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HSPだけどHSP向けの情報見るのやめた

HSP向けのSNSアカウントってここ最近すごく増えた。

"HSP"というワードがメディアに取り上げられ始め、
大きくなるにつれて違和感が芽生え始めた。

「繊細で生きづらくてかわいそうな私たち」と
「デリカシーのない、人の気持ちを感じ取れない人たち」みたいな被害者かつ選民的思想が見え始めたから。

「HSPの私たち、こんなところがあるの、わかって!」と求めるスタンスの人や、

「HSPの私たちって、こうなのよね〜困っちゃうわよね〜生きづらくて。」
「HSPじゃない人はいいわよね、生きやすいよね。私たちはいつも気を遣ってて偉い。」
みたいなHSP同士の傷の舐め合いのような馴れ合い。

かと思えば
「こんなことができるあなたがHSPな訳がない」という
HSPによるHSPジャッジ。

「私ほどじゃないくせにHSPと名乗るの許せない」
というHSPレベルの高い自分が上、のようなスタンス。。

自分がHSPと知り、自分以外にも同じような人がいることを知るのは安堵につながると思う。

でも元々私が型にはまりたくないタイプだから
HSPあるあるとか、HSPの人はこうすべき!とか
そういうのが苦手なのかもしれない。HSPでも人それぞれだし。

そもそもHSPか、非HSPかでそこまで分断する必要はあるのか疑問。
同じ世界で生きる中で、誰もがそれぞれ生きづらさを感じることってあると思う。

HSP同士でもみんな違うんだから、「HSPの私たちってこうだよね」という世界に
入り浸ってしまうのも変な話だし、下手すると、「HSPな私」に縛られて
余計生きにくくなる気もする。
選民思想や被害者意識が強くなり、理解の押し付けにつながる。


HSPだろうが非HSPだろうが、傷つくポイントは違っても傷つくことがあるのは同じ。
本当はお互いに歩み寄る姿勢を持つことが大切。

HSPな自分、は全てではなく、自分という人間の一部
HSPでこんなとこがあるけど、他にはこんな良いところがあって
こんなことが得意で、こんなことが好きで、こういうのは嫌いだし苦手、
そうやって「HSPな自分」ではなく「自分という人間」に
もっと目を向けた方が「HSPな自分で生きる」ではなく
「自分らしく生きる」に繋がり、より楽に生きやすくなると思うのです。

「HSPの私」より、「私という人間」で生きたいから、
そのためにHSPな私を知るだけで
そこにとどまり、縛られ続けるつもりはない。

「HSPにとって心地よい」ではなく
「私にとって心地よい」を探す。

「自分はこういう人間だという縛りを取り除くことで
どんどん新しい挑戦ができるようになります」
ー相川圭子


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