Takuya Kuratsu

関西クラスタ。じんぶんTV。「幽霊に憑かれた『存在論的、郵便的』」(『はじめてのあずま…

Takuya Kuratsu

関西クラスタ。じんぶんTV。「幽霊に憑かれた『存在論的、郵便的』」(『はじめてのあずまんω』)、金森修「動物に魂はあるのか」サマリー(『ゲンロンサマリーズセレクション25』)、「静止した闇の中で」(『フィルカル6-3』)。『読書会の教室』(晶文社)参加。

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わかった気になることとわかること―『ニッポンの思想』から読む『構造と力』(四)

第一回はこちら。第二回はこちら。第三回はこちら。 ○二つの脱コード化 佐々木の考える「脱コード化」とは何か。それは「リゾーム」であり「ポストモダン」である。(第二回も参照)。 そして佐々木の誤りは、「(制限された)」「(相対的な)」脱コード化も「リゾーム」であり「ポストモダン」であると読解してしまったところにある。 しかし『構造と力』の「脱コード化」には二種類ある。「制限された脱コード化」と、「無制限の脱コード化」である。そしてこの両者を分けるのが、「公理系」である。

    • わかった気になることとわかること―『ニッポンの思想』から読む『構造と力』(三)

      第一回はこちら。第二回はこちら。○ふたつの教室 ここでは佐々木敦による『構造と力』「第六章 クラインの壺からリゾームへ」の読解を見ていこう。 浅田はここで、ふたつのタイプの教室を例に挙げつつ、超コード化と脱コード化について解説する。 教室に生徒とその監督がいる。第一の教室では監督が前からにらみをきかせている。第二の教室では監督は後ろにいる、いや、いるらしいとしかわからない。 そしてこのふたつの教室の違いについて、浅田は以下のように説明する。 さて、この部分について、佐々

      • わかった気になることとわかること―『ニッポンの思想』から読む『構造と力』(二)

        第一回はこちら。脱コード化についてそれでは『ニッポンの思想』における「脱コード化」と、『構造と力』における「脱コード化」について比較してみよう。 ○「ニッポンの思想」の場合 ここで佐々木は、「構造―クラインの壺―リゾーム」という図式を「プレモダン―モダン―ポストモダン」という図式に対応させている。この対応自体に異論はない。しかし、佐々木がここに、第一部で引用した以下の三段階説を強引に重ねることで、この図式に少しずつ歪みが生じ始める。 「『構造と力』では、ただひたすら繰り

        • わかった気になることとわかること―『ニッポンの思想』から読む『構造と力』(一)

          近年のヘーゲル復権という流れで、浅田彰『構造と力』を読み直す機会があった。 現代思想の「チャート式参考書」とも言われる『構造と力』では、現代思想を過去の思想史の中に埋め込むなかで、より大きなパースペクティブの中で見直すことが試みられている。具体的には構造主義のサンボリック一元論とクリステヴァのサンボリック/セミオティック二元論の対比が、カントとヘーゲルの対比のなかで改めて整理される。 さて、佐々木敦『ニッポンの思想』は、「80年代から現在までに至る「ニッポンの思想」の変遷

        わかった気になることとわかること―『ニッポンの思想』から読む『構造と力』(四)

        • わかった気になることとわかること―『ニッポンの思想』から読む『構造と力』(三)

        • わかった気になることとわかること―『ニッポンの思想』から読む『構造と力』(二)

        • わかった気になることとわかること―『ニッポンの思想』から読む『構造と力』(一)

          「東浩紀『動物化するポストモダン』はどこがまちがっているか――データベース消費編」を読んで

          「東浩紀『動物化するポストモダン』はどこがまちがっているか――データベース消費編」 しんかい36 (@shinkai35)こと山川賢一は、いくつかの場所で東浩紀『動物化するポストモダン』(以下『動ポモ』)を批判している。筆者はそのいくつかに、さらに反論を加えた。内容は以下にまとめられている。 山川賢一の『動ポモのどこがクソなのか大会』 東浩紀『動物化するポストモダン』-「近代的消費」をめぐる議論 筆者の考えでは、以上の山川の批判は失当である。その理由についても以上のま

          「東浩紀『動物化するポストモダン』はどこがまちがっているか――データベース消費編」を読んで