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作品が完成する時

「作品が完成する、ってどうやって決めるんですか?」

絵を描いていると、時々、そんなご質問を頂く。答えは「なんとなく」だったりする。なんとなく完成したな、と感じる瞬間、筆を止める。それだけ。

でも、それだけじゃ物足りないので、「なんとなく」の正体を考えてみる。まずは、絵を飾って見たときに「すーっと入ってくるか?」である。存在感はあるけれど、壁に馴染む、そんな状態になっているか?それをその時の自分の状態で判断している。

あくまで、“その時の自分の状態での判断“なのである。イケメンがいきなり、カエルに見えるカエル化現象よろしく、時が経つと、完成した絵に気持ち悪さを覚えることもある。だから、手元にある私の絵は、時々、変化して、育っていく。でも、売れなくても、そのままずっと「完成した作品」として、出会いを待っている絵もある。

そして、「壁に馴染む」の中にはいろんな要素がある。色合いのバランスとか、繊細さと大胆さのバランスとか、陰影のバランス、楽観と悲観と両方ともが絵の中に入っているか、とか、なんか紐解いたら、たくさんの要素がある気がする。それらを「なんとなく」自分の中で見つめて決めている。

たくさん要素があるから、完成まで、細かい最後の調整に時間がかかる時もある。ひたすら細かい筆を重ねて、重ねて、重ねて、重ねて…、これだ!と感じる瞬間まで筆を重ねる。そんな絵はとても思い入れが強い絵となる。でも、ライブペインティングで数時間で描いた絵が「これはこのままで完成だ!」と、バシッと決まる日もある。それはそれで、とても好きな絵で、その瞬間の熱量がこもっている気がしている。

どちらの作品も絵に込められた熱量は「なんとなく」同じなのだろう。数時間で描いた絵も、長時間かけて描いた絵も、どちらも「これがいい」と言ってくださる方がいる。ご本人は気付いていないかも知れないけれど、同じ方が長時間かけた絵と数時間で描いた絵と両方コレクションしてくださっている場合もある。

一つだけ言えるのは、面倒臭いことを避けると、絵は完成しない、と言うことだ。例えば、一面を点で埋め尽くそう!とおもいついてしまった時。これは、私の中で、すごく面倒な作業なのである。私はひたすら丸を描くのは嫌いじゃなくて、いくらでも描ける。だけど、ひたすら点を打つのは面倒臭くて、途中で飽きちゃうのだ。

でも、おもいついてしまったら、やるしかない。飽きたら、筆を止めて、次に気が向いた時に点を打って、また飽きたら手を止める。そんなことを繰り返すから、かなり時間がかかるけど、おもいついてしまったからには、最後までやる。

これを、面倒だから、他のやり方で簡単に終わらそう!って、やっちゃうと、やっぱり、いつまで経っても完成しないんだよね。いそがば回れである。自分でどこかで妥協しちゃうと、その妥協の気持ちを打ち消すのに、余計な手間暇がかかる。だから、引っ掛かりがあったら、そこはとことん向き合うし、おもいついちゃったら、やるのである。

でも飽きたら一旦手を止める。“こなし作業”になってしまうと、それはそれで、絵は完成しない気がしている。あと、やっぱり途中でやめた方が美しい!ってなることもある。それは面倒を避けるのとは違ったりするので、その瞬間の判断を大切にしている。

そして、時間をかけたらかけた分だけ、熱量が高まるわけでもなかったりする。時間をかければかけるほど、その絵に囚われてしまって、「ここまで頑張ったんだから良い絵になってくれないと!!」と、勝手に私は期待してしまう。でもさ、そんな絵は残念ながらボツになることが多い。正確には、部屋にずっと残されて展示には出されない。

そーいうときは、その絵を破壊しちゃうに限る笑 ある日、ふと、子どもたちと遊びながら、一緒にその絵を他の色で塗りたくったりしちゃう。すると、新たな構図が生まれてきて、「おぉ!」と楽しくなって、あっさり絵が完成しちゃう時もある。だから、私のアトリエには描きかけの絵がたくさん並んでいる。余った絵の具とか、こどもたちの要望とか、ふとした一手をその並んでいる絵に加えた時、いきなり絵が完成していく。

そんなわけで、今日も今日とて「なんとなく」作品が完成していくのである。

3-5年後に家族で世界に飛び出します、たぶん◎