「えらい人」は、ほんとうに「もち上げられたい」のか。
インタビュアー宮本恵理子さんの著書『聞く技術』のなかにこんなことが書かれていました。
※ここでいう「話し手」とはインタビューを受けている「えらい人」のことで、「読者」とはそのインタビュー記事を読む人のことを指しています。
著者の宮本さんは、2001年に出版社に就職して以来、20年にわたって「聞く」仕事に携わってこられました。これまでにインタビューされたかたは、2万5000人を超えるのだそうです。単純計算だと、1年に1250名のかたとお話しされていることになります。1日平均になおすと、3.4人ですか。すごいペースですね。。
そんな宮本さんが、いわゆる「えらい」と思われている人は、じつは、まわりの人と距離を縮めたいと思っているよ、と教えてくれているんですね(ここでは、読者を「まわりの人」と読み替えることにしました)。
そういえば、会社の上司や部活の先輩に対して、その人たちのいいところを(ときに過剰に)褒めていい気分にさせることを「もち上げる」と言ったりします。「キミはもち上げるのがうまいなぁ~」といった感じで使われますね。ぼくもむかし何度か言われたことがあったような気がします。
そして、いまは管理職の立場になり、その「もち上げられる」対象としての一面も持つようになりました。ですが、正直に言って「もち上げられるのは、ちょっとヤだなぁ」と思います。その理由は、宮本さんがおっしゃっているのとだいたい同じです。宮本さんのことばをお借りするなら、まわりの人と「距離感」が遠くなってしまう気がするからです。
「えらい人」というのは、だいたいウエのほうにいます。ウエというのは、組織のピラミッドで考えるときのウエだったり、あるいは戦国時代において天守閣が城主の居場所だったときなんかは、物理的な三次元空間としてのウエだったりしました。ウエにあることは「えらい」ことの象徴なわけです。そして「もち上げる」というのは、そのことばの通り、相手をウエへ ウエへと押し上げて「えらい」を感じてもらおうとする行為です。
一方で、よく「経営者は孤独だ」と言われます。これもピラミッドで考えればわかりやすいですね。ウエにいけばいくほど細くなっていく。つまり、同じ境遇の人が少なっていくわけなので、ウエにいけばいくほど孤独になりやすい。そういう話です。
さて。タイトルに戻りましょう。
「えらい人」は、もち上げられたいのか。
人それぞれだとは思いますが、本気でそれを望んでいる人は少ないんじゃないかなと思います。もち上げられて、ウエにいけばいくほどまわりとの「距離感」が遠くなり、孤独を感じやすくなるからです。宮本さんが「距離感を縮めたいと思っているから」と理由づけたのもそういうことだと思います。
では、なぜ「もち上げる」ことが一種の処世術として存在しているのでしょうか。それはこれまでシタだった人が、ウエにもち上げられることで目立ちやすくなり、承認欲求を満たすことにつながるからです。
どんな欲であれ、自分の欲を満たしてくれる人は、自分にとって必要な人に思えます。逆説的には、「えらい人」から必要とされたいのであれば、「えらい人」の欲を満たすことが必要で、そのためにはあたり前に「えらい人」の欲がどこにあるのかを把握しておかなければいけないということが言えそうです(欲というと、なんか下世話なにおいがするので、やや冗長的になりますが、「やってもらえると嬉しいこと」と読みかえましょう)。
「えらい人」がやってもらえると嬉しいこと。それはたぶん、「もち上げて」孤独を感じさせることではないと思います。少なくとも、ぼくはイヤですね。。「えらい人」だからという理由で、短絡的にウエにもち上げるのはやめておいたほうがいいんじゃないかな、と思います。
【参考】
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