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わかった気になることとわかること―『ニッポンの思想』から読む『構造と力』(二)

第一回はこちら。

脱コード化について

それでは『ニッポンの思想』における「脱コード化」と、『構造と力』における「脱コード化」について比較してみよう。

○「ニッポンの思想」の場合

そして浅田が、最終的/究極的な「社会=理想」の理想型として掲げるのが、第三段階である「脱コード化」です。まず「内部」と「外部」がきちんと区分けされている状態があります。(「構造」)。次に「外部」が「内部」へ/「内部」が「外部」へと無限に繰り込まれていく循環的な回路が生じます(「クラインの壺」)。そして遂にはそこで孕まれた「過剰」が、「内部/外部」という概念設定自体を完膚なきまでに打ち壊し、すべてが散逸しつつ絡み合う無数の運動と化します(「リゾーム」)。そして、この三つの段階は、そのまま「プレモダン―モダン―ポストモダン」という三つの時代区分へと言い換えられます。浅田はこの本の中で、この三段階説を、様々な事象に適用していきます。(詳しくは『構造と力』の巻末に付された図表を参照してください)。(61p.)

『ニッポンの思想』

ここで佐々木は、「構造―クラインの壺―リゾーム」という図式を「プレモダン―モダン―ポストモダン」という図式に対応させている。この対応自体に異論はない。しかし、佐々木がここに、第一部で引用した以下の三段階説を強引に重ねることで、この図式に少しずつ歪みが生じ始める。

コード化 原始共同体
超コード化 古代専制国家
脱コード化 近代資本制
(60p.)  

『ニッポンの思想』

「『構造と力』では、ただひたすら繰り返し繰り返し、ほとんどしつこいほどに同様の主張が変奏されている」という佐々木の読みの結果、上記の三段階図式が同じく「プレモダン-モダン-ポストモダン」と読み替えられてしまう。

ここで佐々木の整理を図式化すると、以下のようになる。

コード化=原始共同体=構造=プレモダン
超コード化=古代専制国家=クラインの壺=モダン
脱コード化=近代資本制=リゾーム=ポストモダン

この部分だけ読んでも、「脱コード化」=「近代資本制」=「ポストモダン」という位置づけには首を傾げるところがある。辞書的にも近代とはモダンであり、ポストモダンとは近代の後を意味するからだ。以下では実際に『構造と力』を参照しながら「超コード化」と「脱コード化」について検討していく。

○『構造と力』の場合

「超コード化」の説明として、浅田は以下のように述べる。

それは、ただひとりの王(もしくは神)が臣下たちの上に君臨するという、ピラミッド型の構図である。(168.)

『構造と力』

重畳したコードを超越的な頂点によって包摂・規制するというこの新しい体制のメカニズムを、超コード化(surcodage)と呼ぶことができるだろう。(169p.)

『構造と力』

この「超コード化」段階を図示するなら、「ピラミッド型」、または「トゥリー状ハイアラーキー」(22p.)といった形になるだろう。

超コード化

そして、この次の段階が「脱コード化」段階である。

グローバルな脱コード化(decodage)を原理とする唯一の文化、これが、我々の図式の第三段階をなす近代資本制である。それ以前の段階では、社会は差異付けられた質的な位置の体系として整序されていた。それが今やバラバラに解体され同質化されて、量的な流れの運動の中に投じられるのである。(170p.)

『構造と力』

近代とはすぐれて中心なき時代である。超コード化は、中心をいわばブラック・ホールとして超越的な位置に置き、それとの絶対的なポテンシャルの差によって象徴秩序を金縛りにして吊り支えるという構造を構えていたのだったが、脱コード化によってそうした中心を消去することこそ近代への第一歩なのである。(175p.)

『構造と力』

そして、このような脱コード化の段階を図示したのが、表紙を飾り本書を象徴するイメージである「クラインの壺」である。

脱コード化

いったん超越性へと投げ出された貨幣が再び商品世界の内在性の只中に投下されること。ひとたびはメタ・レベルに排除されていた筈の中心がいつの間にか何くわぬ顔でオブジェクト・レベルに戻ってきていること。これこそ近代資本制における脱コード化の運動の基本型である。それを図2の《クラインの壺》で表し、図1と対比することにしよう。(196p.)

『構造と力』

改めて整理しよう。『構造と力』によれば、

超コード化=古代専制国家=トゥリー=プレモダン
脱コード化=近代資本制=クラインの壺=モダン

上記のような図式となる。これを『ニッポンの思想』の図式と比較してみよう。

超コード化=古代専制国家=クラインの壺=モダン
脱コード化=近代資本制=リゾーム=ポストモダン

上記の通り、佐々木が理解した図式の『構造と力』と、実際の『構造と力』とでは、クラインの壺の位置づけに違いがある。佐々木が「クラインの壺」を「超コード化=古代専制国家」に位置づけるのに対し、浅田は「脱コード化=近代資本制」に位置づけている。

これは単純なミスで、文脈を追えば整合的に理解可能であり、佐々木自身の理解とはさほど関係がないのだろうか。私はそうではないと考える。佐々木が「わかってしまった」『構造と力』とは、果たしてどのような内容なのだろうか。

キーワードは「(制限された)脱コード化」である。

続く

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