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何かがいなくなる、ということ

今日は法事に行った。父方の祖父の七回忌だった。お墓があるのは東京都のお寺。

雨の降る中親族が集まる。しばらく見ないと皆年を重ねている。職業や年齢、住む場所も異なる11人が祖父のことを想った。(22歳から87歳まで、一番遠い人は岩手からはるばる東京まで来た。)お寺の中の静謐とした空気の中で大切な人のことを大勢で考える時間はとても大切な時間に思えた。

もういない人のことを考えるということは、どういうことなのだろう、と御経を唱えるお坊さんを眺めながら考えていた。不謹慎な話だが、お坊さんが真剣に唱えているお経については、ほぼ頭には入ってきていなかった。サンスクリット語で書かれた原典を中国語の漢字に当てはめ、それを日本人のために音読みしている般若心経は、その音を追ってもさっぱり意味がわからない。しかし、一見無意味に思えるお経も、考えに集中するためにはいい効果を発揮している。大切な人を思うために、静かに気を落ち着かせるために、鈴と木魚の一定のリズムを聞いていると集中が高まる。たくさんの人がお寺の本堂に集まり、いない人が何を自分たちに遺したのかを考えることで、後に残された人がその死を受け入れることができるのだと思った。

人が死ぬことは仕方がない。人類が生まれてから死ななかった人は1人もいなかったし、これからもたくさんの人が死んでいくだろう。(キリスト教をはじめとした宗教信じる人にとっては少し違うかもしれないけれど、生き返ることが特別視されるのも死ぬことが普通だからだと思います。宗教の話は少し難しいけれどいずれもう少し詳しく話すことになります。)
がんで死ぬ人もいれば、戦争で死ぬ人もいるだろう。たくさんのお金を稼いで権力を築いた人もいれば、犯罪を犯し1人独房の中で最期を迎える人もいるだろう。

仮に再生医療が進んで不老不死が実現しても、地球の体積が限られていて宇宙に出ていく技術が未発達である限り、パンパンになった地球では殺し合いなり安楽死なりで人が死んでいくことになるだろう。実際問題、不老不死の世界になっても、地球(宇宙)上の物質は(今のところ)有限なのだから、人口を極限まで増やすと地球(宇宙)は限りなく消滅に近づいていくことに気付くだろう。現在のそのような状況が大きく変化していくのは、空間が無限に拡大するほどに次元の概念が覆される時だ。その時は、永遠に人が増え続けても誰も死なない区間が出来上がるかもしれない。仮定を繰り返していけば人は無限に想像できてしまうので、それ以上の想像は物理学者の人に任せたい。

今のところ人が死ぬ世界に生きている我々は、それを受け入れるしかない。世界中で行われている死者と向き合う行為(葬儀など)はたいていは厳かな雰囲気の中行われる。それは、死者のことを考えることに集中することでそれを受け入れ、受け入れた後の世界を生きる人たちでまたどうにか回していく為だ。その時間を経て、人はそれまで仮定に過ぎなかった、誰かがいない世界を、その誰かがいなくなったことによって知ることができる。知る前よりも、知った後の方が今をより楽しく暮らそうと思えるようになる。そう思うと、生きている人とコミュニケーションを取る手段を失った後も、いなくなった人は世界にいい影響を与え続けている。

人がなぜ死ぬのか、という問いに答えはない。けれども、誰かはその誰かが死んだ後の世界にもそっといい影響を与えていたりする。

法事の間に、そんなことばかり考えていた。

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あとがき:法事に行ったので人が死ぬことが例になっていますが、人を何に置き換えてもいいと思います。何かがなくなる時、なくなった後の世界に残るものたちはその時間を大切にできるようになります。

(同様のテーマの作品に、川村元気「世界から猫が消えたなら」や、ミラン・クンデラの「存在の耐えられない軽さ」があります。前者が軽めで、後者が重い小説です。どちらも好きな小説です。)





素直に書きます。出会った人やものが、自分の人生からどう見えるのかを記録しています。