見出し画像

ケルンという標

山を歩くと見かける積まれた石。『ケルン』と呼ばれるそれは、道標だったり慰霊碑だったりする。

ケルン(cairn)

元々は氷河のある高山帯で、ルートを示すために作られたものらしい。森林限界を超えた先ではピンクテープを巻き付ける木も生えていないし、岩石にペンキでマーキングしても埋もれてしまう。けれど積み上げられた石たちのシルエットは、霧がかった中でも見つけやすい。

じゃあケルンは高山でしか見られないのか、というとそうでもない。低山の森の中でも見かけることがある。つまり、人が通った道筋、その軌跡の上にあるものだ。

石積みに見る面影

「石を積む」と聞くと、もう一つ、三途の川の話が頭を過ぎる。
三途の川の手前にある『賽の河原』は、親よりも先に死んでしまった子供達が集まる場所。親不孝というレッテルを貼られた子供達が、その罪を償うために『石積みの刑』に処されている。

石積みの刑

幼くして亡くなった子供たちは生前に功徳くどく(良い行い)を積むことができていないとされ、三途の川を渡る資格すらない重罪人として、最も苦しい『無間むけん地獄』に落とされることになる。
が、その幼さゆえに実際は地獄行きにはならず、『石を積んだ仏塔を作って功徳を積み、完成すれば三途の川の橋を渡ることができる』と示される。

午前6時から午後6時の間は大きな石を運び、午後6時から午前6時の間は小さな石を積む

「一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のため……」

けれど一生懸命積んで間もなく完成という頃に鬼が現れ、「こんな塔ではダメだ」と折角積んだ石の塔を崩してしまうので、子供達は永遠に報われない努力を続けることになる。

唯一の救い

悔い改め石を積んだ時だけ、六道りくどうを巡って苦しむ人の身代わりとなって救済する『地蔵大菩薩』が現れ、子供達を連れて三途の川を渡り極楽浄土へと導いてくれる、とされる。

三途の川の水はどんな色をしているのだろう。生き物が居ないのならこの上なく澄んでいるかもしれない。

三つめの視点

山歩きを通して知ったケルン、青森県の下北半島にある恐山菩提寺を訪問したことをきっかけに改めて学んだ三途の川にまつわる仏教観念。
それらを『人の軌跡』と考えるならば、こうして何かを書き記すこともまた、『石を積む』ことに他ならないのではないか。

書くこと

ある意味で書くことは存在証明に他ならないし、承認欲求の強弱はさておき、それそのものは悪ではないと思う。何より、この身が朽ちたとしても、書いたものは遺る。

ただ、人目のあるところに書く文章は、どこかかしこまったり、誰かを嫌な気分にさせないよう配慮したり、そうこうするうちに本当の自分がどこにいるのかわからなくなる時がある。
そうすると決まって書けなくなる。功徳を積むことを止めたいわけではないのに、道を見失ったかのようになってしまう。それは酷く苦しいものだ。

人目を憚らず、書いて書いて書きまくれたら良いのに。

カンヴァスに絵の具を叩きつけるのに比べて、文章は具体性を帯びるだろう。けれど感情を排して淡々と書くのであれば、具体と抽象の真ん中くらいを位置取ることができる気がする。

そのようにして黙々と積み上げた石も、いつか鬼に破壊されてしまうかもしれない。けれど誠心誠意、ただ記述しておくことには、やはり意味があるように思えるのだ。

ここから先は

0字
この記事のみ ¥ 100
期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が参加している募集

#夏の思い出

26,469件

ご覧下さりありがとうございます。書く力は灯火のようなもの。ライトに書ける時も、生みの苦しみを味わう時も。どこかで温かく見守ってくれる方がいるんだなあという実感は救済となります。