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魂は残された人の心の内側に宿る

“魂は生前関わりのあった人たちの心の内側に宿り、仏となって見守る”

94歳になったばかりの祖母を、今週の水曜日に見送ってきた。食べたり、飲んだり、することがなくなった最期の10日間は、自身の生命力で、静かに静かに生を閉じていったようである。

食事が取れなくなって5日ほど経った頃、94歳のお誕生日を迎え、その翌日、私も子どもたちを連れて、会いに行くことができ、祖母は目を開け迎えてくれた。言葉を交わすことはもうなかったけど気配は感じて貰えていたのかも知れない。(自分がそうなる時まで、どんな感覚なのか想像もつかないので、こちらの良いように捉えてみることにする◎)

冒頭の言葉は15年程前に祖父を見送った時、お坊さんから伺ったお話なのだけど、その後、母や友人とお別れした時にも、私を支えてくれた御守りとなった言葉。同じお寺さんで見送ったので、今回も同じようなお話を伺うことができ、私自身の今までが多くの人によって創られていると、改めて感じることとなった。


10代の終わり、大学入学からの2年弱、祖父母の家に居候しながら大学へ通った。美味しいご飯を毎日いただきながら、親族であっても他者と住むことの難しさも知ることになった。共に暮らすことで、離れていたら知らなかった陰も見えて、でも陽の部分もたくさんあったはずなのに…!上京当初は東京生活に取り憑かれてもいて、自分の内側でも外側でもいろんなことが起きていた時期でもあって、未熟な私は色んなものと向き合いきれずに逃げてしまった。

当時、あんまり家に帰りたくなかった私は、ボランティア&サークル活動やバイトや飲み会を入れまくって、夜遅くに帰ったり、週末も家にいなかったり、10代最後の非行?に走っていたけど、、、祖母が元気なうちにもっと穏やかに
共に過ごす時間を作れたら良かったな…と、後から感じたりもしていた。(そこで出会った様々な活動の仲間や飲み仲間達が今の私を支えてくれてもいるんだけど。)

そんな不出来な孫だったけど、娘や息子と共に会いに行くと、もう誰の子かわかってないだろうけど、それでも喜んでくれて、だから、最期、ほんの少しでも、こどもたちと共に、祖母に会うことができて良かった。


祖母や母が生きているうちに、上手に向き合えなくて、後悔した日々があるからこそ、私は夫と家族になってから今まで、死に物狂いで向き合っているし、素直に感情を爆発する娘も可愛く見えるし、最初は険悪?だった義母との関係も今では仲良し(と少なくとも私は感じている)に、なるまで向き合ってきたのかも知れない。

家族と真剣に向き合うことを諦めない姿勢は今の私を支える軸となっているよううに思う。娘として孫として、上手に母や祖母と向き合えなかったと、散々自分を責めて、たくさん落ち込んだのだけど…、まぁ、もうこの世にいない人、相手に自分を悔いても改めることはできないのである。だから、まずは身近な家族達への態度という形で少しずつ改めているところなのだ。いまだに未熟な私は向き合えることはあまりないのだけど、でも、逃げ出すことはしなくなった。

“魂は生前関わりのあった人たちの心の内側に宿り、仏となって見守る”

仏となった母や祖母のお陰で、乗り切れている数々のものを胸に私も誰かの仏となれるよう現世で精進しよう。そう感じる日々である。

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3-5年後に家族で世界に飛び出します、たぶん◎