徐々に重宝されるようになっていったんだ。

そして、あなたはクラブ史上最も重要なゴールを決めましたね。

PSGは、これまでチャンピオンズリーグ準決勝に進出したことがなかった。準々決勝のベルガモ戦を前にして、みんな本当にそこに辿り着きたいと考えていた。そしてもちろん、クラブ創設50周年の記念日を迎えたばかりだったこともあるね。だから、失敗は許されなかった。しかし、その後は何も起きないまま、1-0のビハインドとなってしまった。一部のフランスメディアはすでに89分の時点で、PSGには辛い敗戦として、マッチレポートを書いていただろう。僕は、このままでパリに戻るわけにはいかないと思っていた。

トゥへル監督は、79分にあなたをピッチに送り込みました。交代前に何と言われましたか?ネイマールよりも優れていることを世界に示すんだ、とか?

(笑)いや、もっと平凡なことだよ。彼が言ったのは、「さあ、全力でプレーしてこい!」だ。(試合終了間際に)同点ゴールが決まって1-1とした後、「よし、なんとかうまくいった。あとは延長戦に賭けよう」と思った。そのすぐ後だった。ムバッペが中央にボールを出し、それを僕がゴールに押し込んだんだ。その瞬間、もう全てが爆発したね。ロスタイムに入ってから3分の出来事だ。ひどく狂気の沙汰だったよ。

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PSGでは、あなたは1億ユーロ以上する選手たちと一緒にプレーしていましたね。あなたは、自身のキャリアではお馴染みの、フリーでの移籍でした。それはあなた自身や環境と関係があるのでしょうか?

僕やチームにとって、そんなのはどうでもいいことだ。しかし、ファンや記者たちは気になるだろうね。僕がプレーする一方で、6000万ユーロの選手がベンチに座っていたら、きっと疑問が出てくるだろう。

あなたは、ドイツ語に加えて、フランス語や英語も流暢に話せます。トゥへル監督は、あなたのチームに馴染む力を高く評価しています。スーパースターだらけのチームにおいて、あなたは監督の右腕のような存在だったのでしょうか?

今までの監督の中でも、トゥへル監督のことは一番よく知っている。マインツ時代に、一番長く監督を務めていたからという理由だ。だが、彼の右腕?僕らは仲が良く、ファーストネームで呼び合う関係だ。しかし、それと同時に、彼はいつも僕の監督でもあり、一定の距離を保たなければならない尊敬すべき人物でもある。あまりにも親密すぎると他の選手たちには変に映るだろう。いずれにしても、ロッカールームに入ってすぐに、僕はすべての選手に話しかけたわけではない。他の選手たちから僕に声をかけてくれたんだ。(ストーク時代の同僚)クルト・ズマと僕は仲良しで、彼がフランス代表チームにいるPSGの選手たち何人かと知っているということもあってね。

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あなたは温厚な性格で知られていますが、一方でトゥへル監督はよく頑固者に見られます。お互いにどう合わせていますか?

まず一つ目に、僕はいつも温厚というわけではない。素晴らしいプレーをした次の試合でベンチになると、イライラする時もある。でも、監督に言われて受け入れなければならないこともある。「マキシム、今日は最初から君を起用することもできるが、終盤に投入したほうが結果を残してくれそうな気がしている」とね。ただ、試合の流れが許さず、全く出番がない時には腹が立つね。

そして、二つ目は?

トゥへル監督にとって、パリで監督を務めるのは大きな変化だということは間違いない。彼がチームを率いていた時の頭脳明晰さと一貫性には感心させられた。もちろん、チームは様々なキャラクターで構成されており、何人かの選手たちにはこんなことも言ったよ。「さあ、時間を守ろう!監督にとっては大事なことなんだ!」とね。

この2年間、世界的な大都市パリでどのような体験をしてきましたか?

ファッションや、アーバンアート、ヒップホップが好きだ。だからこそ、パリは素晴らしいと思ったよ。ファッションショーにはよく行っていたし、マレ地区やポンピドゥー地区に行くのも好きだった。映画『ワイルド・スタイル』は知ってる?

80年代のヒップホップ映画ですか?

ああ、そうだね。僕が興味を持つテーマだ。アートが日常生活にどのような影響を与えるのか。そのほかに僕は、時々、スクーターに乗って街中を走り回ったりもしていた。建築物も本当に素晴らしい大都市だね。

PSGのプロ選手でも、普通に街中を移動できていたんですね。

スーパースターのムバッペやネイマールにとっては、ほとんど無理なことだ。僕にとっても、ドイツよりも過激だった。一緒に写真を撮ろうと、通りの真ん中でスクーターを降りてきた人もいたね。家族と一緒にのんびりと散歩したいと思うこともあった。でも、今ではこの生活を楽しんでいる。子供たちが生まれてからは特にね。それに、隠れて人生を送るのではなく、僕は人生に参加していたいんだ。

これまでに、自信を失う経験はありましたか?

怪我で離脱中は、サッカー選手にとって決して簡単なことではないね。突然一人になって無力感に襲われる。他の選手は普通に外に出て、プレーして、次のステップに進んでいる中、なんとか繋がりを失わないように努めることになる。2008/09シーズンには膝の半月板を損傷し、数ヶ月間プレーできなかった。こうした期間には、励ましたり気持ちを高めてくれる周りの人の存在が重要だ。でも、当時は、チュポはもう終わりじゃないか、という声もあった。簡単なことではなかったね。

スポーツ面ではどうですか?危機と呼べるものはありましたか?

オフェンスの選手としては、お馴染みの競争が重要だね。2試合、3試合と連続で得点すれば、すべてが素晴らしい。でも、2試合、3試合と点が取れないとプレーもやや固くなり、ネガティブなことを書かれたり、いろいろ考えたり、疑問も生まれたりするようになるね。でも、自分がシーズン25得点を決めるようなストライカーだとは思っていなかったので、うまく対処できた。父からは早くからすでに言われていたのだが、必ずしも多くのゴールを決める必要はなく、ストライカーとしての資質は他にもある。そして、純粋なストライカーとしてではなく、僕はウイングや後ろに下がってプレーすることが多かったね。

時には、称賛と嘲笑とが紙一重のこともあります。2019年4月、PSGがストラスブールと対戦していた時に、クリストファー・エンクンクのシュートをゴールに押し込むのではなく、ライン上で止めてしまいましたね。不思議なシーンでした。

あれは失態だった。あの時は、考えすぎだったかもしれない。何もせずにこのままボールは入るのか?それとも押し込む必要があるのか?そして、気づいた時にはもう遅かったね。

あのシーンが、ソーシャルメディアでどんどん拡散されました。スポーツ専門チャンネルDAZNは、「今年一番の失敗」という見出しを付けました。これはどう受け止めましたか?

何にでも、楽観的に捉えている。チーム内でも大きな問題になることはなかったし、ネイマールやカバーニなど、みんなが「問題ない、次はお前が点を取る番だ」と言ってくれた。サッカーの実力があるかどうかは関係ない。ファンの方も僕のことを悪く思っていなかった。いつも特別な関係にあったんだ。僕のことを気遣って、ファンがしばしば数分間僕の名前を歌ってくれた。いつも鳥肌が立つね。

ベルガモ戦でゴールを決めた時、あるPSGファンがこう投稿していた。「善い人は最後には報われるものだ。ありがとう、マキシム!」

傲慢にならないことだね。ストラスブール戦のあのプレーから数ヶ月後、トゥールーズ戦でゴールを決めることができたが、あんな風にゴールを決められる選手はそうそういないだろう。

ネイマールとカバーニは欠場でしたが、2ゴールで試合を決めました。最初の1点目はルーレットターンで、非常に狭いスペースで5人の相手選手を交わしましたね。あの技はどこで習得したのですか?

路上だね。僕はハンブルクのアルトナ地区で育ち、いつもサッカーのピッチにいた。僕のヒーローはエトー、ロナウジーニョ、ジダンだった。あの柵に囲まれた練習場が好きなんだ。今でも、どのサッカー場でもよく見るようになり、子供たちがそこでプレーするのを見るたびに嬉しくなるね。使われないことが増えたなと思う時があるんだ。最近の子供たちは、TikTokやプレイステーションで遊ぶことが多くなったんだろうね。

マインツの元スポーツディレクター、クリスティアン・ハイデル氏は、かつて「マキシムにできないことはない」と語っていました。とはいえ、正直、もっと上手にマスターしたいと思うプレーはありますか?

(熟考してから)ワンタッチで、アラウンド・ザ・ワールドを3回。それか、オコチャのトリックプレーかな。練習ではできるけど、試合だと?難しいね。やるなら、成功しないと笑われるだけだ。

あなたは選手ですが、同時にファンであり続けたと思いますか?

最初の数年間は、スーパースターたちと一緒にピッチに立つことができて、刺激的だったよ。僕がニュルンベルクにいた当時、バイエルンと対戦した時のことを今でも覚えている。当時まだ20歳で、ブンデスリーガでの経験もほとんどなく、60分に途中出場したんだ。最初にやったことは、フランク・リベリーにフランス語で「試合後、ユニフォーム交換をお願いしてもいいですか」と聞いたことだった。「パ・ド・プロブレム (問題ないよ)」と言われたね。その数分後、僕がゴールを決めて1-1にした。残念ながら、この試合は1-2と落としてしまったが、無事に彼のユニフォームは手に入れた。先日、実家でまたこのユニフォームを見つけたよ。

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2007年からプロサッカー選手として活躍されていますね。サッカー界は、ビジネスと試合、どちらの方が変化したと思いますか?

その両方だね。試合では、フィジカルが強くなり、スピードも上がった。そして、そこにはより多くの考えが込められるようになった。僕がサッカーを始めた頃は、試合に出ていいプレーをする、ということがよく言われた。その後、選手はより主観的に判断されるようになった。今日では、すべてがデータ分析されている。選手の価値は最高にまで上がったね。

選手としては複雑すぎますね?

今でもデータはあまり突っ込んで見ずに、試合を見ている。というのも、データは僕にとって決定的な意味を持たないこともあるからだ。例えば、あるデータの中には、メッシは全選手の中で最も走行距離が少なかったが、3ゴールを奪ったいうものもあったね。

そして、ビジネス面の変化はどうですか?

移籍金の値上がりが続いているね。今日では、選手を1,000万ユーロで獲得できるなら、ほとんどバーゲンセールのように思えてくる。10年前なら、これはトップスターの選手たちに支払われるような金額だ。しかも、何と言っても1シーズンから半年間だけ良いプレーをするだけで、市場価値が爆発的に上がることが多いのだ。そして、選手の年齢もどんどん若くなっている。昔は22歳ならまだ若手選手だったが、今はその年齢だと経験ある選手としてのプレーが求められることが多いね。だからこそ、31歳でバイエルンに移籍できたことを誇りに思っている。

サッカービジネスにおけるこの天文学的な金額に、納得感はありますか?

最終的に大切なのは、自分がどこから来たのかを忘れないことだ。これはそう簡単ではないこともある。このサッカーバブルの中で、これができない選手がいることも理解はできる。

あなたは大丈夫でしたか?

僕の場合は、両親がいつも大切な存在だった。貧乏ではなかったけれど、贅沢な暮らしをしていたわけでもない。僕は2ベッドルームの住まいで育った。19歳までプレイステーションは持っていなかった。でも、いつもサッカー練習場へ出掛けていたいと思っていたね。親友の多くは幼少期からの付き合いで、妻とは学生時代から一緒だ。そして、祖国アフリカのおかげで、現実的に物事を考えられるというのもある。

あなたの父親の家庭は、カメルーン出身ですね。

子供の頃から、毎年親戚の家に遊びに行くために親と一緒に飛行機で訪れていた。それが僕の心の拠り所になっていたんだ。そして、(カメルーン)代表チームとしてアフリを移動する時には、今でもそんな感じだ。ルワンダのような美しい風景の中を走ったり、プレハブ小屋で人々が生活しているような地域にも行く。ドイツとは全く異なる類の貧困だね。そこで僕は、ドイツがいかに恵まれているのか、自分がいかに優遇されているのかを痛感するんだ。

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ドイツ代表としてプレーすることもできたはずです。カメルーン代表を選んだ理由は?

カメルーン代表ではなく、ドイツ代表ならワールドカップで優勝できると思ってはいた。でも、これは気持ちの問題だったんだ。父親や多くの地元の人たちにとって、僕は誇りを持ってもらえる存在なんだと、目の当たりにしたからかもしれないね。現地でプレーする選手があまりにも少ないので、サッカーには別の意味があるのだと思う。

今日もしカメルーンの首都ヤウンデを訪れるとすると、どんな感じでしょうか?

父は事前に訪問を手配してくれる。そして、おばあちゃんに「近隣の3地域も人を誘わないでくれよ」と言うんだ (笑)。2014年のワールドカップ前はそんな感じで、祖母がミンボマン地区(首都ヤウンデの東部にある地区) の半分を招待していた。200人くらいいたような気がするが、もちろんみんな挨拶したかっただろうから、一人一人の時間という点では短くなってしまうことが多く、それはそれで残念だった。

エリック・マキシム・チュポ=モティング。あなたは、すべてを成し遂げたチームに移籍しましたね。不振に陥ってしまう危険性はありますか?

2014年のワールドカップ優勝後のドイツ代表チームのように、バイエルンも同じ道を辿るだろうと考える人もいるかもしれないが、僕はそうは思わない。ここでは誰もサボっていないし、それこそが有名なバイエルンのDNAだ。

ハンジ・フリック監督やハサン・サリハミジッチ取締役との契約交渉中、目標について何か話はしましたか?

いや、していないね。バイエルンでは、誰にとっても、目標は可能な限りあらゆるタイトルを獲得することだと決まっているのだから、改めてそのことを話す必要はないよ。

あなたのインスタグラムのページでは、ご自身のことを「ハンブルクの若者」と表現していますね。プロとして13年間、欧州を駆け回ってきました。ハンブルクが恋しいですか?

僕はハンブルクが大好きだ。北ドイツで最も美しい街だね。南ドイツで最も美しい街は、ミュンヘンだよ (笑)。ハンブルクに帰る時は、以前と同じく、両親もまだアルトナ地区に住んでいる。時にはエルベ川沿いの雑踏の中にいることもあるね。ジョギングをしている時の爽やかな風が大好きだ。PSGを退団してからは、ハンブルクでフィットネスを維持していたよ。

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それは古巣クラブでですか?

僕が昔所属していたクラブ、トイトニア 05 オッテンセン(現在は4部相当のレギオナルリーガに所属)でそれをやっていたら、確かに楽しかっただろうね。でも、怪我のリスクが高すぎる。そのため、幼少期の頃のサッカー練習場で、父親と一緒にトレーニングをしていた。ここは、今では人工芝になっていたね。

先日、俳優のペーター・ローマイヤー氏はこう述べていました。「マキシムはいつかハンブルクに戻り、35歳でザンクト・パウリでプレーするだろう」。これは、それほど仰天なことでもないですよね?

ペーターと彼の息子ルイスのことは、よく知っている。かつてアルトナ93では、ルイスと一緒にプレーしたこともある。いつかハンブルクに戻りたいと思っているよ。そうだね、もしかしたら、また古巣のザンクト・パウリかHSVのどちらかのクラブでプレーする可能性もある。HSVの人たちはいつも「HSVだけだ!」と言っている。でも、みんな、申し訳ない。僕にはザンクト・パウリの心もあるんだ。

▼元記事
https://11freunde.de/artikel/okay-l%C3%A4uft-doch-ganz-gut/3303129?position=seiteninhalt&komplettansicht=#seiteninhalt



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