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じゃんけんぽん的世界観

人は生まれてから死ぬまで、じゃんけんを何回するんだろうか。
家族とチャンネル権を争って、友達と帰り道にアイスを賭けてコンビニで、サザエさんの次回予告の後で、じゃんけんぽん!と何かを運に委ねる。

じゃんけんはやる前から結果が決まっていると思う。
その時の気分かもしれないし、考え抜いた末かもしれないけれど、とりあえず手を決めてお互いそれを出す。
だから、出す前に結果が決まっていて、それを出した後に答えあわせをしているのだと思う。

偉い人のご機嫌とりのために、どうしても負けたい、というじゃんけんでは、いかに負けるかを一生懸命考える。
自分がどの手を出すかを先に伝えて、心理戦に持ち込むやり方もある。
じゃんけんにはいろんな形がある。

もしスパイ映画を撮るなら、潜入先で捕らえられた主人公が拷問にかけられ、「もしお前が今からいう賭けに勝ったら、お前の愛する人の命はない、負ければ世間にお前の顔を晒す、賭けの方法は、じゃんけんだ。」なんて究極の選択を迫られるシーンをクライマックスにしたい。

じゃんけんでは、それまでの人生で考えてきた最も良い手と、その時の直感の手を天秤にかけて、いいと思った方で勝負をする。
これは、統計の傾向と、その中のとある一点との関係と同じで、統計の中の傾向の範囲の点なら傾向通りの結果になり、そこから外れた点ならば傾向とは違う結果になる。
電車の広告で見かけるハウツー本も、スポーツ界から根性論を淘汰しつつある身体理論も、多くの親が語る結婚・仕事についてのいわゆる「安定した」選択もまた、この傾向について語っているのだと思う。
でも、ハウツー本を出す人は自分なりの方法で成功している訳だし、実力が拮抗していれば最後は気持ちが強い方が勝ったりするし、近しい人(マッチングアプリに言い換えてもいいと思う)に委ねた選択でも幸せになれるかもしれない。
本当は誰も気づいていない外れ値がたくさんあるかもしれないのに、大抵当たっていたりもするから統計は正しく見える。


じゃんけんに話を戻すと、じゃんけん必勝法、というのはやはりこの傾向を教えてくれるものだと思うけれども、その必勝法を知っている人は、その必勝法を教えた後に裏をかいて必勝法に勝つ手で勝負するかもしれない。
だから、じゃんけんの必勝法を思いついてそのあと勝ち続けたいのなら、誰にもその方法を教えない方がいいと思う。

じゃんけんを、自分がいいと思うやり方で何かを行い、相手も同じようにいいと思うやり方を同時に行った時に、ある結果の出る出来事、と言い換えてみる。
自分の身や考えを守るためなら、暴力という手段も取れる。家族や国というもう少し大きなものを守ろうとすると、戦争という形にもなりうる。この文章の最初の方に出した偉い人にへこへこする人にとっては、偉い人にへこへこするために他の大切な人との時間を犠牲にする、ということもいいと思う方法になるのかもしれない。
後出しジャンケンとか、脅しながらのじゃんけんとか、やる前から結果のわかってる勝ってはいけないじゃんけんもあるから、人生のじゃんけんは難しい。

同じ手を出して、じゃんけんで勝負が決まらないこともある。その時は別の土俵でじゃんけんをし直すかもしれないし、永遠にあいこを出し続けて疲れてしまうかもしれない。じゃんけんで勝って目的を果たしても、その次のじゃんけんで負けて全てを奪われるかもしれない。

自分の命をかけた人生というじゃんけんはみんな本気だ。いろんなじゃんけんが待っているから、時々疲れてしまうこともあるかもしれない。だから、じゃんけんを最初からしない、という選択肢ももちろんある。本当に何もしたくなくなったら、人生という一世一代のじゃんけんから降りるのかもしれない。

でも、せっかく人生を生きているのなら、たくさんじゃんけんしてみるのは一つの手だと思う。
くだらないじゃんけんも、必死のじゃんけんも自分の人生という統計の一つの値になると思う。
ボロボロでも、へんてこりんな形が出来上がったとしても、自分で創り出してきた数えきれないほどの点一つ一つがそれを作ったと思うなら、無様なグラフも美しく見えるのかもしれない。

普段何気なくしているくだらないじゃんけんが、生き様なんて呼ばれていたりもするのだ。


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