見出し画像

見えざる奔流

あの朝、駅のホームから改札口へとつながる階段を下りていく人々の姿が、排水溝に吸い込まれる水にしか見えなかった。

人々の群れは、ただ物体の集まりでしかなく、血の通っている動物、ましてや意思を持つ人間とは思えなかった。それぞれにどれだけ濃密な人生が詰まっていようとも、あの流れには逆らおうとするものもないし、立ち止まることも許されていなかった。仮に自分があの中にいたとして、歩き方こそ違えど同じ動きをしていた。そういう意味で、彼らにとっては自分の姿も電車に吸い込まれる水でしかなかった。

世の中はあれだけ新型ウイルスに騒いでいるというのに、マスクをつけている人が増えただけ。駅から駅へと吸い込まれては吐き出されていく人の流れは変わらない。満員電車を前にする人々の目は、ウイルスがあろうとなかろうと、空を見つめるように死んでいた。


人間は決して水などではない。流れに身を任せているように見えても、自分の力で向かいたい方向に動くことができる。しかし、同時に限りなく水に近い。周りに馴染んで流されているときには人間が意思を持っていることなどほとんど無意味だ。社会や会社のルールという流れの向きにのっとって動いているときは、ただ流されているだけなのだ。電車を介して駅から駅へと流されていく人々の波を見て、そう感じた。

流れに従うということは、その流れを強化するということなのだ


そして、ルールには向きがある。逆らおうとする者には容赦なくぶつかってくる。そのルールに従うもの全員の体重がその流れに乗り、逆らうものにのしかかる。この時、流れの向きがどこに向かっているかなど関係ない。

多くのものがその流れに乗っているから、もう止められないのだ


人間が水なら、流れの向きを決める地形は社会の仕組みやルールだ。流れる方向や、向きを決める。だが、ここで確認しておきたい。水が流れ続けている、ということは決して変わらない。歴史は変わらない。抱いてしまった感情は消えない。そして、どんなことがあろうと老いて死んでいく、ということも変わらない。



水は重力に従いながら上から下へと流れる。しかし、流れの中にもしつこく流れに従わないものもある。それは、一体どんなものだろうと考えてみると、2種類のものがあるように思える。「大きなもの」と「強いもの」だ。

例えば、企業を考えてみるとわかりやすいように思う。「大きなもの」が直面するものとして不況がある。地形に水がぶつかると削れて荒涼とした岩肌が出来上がるように、その前線は厳しい環境だ。どんどんと削られていく。しかし、大きな大地にはまだたくさんの地面が残っている。そして、波に乗ってどこからか新たな砂や土、岩も運ばれてくる。

大きいということは、それだけで大きいままでいられる確率を上げているのだ

企業も、不況の中でリストラや事業の変更をすることで経営を何度も何度も持ち直すこととなる。

「強いもの」とは何だろうか。それは意思のあるもののように思う。海に浮かぶ孤島のようにその地盤は強固で、力強い。どんな荒波にも耐える芯を持っている。不況が来ようとも、強い意志によって耐え、そして努力によりさらに自らの芯を強くしていく。強固な信念があり、カリスマ的なリーダーがいる企業はつぶれにくい。

一方、逆らうものには容赦なく水がぶつかっていく。それは、称賛であり、批判である。特にスマートフォンの登場で、ぶつかる水量は間違いなく増えている。流れに逆らったというだけで「強いもの」と勘違いされて称賛と批判の水圧の中に沈んでいく「弱きもの」も数えきれないほどいる。



流れに従う時、人はほとんど水だ。そこから切り捨てられたり、逆らったりしたとたんにその影が浮かび上がる。「リストラ数千人」のニュースを見たときに、切り捨てれられるのは一人の人間だということをなぜ忘れてしまうのだろうか。SNSで個人を匿名で攻撃するときに、相手にはその後の人生があるということをなぜ想像できなくなってしまうのだろうか。


忘れがちになるが、流れに逆らうものが偉いということは決してない。そこには「流れに逆らっている」という事実があるだけだ。皆が同じ向きに流れていなければ、決してそれが目立つことなどない。そこに流れがあり、流れに従うことが正しいと思うかどうか、その考えを行動にした結果があるだけだ。

自分が流れてきた時代、人、場所に従って、あるいは従わずに自分の向きを決めることしか、一人の人間には許されていない。



私たちが暮らしていく中で忘れていってしまうことは、人間の感情こそが、この水の流れの根源であるということだ。水さえなければ、流されることもない。耐えることもない。ましてや立ち向かうなどということはない。決して消えてはくれない起きてしまった出来事と、そこに生まれる感情、そして現象として外側から見えるものは、生と死だ。何とか人間として形を保っている間、そして人々に記憶してもらうごくごくわずかな時間以外にはこの世に存在しているという可能すら顧みられない存在に成り下がる。



ああ、この世の中に人々とその感情が数えきれないほど流れていくことに思いをはせると、かえって途方もない孤独を感じる。自分の立っている場所がどこであるのかをきちんと見つめられる人がどれほどいるのだろうか。そして、その人々のどれだけ美しいことか。自らの芯を見つめ、流れの中にしっかりと立ち続ける人々のその目の輝きを、いつまでも讃えなくてはと思う。

空っぽの自分は、自分がどこにいるかもわからず、ただただ人々が流れていくのを眺めている。時々、はっとしたように自分の肉体をこれでもかと味合わされながら。

あの日見た満員電車を待つ目の中に、どれだけ輝いた眼が混ざっていたのだろうか。

素直に書きます。出会った人やものが、自分の人生からどう見えるのかを記録しています。