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博士になれませんでした。

2024年3月27日京都から東京に向かう新幹線の車中でこの文章を書いている。
2年前の2022年3月27日、私は京都行きの新幹線の中にいた。私は京都の文系の大学院に入学予定で、当然その後は博士課程に進むつもりだった。18歳で自分が夢中になる学問と出会い、人生をその学問に捧げるのが夢であった。


残念ながらその夢は叶わなかった。


私は来春から東京の会社に、普通の会社員として就職する。
自室と研究室に溢れんばかりだった専門領域の書籍も、そのほとんどを後輩と研究室に寄贈した。私にはもうそれらの本は必要ないから。

自分の決断に納得はしている。何なら自分の決断を正当化するためにこの2年間のほとんどを費やしてきたと言っても良い。それでも一抹の後悔はある。これからもことあるごとに後悔するだろう。それゆえにこの文章を書いている。

東京で生まれ育った私にとって、京都は初めての一人暮らしの街であった。
京都はヒューマンスケールの街であり、学生に優しい街であり、(脆弱な交通インフラとオーバーツーリズムに起因する)多少の不便さはありつつ、居心地の良い街であった。この街でなければ出会えなかったであろう素晴らしい人、素晴らしい
モノ、素晴らしい場所とたくさん出会うことができた。研究者としてこの街に住むことができたらどれほど素晴らしいだろうと思う。

しかし、それでも自分は東京に戻ることを選んだ。

原因を社会的諸条件に帰することは容易い。文系大学院生としてキャリアを形成することは薄氷の上を歩くようなモノであり、私にはそれを可能にするような実家やパートナーからのサポートが期待できるわけではなかった。就職して稼がなくてはいけない経済的事情もあった。

とはいえ、畢竟私には能力と熱意が足りなかったのだろう。
私に能力が足りないことを、私は永らく認めることができずにいた。
学部では周囲の学生の誰よりも自分が専攻している学問に精通している自信があった。(学部より偏差値的に低いとされる大学に進学したこともあってか)大学院でも周囲の人から優秀だと言われ続けた。実際、修士課程の2年の間で難度が高い研究テーマに挑み、悪くない出来で完成させることができた。しかし、それは研究者として求められる能力に基づくものではなかった。
私にできたのは、堅実なスケジュール管理、現実的な問題設定、小手先の論理だけであった。その裏で私は難解な議論に向き合うことを避け、本質的な課題から逃げ、解決に必要な熟考を怠った。
それは能力不足であると同時に、学問に対する熱意の不足、誠実さの不足、愛情の不足であった。

博士に進む同期と話している何気ない瞬間に思う。私は彼/彼女らに対して一生負い目を感じるのだろうと。彼/彼女らが今後どのような人生を歩むのかは定かではない。今日の文系研究者が置かれている状況を考えると、決して楽な道ではないだろう。あるいは途中で折れてしまうかもしれない。しかし、それでも彼/彼女らは学問と向き合うことを選び、私はそれから逃げたのだ。

それでも、修士課程に進んだことは本当に良かったと思う。
心の底から尊敬することができ、話していて楽しいと思える同期・後輩・先輩ができた。自分ができないこと、自分の限界について知ることができた。自分が愛する学問の末席に加わり、その高みを垣間見ることができた。指導教官と一対一で向き合いちゃんとした議論をすることができた。

卒業式の後の打ち上げ、そのn次会の後に研究室のソファで意識朦朧になっている私を背に、研究室の皆が私について寸評していた。曰く、私は「頑張っていて、良い奴」らしい。その一言が聞けただけでも、修士課程に進んで良かった。

後悔がないわけではない。しかし、確かに得たものがある。それを忘れずにいよう。今後社会人になり辛いことがある度にこの文章を読み直すだろう。その時の今の感情を記しておく。






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