【第487回】『64-ロクヨン-後編』(瀬々敬久/2016)

 『64』は前編後編共に、極めて印象的な雨で始まる。前編では手に繭玉の枝、赤いバッグを肩にかけ、いつものような笑顔で出掛ける少女が、朝からフル稼働中の工場の音にかき消されることのない大声で「行ってきます」と元気良く挨拶をする。その時はからっとした晴天の気持ち良い日である。しかし少女誘拐事件が起こり、刑事の松浦(三浦友和)と三上義信(佐藤浩市)が緊張の面持ちで、漬物工場で併設された雨宮(永瀬正敏)の居住スペースを訪れる夜、昼間とは打って変わりおびただしい雨が降っている。後編でも夜の深い闇の中、一台の電話ボックスから電話をかける時、ボックスの外にはまさに激しい雨が降っている。この一連の雨のイメージの連鎖は、そのまま昭和64年に起きた事件と、平成14年12月に起こる事件とを極めて緊密に結びつける。実際に警察内部にいる三上は、元刑事の嗅覚としてこれら2つの事件の点と点が、1つの線になることを直感的にわかっている。前編はその三上の烈しい胸騒ぎの瞬間をまさにクライマックスに設定した。県警記者クラブとの軋轢、刑事部と警務部の権力闘争、キャリア組上司との衝突との狭間に置かれ、文字通りあらゆる対立構造の矢面に立ち、まさにサンドバッグ状態で受け身に徹した三上の姿が強烈に印象に残った。前編は銘川老人の感動的なエピソードでお涙頂戴でも良かったはずだが、瀬々監督はあえてそこを結びには持ってこず、予感めいた啓示を結びに設定した。

それゆえに今作も開巻早々から最初の40分間は、前編以上に図式化した凡庸なやりとりに終始する。県警記者クラブの野次のようなアジテーション、瑛太の全てを諦めたような表情。前作であれほど銘川老人の感動的なエピソードに共鳴したはずの県警記者クラブ=インディーズ俳優陣の、手のひらを返すような厚顔無恥ぶりには、設定とはいえ少々うんざりさせられる。前編では64事件の捜査と県警記者クラブとの摩擦とを均等に描く監督の手腕は確かに素晴らしかった。それゆえある程度のおさらい映像を経て、再び繰り広げられる息苦しい力の入ったやりとりは苦しい。だが前編でサンドバッグ状態で身を呈して痛みを受けた三上が、今作では刑事部捜査二課長の落合(柄本佑)や広報室の3名をひたすら弾除けにし、身軽に動き回る姿がひときわ印象的に映る。今作を形作るのは、父親になれなかった三上の自分探しの心の旅に他ならない。一貫して良き父親になれなかった三上、良き父親になれたはずだが、幼い娘を奪われ良き父親になることを最初から奪われた雨宮、それに良き父親を装いながら、実は鬼畜のような誘拐殺人に身を染める真犯人の男という父性の3つのレイヤーを往来しながら、三上の心の叫びを静かにあぶり出そうとする。長官の視察中止の報を受け、平謝りするために雨宮家を訪れた三上と雨宮の再会シーン、卑屈になる三上を雨宮が慰める極めて印象的な場面である。雨宮の「大丈夫ですか?」という簡略化された言葉に込められた複雑な感情、14年前に確かにそこにいた娘の面影を残す自転車や遊具、メーダマが娘の失踪事件以降、娘が暮らしていた空間をおそらくそのままにしていたであろう三上夫婦の想いと共鳴する。見知らぬ他人同士がある日、何かのきっかけで一線を越えてしまうことはあるが、それが元刑事と被害者遺族の14年後に波紋をもたらす。極めて凡庸だった前半部分を経て、中盤以降には松本清張、横溝正史ら昭和のミステリーの系譜が至る所に充満している。独特の乾いた色味、抑制された音楽のトーン、役者たちの重厚な演技が滑らかにアンサンブルを築く。

前編の批評で述べた日吉(窪田正孝)へのたった一文だけの手紙、幸田メモのその後、秋川(瑛太)の涙など物語の成立に不可避な伏線は、今作で余すところなく丁寧に回収される。その極めて論理的に積み上げられたロジックを紐解く瀬々監督と脚本家である久松真一の的確な手腕には、賞賛を禁じ得ない。推理ミステリーに不可避な回想さえも最小限に留め、凡庸になりがちな犯人の動機の独白には一切の時間も割かない。後から振り返れば、前半の情報過多で理詰めな展開は、後半の事件-行動という刑事モノの鉄則から解放され、三上と雨宮、真犯人の感情の余白に寄り添うようなゆったりとした筋道の結びへと帰結する。ここで重要なのは一貫して父親になれなかった男の総括であり、人間としての本能であり、男としてのケジメに他ならない。だからこそ小説とは決定的に違う結びの決断が極めてロジックに立ち現れる。一つだけ難があるとすれば、チョン・グンソプの韓国映画『悪魔は誰だ』と話の筋立てが極めて似ていることだろう。私は前作の批評の結びに「永瀬正敏の殊勝な被害者っぷりに、大河原孝夫の『誘拐』を思い出さずにおれた人などいるのだろうか?」と書いたが、今作を観終わった時、果たして相米慎二の『魚影の群れ』や山田洋次の『息子』を思い出さずにおれた人などいるのだろうか?フィクションとしての人物たちを演じる役者は生身の人間であり、そこには役者たちのフィルモグラフィや生い立ちを踏まえた万物流転の役者としての宿命が確かに息づく。近年の『起終点駅 ターミナル』や『愛を積むひと』、『人類資金』では勢い勇み過ぎたあまり、全体のアンサンブルを損なっているように見えた佐藤浩市の演技は、今作の三上という当たり役を得て、キャリア屈指の輝きを得ている。綾野剛や榮倉奈々、窪田正孝や柄本佑などまさに今が旬な若手俳優たちを惜し気も無く起用しながらも、吉岡秀隆、筒井道隆、赤井英和、緒形直人、鶴田真由などかつて第一線を走っていたが、残念ながら現在ではあまり光の当たらない役者たちに、システマチックではない再起のチャンスを与えた瀬々敬久の手腕はまさに天晴れの一言に尽きる。その化学反応こそが本作の裏テーマであり、醍醐味でもあろう。長らく映画館から遠のいている層にこそ、この4時間の重厚なドラマを薦めたい。

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