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「みんながみんな 幸せになる方法などない」

「みんながみんな 幸せになる方法などない 無理くり手をつないでも 足並みなどそろわない」

これは、MONO NO AWAREというバンドの、『東京』という楽曲の一節です。

東京にはなんでもあり、みなが幸せになること、幸せそうに振る舞うことを強制されているように感じることがあります。とりわけ、電車などに貼られた広告を見ると、幸せという名のあるべき未来、期待される未来を欲望しなければいけないと言われているような気がしてしまいます。「TOEIC700点をとる!」とか、「きれいな肌を手に入れる」とか、広告にはそれ自体が持つメッセージ性というものがありますが、それは一方で、広告を見る人たちに「こうすることが幸せだ」という一種の観念を植え付けるような作用もあります。

でも、誰かの幸せというのはほかの誰かの不幸と表裏一体です。社会に住む全員が全員幸せだと感じていたら、それはオルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』さながらのディストピア空間でしかないでしょう。(この作品では、ある薬を使って快楽を求めることが許容され、そのために人々はみな幸福です。)都会的な空間は幸せを求める欲望を人々に植え付けますが、それは結局のところ、不完全なものでしかないのです。それに、そのような空間に生きている人がみな幸せそうに見えるかと言われたら、僕にはそうは思えません。

さて、この歌詞は以下のように続きます。

「でもみんながみんな 悲しみに暮れる必要はない」

みんながみんな、幸せになることはできません。でも、不幸にならないことはできます。不幸は決して、「幸せでない状態」ではありません。僕はこの歌詞を聞いたとき、とても納得しました。なぜかというと、自分のぼやっとした幸福観を適切に代弁してくれているような気がしたからです。幸せを感じられないからといって、それは不幸なのではない。みんなが幸せになることはできないかもしれないけれど、せめて不幸にならないことはできる。どんなところへ行っても、なにをしていても、「幸せ」であることを強制されるような時代にこの歌詞と出会えたことは、自分にとってとても救いになりました。

この曲を僕が初めて聴いたとき、僕はもしかしたら、都会の生活に疲れ、「幸せ」を追い求めることに苦しさを感じていたのかもしれません。しかし、いつからか、どこまでいっても掴めない「幸せ」を追い求めることをやめました。じゃあいまが幸せかと聞かれたらそれはわかりませんが、少なくとも、「幸せ」とか「不幸」とか、そういう軸で人や物事を見なくなったように思います。そしてそれは、僕にとって、以前よりも少しだけ生きやすい生き方です。そのきっかけを、『東京』は与えてくれたと、僕にはそう思います。

余談ですが、MONO NO AWARE は日本語をとても大事にしているバンドだと常々感じていて、僕もその歌詞は大好きです。なかなか出会えない言葉の使い方との出会いを楽しみながらいつも聴いています。みなさんも、新しいことばとの出会いを求めて、MONO NO AWAREを聴いてみてはいかがでしょうか。

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