わかった気になることとわかること―『ニッポンの思想』から読む『構造と力』(二)
第一回はこちら。
脱コード化について
それでは『ニッポンの思想』における「脱コード化」と、『構造と力』における「脱コード化」について比較してみよう。
○「ニッポンの思想」の場合
ここで佐々木は、「構造―クラインの壺―リゾーム」という図式を「プレモダン―モダン―ポストモダン」という図式に対応させている。この対応自体に異論はない。しかし、佐々木がここに、第一部で引用した以下の三段階説を強引に重ねることで、この図式に少しずつ歪みが生じ始める。
「『構造と力』では、ただひたすら繰り返し繰り返し、ほとんどしつこいほどに同様の主張が変奏されている」という佐々木の読みの結果、上記の三段階図式が同じく「プレモダン-モダン-ポストモダン」と読み替えられてしまう。
ここで佐々木の整理を図式化すると、以下のようになる。
コード化=原始共同体=構造=プレモダン
超コード化=古代専制国家=クラインの壺=モダン
脱コード化=近代資本制=リゾーム=ポストモダン
この部分だけ読んでも、「脱コード化」=「近代資本制」=「ポストモダン」という位置づけには首を傾げるところがある。辞書的にも近代とはモダンであり、ポストモダンとは近代の後を意味するからだ。以下では実際に『構造と力』を参照しながら「超コード化」と「脱コード化」について検討していく。
○『構造と力』の場合
「超コード化」の説明として、浅田は以下のように述べる。
この「超コード化」段階を図示するなら、「ピラミッド型」、または「トゥリー状ハイアラーキー」(22p.)といった形になるだろう。
そして、この次の段階が「脱コード化」段階である。
そして、このような脱コード化の段階を図示したのが、表紙を飾り本書を象徴するイメージである「クラインの壺」である。
改めて整理しよう。『構造と力』によれば、
超コード化=古代専制国家=トゥリー=プレモダン
脱コード化=近代資本制=クラインの壺=モダン
上記のような図式となる。これを『ニッポンの思想』の図式と比較してみよう。
超コード化=古代専制国家=クラインの壺=モダン
脱コード化=近代資本制=リゾーム=ポストモダン
上記の通り、佐々木が理解した図式の『構造と力』と、実際の『構造と力』とでは、クラインの壺の位置づけに違いがある。佐々木が「クラインの壺」を「超コード化=古代専制国家」に位置づけるのに対し、浅田は「脱コード化=近代資本制」に位置づけている。
これは単純なミスで、文脈を追えば整合的に理解可能であり、佐々木自身の理解とはさほど関係がないのだろうか。私はそうではないと考える。佐々木が「わかってしまった」『構造と力』とは、果たしてどのような内容なのだろうか。
キーワードは「(制限された)脱コード化」である。
続く
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