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文系人間が理系博士を取るまで。

2020年4月。
無事に学生が終わり、働き始められると思った矢先…コロナの爆発的拡大。
仕事を失わなかったのは救いだし、もし海外への道に進んでいたらと思うと、これも面白い縁なのかなと思う。
だけれども最近の流れは(主観的に)納得いかない。
なんとなく余裕のない生活。
こういったパブリックなところでは詳細が書けないけど、向いていないなあと感じる。
次のステップの合図とも思うけど、先が定まり切ってない。

こういうときに以前は、今までを振り返り、強みを自覚し、モチベーションをあげていたなと思い出した。
せっかくなのでこうして文章化してみることにした。
(です・ます調、だ・である調が混在してて申し訳ない)


小学生まで


一番最初の記憶は幼稚園。
走るのが苦手で、4歳からメガネをかけ始めたことを思い出す。
この頃の「将来の夢」はガソリンスタンドの店員(なぜ笑)と警察官。
体格が大きいことを除いて、普通の男の子だったと思う。
戦隊ヒーローや今でいう仮面ライダーみたいなものをよく見ていたな。
このころから漠然と機械が好きだった。
変形や合体するロボット、車、飛行機。
(親父の肩車も好きだった。)

3年間の幼稚園生活も終わり、小学校へ進学。
どんな人でもこの頃って、大人なものにも少しずつ興味を持ち始める年ごろだと思う。
私は SF にハマった。
特に Back to the Future と Terminator は何回も見たな。
時間を旅するタイムマシンに未来から来る暗殺者。
SFって現実ではなかなか起こらない(その時代では起こせない)ことを作品化するけど、ロマンを与えてくれるよね。
小学校高学年になるとたまたま群馬テレビでやっていた Star Trek にはまったな(今見てもほとんど時代を感じないのはすごい)。
宇宙探索、未来技術。
当時では普及していなかったものが今では普通に使われている。
テレビ電話、タッチパネル搭載の情報端末、ナビゲーションシステム。。。
人が考えているものは、夢と希望を与えてくれる。
この時から技術者になりたいと思っていたのかもしれない。

そしてこの時代に、常日頃疑問に感じていたのは、周りが他人に優しくしないこと、後々めんどくさくなることをやりたがること(なんかいろいろなことを先読みできてた気がする…)。


中学生


思春期と呼ばれる年代。
最も多感だけど、恐れを感じることも少ない。
体格がいい、兄弟がやっていた、という単純な理由でバスケ部に入る。
運動神経がないのに選んでしまって、2年間とても苦しいことばかり思い出す。
でもなぜか逃げなかったんだよね。
最後の最後までやりぬいた。
厳しくも丁寧に指導いただいた先生方には本当に感謝しかありません。
高校からもお声かけいただけるまで成長したけど、、、やりたいことがそこの学校にないから全く見向きもしなかった。

そしてこの時から気づき始めた。
自分が【理数苦手】ということに!
テストのことを思い出しても平均点以下を取ることもあったなあと…
その一方で得意になっていたのが、社会と国語だった。
この2つは感覚的にいけた。
そんな文系人間であるにも関わらず、親父の勧めもあり、高等専門学校への進学を決意していまう。
「物を作るのがなんとなくかっこよかったから」という非常に単純な理由…
今でもすごいと思う。
幸いにも内申点が良かった(?)ので、推薦選抜で入学できることが決まった。


高専生


無事に高専に入学し、面白い仲間達にも出会えた。
しかしながら、文系得意・理数苦手は変わらなかった。
毎年、数学は赤点、再試組の常連だった。
力学も化学も全くできなかった。
そんな成績が災いし、専門科目に追いつけず4年生で留年した。
(といっても親も留年していたので悲観していませんでしたが笑)
この1年はが勉強にむしゃらに力を入れまくった。
1個下の子達に溶け込み、教えあいながら4年生2週目を完走した。
その甲斐あって、クラスでも半分以上になるまで成績を上げられた(2回目の修学旅行@大阪もいい思い出です)。
とりあえず、テストで点を取るための理数知識はこの時なんとか身についた(気がする)。

卒研ではこれまた苦手なプログラミングに手を出してしまう。
「Androidアプリ作るなんてかっこいい」というお決まりのような単純な理由である。
難所だらけのこの1年の苦行によって、とりあえず Fortran、C言語、Java のとっかかりはできるようになった。


大学・大学院修士


高専卒業後は大学に編入。
といってもほとんどが高専卒の大学に進学。
ここで出会った人々もさすが高専卒の人間ばかり。。。
クセ・面白さが飛び抜けていた。
この頃には専門分野(機械系)のテストは難なくパスするくらいに成長していた。

…がなぜか、なぜかまだ克服しきれていない、電気系・制御系の研究に手を出してしまう。
「電気の制御ってなんとなくかっこいい」と、もう呆れるような単純な理由である。
研究初期は先生に指導をよくされながら、先輩方にも助けていただきました。
でも、やっていくうちになんとなく、理解の方法を見出していく。
自分は論理的・理論的理解まで一気にもっていくのは向いてない。
だから、とりあえず感覚的理解を積み重ねる。
「なんとなくこの辺の知識ぽい」、「こんなノリだな」、っていう感じで進めていた。
教科書レベルの本だと書いてない部分もあるので、最低でも3冊用意しカバーするようにした。
いろいろ立ち読みして、基本的には Amazon で中古本を買って勉強していた。
図書館の本だとやる気がでなかったから。
自費だとその分取り返そうと、なんかも読んだり、途中計算を補間したりするようになる。
それがいつの間にか力になっていた(と思う)。

また同期曰く、この頃から博士への育成(疲労試験)が始まっていたらしい。。。
選択したのが共同研究ということもあり、4年生のときには共同研究先で約半年間のインターンをすることに+2回の学会発表も。
いろいろ難はあったものの、なんとか形になった。
そして成果をもとに、修士1年時には論文化、海外発表へも submit するようになっていた(この1年は研究していたことだけ覚えている)。
修士1年も終盤となり、来年は修論出して就職かと思っていた矢先、ボスに呼び出される。。。
ざっくりとだがこんな内容だった。
「(雑務のお願いをされたあと)博士行く気ないの?今、論文1本持ってるやん。そして1本出すやん。国際会議にも出すやん。とりあえず、博士取れる最低ラインはクリアできると思うんだよねー」
今思うと、インターンも論文も、すべてが伏線だった。
親には最初は反対されたものの、取るなら今の時期だなともなり、進学することにしてしまった。
これが更なる苦難の始まりとも知らず笑


博士


博士になると、研究の進め方や研究内容の応用先にも慣れてくる。
しかし、そんななか不幸に直面することに。。。
さらには英語も流暢じゃないのに留学することになったり。。。
そして極め付けは、大学を実質移動することにも。
でも、この3年間で出会えたものが、とても素晴らしかった。
(この辺りのことはまた別の投稿で書こうと思う。ここの章短い笑)

おわりに

こうして理数苦手文系人間が棘の道を進みつつも、感覚で進み、感覚で理解し始め、感覚を鍛え、苦しい中も感覚にしたがって生きてきたからこそ、理系博士になれたのだと思う。
「好きこそものの上手なれ」
これって半分本当ですね。

自分の感覚を信じて、譲れないところは貫いて生きたい。

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