ポエム

沖縄の漆喰シーサーは、今ではすっかり人気のお土産品だが、これは家をつくって瓦屋根をふくときに、余った漆喰や割れた赤瓦で作るものだった。瓦屋根をふくのは、生活に必要な仕事であって、別にみんながみんな好きでやっているわけではないだろう。しかしその大変な仕事の「余力」から、漆喰シーサーのような別に作っても作らなくても構わないものが生み出され、瓦屋根ぶきの仕事をした人や見る人を癒していると思うと、ますますこのシーサーがいじらしくなってくる。

人間は生きていくうえでいろいろな面倒ごとをこなしていかなければならないが、それを少しでも楽しいものにするために、その面倒ごとの中にちょっとした一工夫や遊び、もっというと「別にしてもしなくても構わない無駄」を入れこむ。ウィリアム・モリスは、労働の中にこうした「アート」が入りこんで労働の苦しさをいやしてくれるのは、人間に神が与えたギフトである、というようなことを述べている(『民衆の芸術』)。

もっと卑近な例もあると思う。つまらない勉強をしているときに教科書に落書きをしたり、嫌な営業をするときに取引先のことを裏でちょっとイジってみたり。こういうのは世間的には褒められたことではないかもしれないが、しかし必要なことなのだろうと思う。

「生きることは苦しいこと」というのは、釈迦の頃から言われてきたし、最近では反出生主義が声高にこのことを唱えている。これは正直、その通りなのではないかと思う。人間に限らず生きとし生けるものすべてがそうである。食べること、寝ることなどは喜びといえば喜びだが、しかしそれらは喜びというより空腹や疲労といった「苦痛の回避」に主たる目的がある。この苦痛そのものが、生まれてさえいなければ、生きてさえいなければ感じることはない。しかし生まれてしまった以上、この苦痛の回避を己の運命と受け入れて生きていくしかない。死んでもいいが、死ぬこと自体が最大級の苦痛なので、けっきょく苦痛は回避できない。

しかし人間は、本来であれば苦痛の回避でしかないようなことに一工夫を加えることで、そこにちょっとした喜びを見出すことができる。本当にささやかながら、己に課せられた運命に抗うことができる。これこそが人間のみに与えられた、いわゆる「人間らしさ」だと思う。このことを人は「アート」といったり、「遊び」といったり、「無駄」といったりする。私は「無駄」という言葉がセンセーショナルなので「無駄」というが、ともかくも「無駄」をやることこそが人としての己の能力を活かし、幸せに生きることの必要条件なのではないか(そもそも「幸せ」自体がたぶん、生きていくだけならば「無駄」なのではないか)。

しかし社会全体として、こうした無駄はますます削減する方向に向かっている。資本主義的生産様式のことをいえば、それはどれだけ剰余価値を生み出すかに焦点が当たっているので、そもそも無駄とは相容れない。社員や学生の雑談スペースは次々と閉鎖され、人々は15分単位の行動計画を立てさせられる。こうした状況を是正し、仕事や学習の中に無駄を作っていくことが大事であるように思われる。エコノミック・アニマルなどという言葉があるが、無駄を許容しない時点で、それはもうアニマルと同じ人生なのだ。あるいは、そしてこちらの方がありえる世界線なのだが、雇われて仕事をする時間を減らし、より多くの時間を無駄なことに避けるようワーク・ライフ・バランスの是正が必要だ。

繰り返すが人生というのは無駄があってこそのものだ。この文章も仕事の合間に書いているが、こういう駄文を生むだけの余裕が社会には必要であるように思う。


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