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おはようございます。fumioです。
本日は、頭痛が酷いですね。天気の加減でしょうか?気圧の変化なのか、50代に入り、頭痛持ちになったな~と身体の変化に都度驚きます。

さて、本日のお題は、「根気のいる作業」です。

■はたから見れば、介護も根気?のいることに
 「人の世話をするしごと」を誰かれとなく「大変なしごと」と例えてくれた、「介護」の仕事も本当に「介護のイメージ」がいろいろで流布され、「大変なしごと」から「就きたくないしごと」になっているのかな?

「大変なしごと」の大変は、どの部分にかかってくるのか?と考えると、排泄などのお手伝い、高齢者のさまざまなリクエストに応えること、業務の割に頑張っても給与が低いこと・・・。

 私の介護のしごとは、家族と一緒に生活していたころの介護と家族と一緒に生活する「時間がすくない」現在の介護とは違う気がしています。

■根気ではない
 今の私、個人をみたい時に、私の親、祖父母のような「根気はない」です。田んぼや畑で、暑さや寒さ、雨などと向き合いながら土地と向き合い作物を得る自分の思い通りにならない、そんな大変さ(根気)。

 分からないから気長に、自然と付き合う不便さと一緒に過ごす生活の中で一緒に田んぼや畑ではたらき・・、そして、会社などの場へ。そして、毎日の生活も「時間」もともにしなくなった。

 仕事の大変さ(根気)が共感できたその時代と、大変さ(時間と競争)を自分事としている時代では?

■「時間」と「目的」
 「時間と目的」は、自分の「時間」を大変さに変換する。仕事で身近な誰かとする「時間と目的」と仕事以外で身近な誰かとする「時間と目的」

 どちらが本当なのだろうか?仕事以外で身近な誰かする「時間と目的」が
「生活が困難だから、・・・」と生きるたの(仕事=お金)の「時間と目的」に、別々の誰からとともにすることが中心に。

■観念の生活
 人が一緒にくらし、支え合うことが家族以外の誰かとともにする今!生活の中で経験することでなく、「頭の中の観念」でイメージする知識や情報の生活。

 生活をつなげる「人」と「人」の関係が、「自分らしい生活」をつなげる「人」と「人」の関係に・・・「らしい」も「頭の中の観念」が作り出したものだから「らしい」という不確かな感覚があり、納得する私もいます。

 根気のいる介護 から 大変さの介護 へ。根気のいる仕事 から 大変な仕事へ。

 この先は、何が待っているのかな?

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