【第242回】『ニンゲン合格』(黒沢清/1999)

 黒沢清が『CURE』により国際的な名声を勝ち得るまでには、商業映画監督デビューから実に15年もの歳月を要した。それは後輩である青山真治や篠崎誠よりも、商業映画デビューが黒沢よりも遅かった北野武や諏訪敦弘や岩井俊二よりも遅かったのである。だが『CURE』以降の国際マーケットでの黒沢清の評価は高く、『ニンゲン合格』がベルリン映画祭に招待されたのを皮切りに、続く『カリスマ』はカンヌ映画祭、『大いなる幻影』はヴェネチア映画祭に招かれ、いずれも好評を博す。

けれど国内での『CURE』の興行成績はいまひとつ芳しくなかった。奥山和由の「シネマ・ジャパネスク」のラインナップとして製作されたこの映画は、上映のタイミングがちょうど奥山父子の松竹のクーデターによる追放劇と重なってしまう。『うなぎ』『東京夜曲』『バウンスkoGALS』『SADA』などの数多くの良質の映画を生んだ「シネマ・ジャパネスク」は唐突に終わりを迎えることになる。それでも大映からは『CURE』『蛇の道』『蜘蛛の瞳』に続く第四の黒沢映画のオファーが届いていた。黒沢はここで『CURE』とはまったく別のベクトルを持った作品を想起する。それは実に真っ当な家族の物語だった。

10年間昏睡状態が続いていた少年・豊(西島秀俊)が、ある日ふと意識を取り戻す。生命維持装置を外し、男はベッドから転げ落ちる。こんなことが実際にあるならば医学的見地から言って奇跡だろうが、映画はその奇跡を簡単に受け入れる。奇跡のような場面の人物の配置がまた素晴らしい。奥の部屋で主人公は横たわっている。その手前の部屋で看護師は黙々と作業を進めている。この何気ないショットの中に黒沢はこちら側とあちら側を強烈に意識させるのである。今作はホラー映画の手法を大胆にファミリー映画の枠組みの中でやっている。

急に10年間の昏睡状態から目を覚ました彼の引き取り手は、血を分けた父親でも母親でも妹でもない。藤森岩雄(役所広司)という父親の大学時代の友人で、今は彼の生家で釣堀を経営している男だった。彼は10年分の歴史が詰まったVTRや雑誌を病室に運び込むが、豊かはそれらに一切興味を持とうとしない。ロシア崩壊はおろか、マイク・タイソンさえ知らない24歳の青年が、突然現代の日本に放り出されるのである。退院後、すぐに電車に乗るものの、豊は自分の置かれた状況に耐え切れず、草むらを駆け抜ける。その後冷静になり、駅へと戻った豊は藤森にお尻を思いっきり叩かれるのである。

今作はまるで『東京物語』の変奏曲のような作品である。退院した豊が信ずるべきは、血を分けた肉親よりも同じ家で暮らす赤の他人であるという皮肉。通常の家族の物語ならば、家族の向かう道筋は再生か崩壊かどちらかしかない。けれど今作では後の『アカルイミライ』での突拍子もない「お前たちを許す」の台詞のように、赤の他人である藤森の「俺はお前の親父でもなければおふくろでもない、自分で決めろ」の言葉に閉じてしまった記憶と生の意欲を回復させる。

豊は愚直なまでに家族の再生を願っている。その手段として、彼が眠っていた10年間のうちに畳んでしまったポニー牧場を再建することが、家族を再生させる一番の近道だと信じて、黙々と作業に励む。前作『CURE』でヤクザの親分を演じた鈴木ヒロミツが、ここでも馬を盗まれた地元の名士の役を熱演している。馬はやがて豊の家の敷地に居ついたために、彼は馬が勝手に侵入したと訴えるものの、鈴木ヒロミツにはその言葉は通用しない。やがて殺し合いではない子供のケンカのような状況に至るのである。

今作は脇を固める俳優陣もまったく隙がない。後の『カリスマ』でファム・ファタールの役を嬉々として演じることになる洞口依子は、街を颯爽とキックボードですり抜ける謎の美女として出て来る。結局彼女はあからさまな演出上の都合として、うず高く積まれたダンボールの山に突っ込むことになるのだが、今作のファニーな佇まいには彼女の存在が欠かせない。彼女の見せ場としては、あの最もインパクトのあるジャズバーの場面であろう。青山真治などが客席に陣取る中、少し遅れたジャズ・シンガーはテーブルの脇をすり抜けるかのように、ミュージカルを歌う役柄を嬉々として演じている。まるで「歌う映画」が再びやって来たかのように、この映画において洞口依子は何よりも輝いているのである。

それは菅田俊も然り、大杉漣も然り、哀川翔も然りであろう。菅田俊は父親にもかかわらず、役所広司よりも幾分影の薄い役柄を演じているが、彼も決して豊を愛していないわけでない。グレープフルーツ・ジュースを自販機に買いに行く豊についていくという名目で、彼は執拗に豊についていこうとするが、横移動の際に上部にあった障害物に阻まれる。その後も寝ている豊を見守る場面は、明らかに幽霊が座っていてもおかしくない描写である。この菅田俊という俳優は、コメディアンとしての天性の才能を隠している。それが黒沢映画においては少しずつ溢れ出て来ているかのようである。

哀川翔は豊の妹(麻生久美子)の彼氏として、吉井家の土を踏む。彼は極端なネガティブ・シンキングでありながら、どこか憎めない好青年である。黒沢は『CURE』の時に実現出来なかった役所広司と哀川翔の共演を、今作でやってのけた。主人公そっちのけで、役所広司と哀川翔が運転席と助手席に乗った場面は、黒沢ファンとしてはやはりこみ上げるものがある。役所広司の器用な佇まいと、哀川翔の哀川翔でしかない佇まいが衝突を起こし、役者同士の緊張感を伝えるのである。

大杉漣は豊を10年間、昏睡状態に追いやった加害者である。前半の場面で、大杉漣と西島秀俊のはっとするようなクローズ・アップでの切り返しがあったが、やがて卑屈になり、あの凶行へと及ぶ人間としての度量の狭さやせせこましさのある役柄を熱演している。その突然のヒート・アップの仕方は『悶え苦しむ活字中毒者 地獄の味噌蔵』以来ではないだろうか?クライマックスのチェーンソーを持ち出す場面は明らかに『悪魔のいけにえ』のレザーフェースへのオマージュだろう。

それだけに留まらず、本編ラストのあの場面はサム・ペキンパー『砂漠の流れ者』への実に無邪気なオマージュだろうし、あの葬式の場面もテオ・アンゲロプロスの長回しへのあっけらかんとしたオマージュに他ならない。そういう随所に散りばめられた映画史の引用が、普遍的な物語とは別に今作のルックを決定付ける。

豊が夢にまで見た家族の風景は、フレーム内に現れた受像器の映像で皮肉にもふいに現される。そこでは生身の人間がVHSという媒体の向こう側にいる人間の気配を感じるのである。こちら側があれば、その一方であちら側もあるという至極真っ当な世界のルールを、黒沢は巧妙に忍ばせようとしていた。その世界の法則がアメリカ同時多発テロ事件以前の黒沢の世界観をゆっくりと支配していく。それはあまりにも鈍重な動きを持ちながらも、確かにゆっくりと始動していた。黒沢清の映画はその世界の抑圧や不均衡と共に、国際マーケットへと打って出るのである。

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