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漫画原作:『平安ジョッキー!』用語説明

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●おことわり


このシナリオは下毛野武正に関する史料や説話、古式競馬の故実などに基づき、筆者が創作したフィクションです。原典となった史料・説話をアレンジしていることから、史実と異なる箇所が存在します。また、下毛野武正たちが二条大路で開催された十列競馬に出場したというのは筆者の創作です。現在までそのような事実は見つかっておりません。

●時代背景


12世紀初頭、日本の平安京。藤原氏による摂関政治と源氏と兵士が争う源平合戦のちょうど間の院政期と呼ばれる時代。具体的には、関白藤原忠実が白河法皇によって関白を罷免される前の保安元(1120)年の出来事という設定。

●社会情勢


藤原道長・頼通親子による摂関政治はすでに終焉し、白河法皇による院政が開始されている。白河法皇は治天の君として天皇や摂関家をしのぐ権勢を誇り、平安京東部の白河と南部の鳥羽には壮麗な寺院や邸宅が立ち並んでいた。

●用語・設定説明


ここでは、おもに作中に登場する登場人物たちの装束や地名・建物及び、歴史事象についての説明を行う。※なお、用語は作中登場順に掲載した。


○平安京(へいあんきょう)

12世紀初頭の日本の首都。東西4.5KM、南北5.2KMの長方形で条坊制を敷いて、道が交互に交わっていた。南北に走る朱雀大路をはさんで、西の右京(うきょう)と東の左京(さきょう)に分かれていたが、12世紀初頭において、右京は廃れており、左京に貴族の邸宅が集中していた。また、白河法皇によって鴨川東側の白河や、平安京南部の鳥羽の地が開発され、壮大な寺院や貴族の別荘が立ち並んでいた。

○競馬(くらべうま)

馬を走らせて、その速度の優劣を争う競技。現代の近代競馬に対して古式競馬と呼ばれており、「くらべうま」と読む。
近代競馬との大きな違いは、競馬場にて数頭の馬で長距離を競争するのでなく、2騎1番となって比較的短距離(100M~200M)で上級貴族の邸宅や寺社に設けられた馬場殿(ばばどの)の直線を競争したことである(臨時競馬として大路などの路上で開催されることもあった)。また、速度の優劣のみを競うのではなく、いかに定められた範囲内で相手の馬や乗尻の邪魔をして先着するかが審査の対象となっていた。終点までに乗尻が落馬すれば負けとなり、勝負が決しない際は持(もち・引き分け)とした。
なお、近代競馬のように2騎以上が同時に疾走して優劣を競う十列(とおつか)と呼ばれる形式の競馬もまれに開催された。

○乗尻(のりじり)

近代競馬における騎手(ジョッキー)のこと。2騎1番となって左方(ひだりかた)・右方(みぎかた)として番(つが)い出走した。両者を区別するために左右の乗尻で着用する装束(しょうぞく)が異なっていることが大きな特徴。

○十列(とおつか)

通常の競馬と違い、近代競馬のように2騎以上が同時に疾走して優劣を競う形式の競馬のこと。一方で、2騎1番の勝負を10番(つまり10回)行うことを十列とする説も存在している。この物語では、前者の10騎馬同時に疾走して優劣を競う説を採用している。

○競馬装束(くらべうましょうぞく)

競馬に出場する乗尻の装束。地下(じげ・下級官人のこと)の武官の裲襠(うちかけ)装束であり、同時に出走する左方と右方によって色目と文様を相違して区別した。簡潔に書くと冠(かんむり)に老懸(おいかけ・冠の左右につける飾りのこと)、裲襠・袍(ほう・裲襠の下に着る衣のこと)、錦袴、絵尻鞘(鞘に絵が描かれていた)、藁履(わらじ)、塗鞭を着用していた。下毛武正や秦兼弘、佐伯国重が競馬の際に着用。

○在来馬(ざいらいば)

日本に古来から生息する馬のこと。"木曽馬"や"どさんこ"が知られている。近代競馬のサラブレッドと違うのは、在来馬はサラブレッドと比較して背丈が低く、ガッシリした体格であることである。サラブレッドのような短距離の速度はないが、長距離の持久力・馬力に優れていた。武正たちはポニーのようなドッシリとした馬で競馬勝負をしていたといえる。

○直衣(のうし)

上級貴族である公卿(くぎょう)以上の貴族の私服。冠または立烏帽子を被り、指貫(さしぬき)というゆったりとした下ズボンを履く。

○狩衣(かりぎぬ)

下級貴族の私服。時代が下ると武家の正装に用いられる。狩衣の名称にあるように、上級貴族も鷹狩や蹴鞠などの活動を行う際には狩衣を着用することもあった。肩に切れ目があるのが特徴。立烏帽子を被り、直衣と同様に指貫を履く。下毛野武正や秦兼弘が競馬意外のシーンで着用。

○袿(うちぎ)


公家に仕える女房の装束。小袿(こうちぎ)が上級の女房の衣装や公家の奥方の私服であったのに対して、袿は雑仕女(ぞうしめ)などの下級の女房たちが衣装として着用した。
単(ひとえ)の上に袿を重ね、白の小袖を着用し、紅の打袴(うちばかま)を履く。雑仕女Aや藤原成通の初登場時に着用。

○近衛府(このえふ)


宮中の警固・行幸の警備にあたったが、次第に上級官人は名誉職化し、下級官人は儀仗兵化していった。近衛府は左近衛府(さこのえふ)と右近衛府(うこのえふ)の2つあり、それぞれ、大将・中将・少将・将監(しょうげん)・将曹(しょうそう)・府生(ふしょう)・番長(ばんちょう)・近衛の順で地位が下がっていく。藤原成通は右近衛府の少将の地位で上級官人。下毛野武正は右近府生、秦兼弘は左近番長で下級官人。

○随身(ずいじん)

護衛兵のこと。将曹以下の近衛府の下級官人は、太政天皇(上皇・法皇)以下、摂政・関白・大臣・大将などにそれぞれの身分に応じた人数が随身としてつけられた。騎馬で牛車の前駆(ぜんく)をつとめることや、競馬の乗尻をつとめるのも随身の役目のひとつであった。職務の際は、褐衣(けちえ)装束と呼ばれる下級武官の服装を着用して護衛などの職務をこなした。なお、褐衣(けちえ)装束が転じて競馬装束の元になったと考えられている。
冠に緌(おいかけ・冠につける飾り)、単の上に褐衣を着用し、膝の上で括った括袴(くくりばかま)、脛巾(はばき・すねあてのこと)と藁履を履いた。下毛野武正は関白藤原忠実の随身、秦兼弘は内大臣藤原忠通の随身である。

○露頂(ろちょう)

烏帽子が外れて、髪を結わえている髻(もとどり)が露出した状態のこと。12世紀初頭当時、天皇以下貴族を始め、庶民に至るまで烏帽子を被ることが当たり前であり、人前で髻姿を見せることはこの上なく恥辱とされた。彼等は寝ている際にも烏帽子を被っていたといわれる。なお、元服前の子供や牛飼童(うしかいわらわ)と呼ばれる童形で牛車の世話をするものは、烏帽子を被らずに露頂していたが恥ずべきことではなかった。

○立烏帽子(たてえぼし)

烏帽子の中でピンと立っている烏帽子のこと。上級貴族は日常に、下級官人は日常や職務時に着用した。

○指貫(さしぬき)

直衣や狩衣の下に履くゆったりとしたズボンのこと。

○浅沓(あさぐつ)

束帯、衣冠、直衣(のうし)、狩衣(かりぎぬ)などの服装に用いられる木製の靴のこと。

○簀子(すのこ)

寝殿造の寝殿などの殿舎の広庇(ひろびさし)の下に設けた板縁(いたぶち)のこと。現代の在来工法の住宅でいえば、廊下に該当する部分。

○雑仕女(ぞうしめ)

天皇や摂政関白などの上級貴族に仕えた下級の女房の名称の一つ。さまざまな雑務を担当した。下毛野武正に和歌を寄せた雑仕女Aは関白藤原忠実の家に仕える雑仕女という設定。

○高欄(こうらん)

簀子の縁に設けられた木製の柵のこと。

○単(ひとえ)

裏地のない着物のこと。この単を重ねていたことから、女房装束が十二単と呼ばれることになったとされる。

○廂(ひさし)

建物の軒先から張り出た屋根の部分のこと。

○蔀(しとみ)

寝殿造などに用いられた建具(たてぐ)のこと。格子状の1枚のものや、上下に2枚構造で、上の部分を外側に釣り上げて開く半蔀(はじとみ)と呼ばれるものも存在した。

○雑色(ぞうしき)

貴族や武士の家に仕える下仕えの総称。
萎烏帽子(なええぼし)に直垂(ひたたれ)、膝の上で括った括袴(くくりばかま)、脛巾(はばき・すねあてのこと)と草履(ぞうり)を履いた。

○萎烏帽子(なええぼし)

烏帽子の一種で柔らかな造りの烏帽子。庶民や雑色などの下仕えの者が着用した。

○直垂(ひたたれ)

小袖を胸紐で括った上着のこと。のちに武士の通常復・礼装へと転じたが、12世紀初頭においては、庶民の装束であった。

○括袴(くくりばかま)

指貫を膝下で紐で括った状態の袴のこと。武官系の下級官人や庶民は動きやすいように括袴を履いていた。

○脛巾(はばき)

足のすねに巻いた後世の脚絆(きゃはん・ゲードル)のこと。下級官人や庶民は動きやすいように脛巾をすねに巻いていた。

○垂髪(すいはつ)

髪を後ろに垂らした髪型のこと。十二単を着た平安時代の女房たちの髪型だといえばわかりやすい。また、元服前の男子が後頭部で束髪した髪型を指す場合もある。

○水干(すいかん)

狩衣の一種で貴族の下仕えや元服前の貴族の子弟の平常着。貴族も蹴鞠などの際に普段着として着用することもあった。一般に白拍子の装束として知られている。

○小袖(こそで)

12世紀初頭において、女性が着用していた上着。公家仕えの女性は白い小袖と紅の打袴の上に単を着ていたが、庶民女性は小袖の上に褶(しびら)と呼ばれる前掛けのようなものを腰に巻いていた。

○棟門(むねもん)

貴族の邸宅の門の一種。本柱を2本立てて棟を高く上げ、屋根を切妻造りにした平入りの門のこと。四足門より格式が下の門。

○築地(ついじ)

土をつき固めて作った垣の上部に瓦(かわら)や板で屋根をふいた塀のこと。

○舞楽(ぶがく)

日本の伝統音楽である雅楽のうち、伴奏音楽で舞うものの総称。演目によって、衣装や被り物が異なっている。
作中、武正を驚かした藤原範綱の舞楽衣装は、「陵王」と呼ばれる演目で用いられる顔全体を隠した仮面と衣装をイメージしている。

○中門(なかもん)

寝殿造において、東西の対(つい・寝殿)から伸びた中門廊の途中に設けられた門のこと。築地や棟門、牛車を置く車宿(くるまやどり)などの玄関の空間と中庭とを隔てる役割を担っていた。

○高麗端(こうらいべり)

畳の縁(へり)の文様の一種。上級貴族の邸宅で用いられた畳であった。

○褥(しとね)

畳の上に敷く角型の座布団のこと。のちに寝具を意味する言葉に転じた。

○脇息(きょうそく)

脇に置いてもたれかかるための道具。時代劇で将軍や殿様が上座で右腕をのっけている道具をイメージするとよい。

○麝香(じゃこう)

雄のジャコウジカの腹部にある香嚢(ジャコウ腺)から得られる分泌物を乾燥した香料。古来、漢方において丸薬の材料として用いられた。
なお、下毛野武正が息子の病気を治すために、藤原成通から麝香を譲り受けるシーンは、『古今著聞集』の武正に関する説話を参考にしている。

○凌礫(りょうれき)

侮り踏みにじること。12世紀初頭において、無礼を働いた人物に暴行を加えたり、相手が貴族であれば乗り物の牛車を破壊したり、烏帽子を奪って髻(もとどり)を切るなどの恥辱を相手に与えることを指す。時代劇で「無礼者!」のセリフのあとにボコボコにされるシーンをイメージすればわかりやすい。

○褐衣(かちえ)

下級武官が着用する褐衣装束のこと。「随身」の項目を参照。

○牛飼童(うしかいのわらわ)


貴族の乗る牛車の牛の世話をする童のこと。牛飼童という名称であるが必ずしも童(子供)だけがつとめていたわけでない。成人したものや老人であっても、童のような恰好で牛飼童をつとめていた。

○強訴(ごうそ)

12世紀初頭の院政期において、寺社の衆徒(しゅと)・神人(じにん)らが武器をとり、集団行動によって、朝廷または要路に自己の要求を突きつけ、その裁許を強要する行動を指す。強訴を押さえるために、たびたび武士が動員されており、のちに平家が勢力を拡大する要因の一つともなった。
史実において、伊勢神宮の神官である禰宜(ねぎ)が路上で藤原忠実の一行に対してキチンとした礼を示さなかったことから、随身であった武正の父の下毛野武忠は、主の名誉を守るため、禰宜を凌礫した。腹を立てた伊勢神宮側が強訴に及ぼうとするが、武忠は問題が大きくなるのを防ぐために責任取り、3年間の禁獄という罰を受けて騒動をおさめた。
作中において、過去の強訴未遂騒動が武正の人格形成と葛藤に大きな影響を与えている。

○鴨院(かものいん)

平安京左京三条三坊七町に存在した1町(一辺約120メートル)四方の関白藤原忠実の邸宅。忠実には、摂関家伝来の邸宅をいくつも相続して所有していたが、12世紀初頭当時、平安京内の日常生活にもっぱら鴨院を用いていた。作中において、下毛野武正が雑仕女Aから和歌を贈られるのも、秦兼弘と会話をするのも鴨院での出来事だと設定している。

○四つ足門(よつあしもん)

貴族の邸宅の門の一種。親柱の前後に二本の添え柱がある門。棟門より格式が上で上級貴族の邸宅に用いられた。

○二条大路(にじょうおおじ)

平安京の大内裏の南を東西に貫く大路。造営当時の全幅は17丈(約51M)、通路の道幅は、14丈6尺(約44M)もあった。大内裏から南にのびる朱雀大路に次ぐ大きさ。
12世紀初頭当時、造営当時の全幅であったか定かでないが、相当な広さの大路であったことが推定される。現代の1車線道路の幅が3M~4Mほどなので、非常に広い大路であったことがわかる。なお、史料によると二条大路には橋がかかっていなかったと考えられており、作者もその説に従った。

○壺装束(つぼしょうぞく)

平安時代の貴族女性の旅姿。下に小袖・単・袿を重ね、一番上の袿は頭から被って着用するなどした。

○市女笠(いちめがさ)

平安時代の貴族女性の旅姿。一番上の袿を被るかわりに市女笠を被ることがあった。

○法勝寺(ほっしょうじ)

平安京の東側を流れる鴨川を隔てた白河の地に承保3(1076)年に白河法皇が建立した寺院で六勝寺の一つ。境内には、高さは27丈(約81M)の八角九重塔がそびえ立っていた。一説には、この八角九重塔は昇ることが可能だったとされており、この時代の平安京及び白河の地のランドマーク的存在であったことが想像できる。

○防鴨河使(ぼうかし)

たびたび氾濫する鴨川の整備・治水のために設けられた令外官(りょうげのかん)。京の治安を守る検非違使(けびいし)の役人の指揮のもと、多数の使役労働者が堤防の整備に従事していたものと考えられている。

○朱雀門(すざくもん)

朱雀大路に面した大内裏の正門。奈良の平城宮跡に再現されたもののように2階立ての壮麗な門であったことが考えられる。

○朱雀大路(すざくおおじ)

朱雀門から羅城門まで平安京を南北に貫くメインストリート。造営当時の全幅は28丈(約84M)、通路の道幅は、23丈4尺(約70M)もあったが、12世紀初頭において、大路の一部が畑などの耕作地になっていたと言われている。

○大内裏(だいだいり)

平安京の中央にある天皇の住まい及びさまざまな官庁の役所が存在している公的空間。12世紀初頭において、大内裏は幾度も火災に見舞われており、天皇は大内裏外の里内裏(さとだいり・上級貴族の邸宅を内裏として用いる)で生活することが多かった。

○埒(らち)

競馬の際に、馬が放逸しないように、直線の走路の左右に設けられた柵のこと。黒木の籬で設けられるのが常であった。

○籬(ませ)

競馬の際に設ける柵の材料となる竹・柴(しば)などをあらく編んで作った垣。ませがきのこと。

○羅城門(らじょうもん)

平安京の南端に存在した二層の門。朱雀大路から南に伸びる鳥羽作道(とばつくりみち)を隔てる玄関口となる門であったが、12世紀初頭において、倒壊したまま再建されておらず、礎石のみが残る状態であったとされている。

○鴨川橋(かもがわはし)

平安京四条大路の延長線上に作られた橋。祇園社に続くから祇園橋とも呼ばれた。12世紀初頭において、南の清水寺に続く五条橋と九条坊門小路からの延長線上に位置した唐橋が平安京の常設の橋であったと考えられている。

○スタートからゴールまでの競馬のコース

朱雀門前の二条大路を起点に東に進み、二条大路末で東京極大路を南下。四条大路を東に向かい、鴨川橋を渡って鴨川にそって再び北に北上。二条大路延長線上の大路で東に向かい、白河の法勝寺を終点とするコース。

○舌長鐙(したながあぶみ)

馬に乗るために足をかける馬具。現在と違い、馬の右側から乗馬するのが常であった。

○束帯(そくたい)

貴族の正装。位によって上着の色が違っていた。衣冠束帯として知られるが衣冠よりも格式の高い装束が束帯である。朝廷の行事や儀式、参内に用いた。冠に縫腋袍(ほうえきのほう)を着て、笏(しゃく)を持ち、飾り太刀を佩(は)き、袴と襪(しとうず)と呼ばれる靴下を履いていた。

○弁(べん)

朝廷の最高機関、太政官の事務を担う弁官局の役人。競馬行事において、束帯姿で馬場本(ばばもと・スタート地点)において太鼓を打つ役目を果たした。

○少納言(しょうなごん)

朝廷の最高機関、太政官の少納言局の役人で奏宣や印の管理を担った。競馬行事において、束帯姿で馬場本において出発を合図する鉦(かね)を打つ役目を果たした。

○堀川(ほりかわ)

平安京左京の堀川小路を流れる川。二条大路と南北に交差する堀川小路の真ん中を流れており、荷物を運ぶ小船が行き来できるくらいの大きさだと考えられている。12世紀当時、木製の橋がかかっていたか不明だが、作中において木製の橋がかかっているという設定を用いた。

○堀川小路(ほりかわこうじ)

平安京左京、大内裏の東側に面して南北を貫く小路。道の真ん中に堀川が流れていたことからこの名前がついた。

○院御所(いんごしょ)

院(天皇を退位した上皇や法皇、女院号を授けられた皇族女性)の邸宅のこと。内裏の焼亡の影響で天皇が里内裏で生活するようになったように、院も日常において平安京内の貴族の邸宅や白河・鳥羽に建設した別荘を院御所と行き来していた。保元の乱の舞台となる「白河殿」や源平合戦に登場する「鳥羽殿」や「法住寺殿」が代表的な院御所として知られている。

○白河北殿(しらかわきたどの)

白河法皇が築いた院御所の一つ。のちに保元の乱で崇徳上皇の御所となり焼失した。

○白河南殿(しらかわみなみどの)

白河法皇が築いた院御所の一つ。白河北殿とともに法勝寺の西方に存在した。

○東京極大路(ひがしきょうごくおおじ)

平安京左京の東端を南北に貫く大路。10丈(約30M)と道幅が狭かった。


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