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わかった気になることとわかること―『ニッポンの思想』から読む『構造と力』(三)

第一回はこちら。

第二回はこちら。

○ふたつの教室

ここでは佐々木敦による『構造と力』「第六章 クラインの壺からリゾームへ」の読解を見ていこう。

浅田はここで、ふたつのタイプの教室を例に挙げつつ、超コード化脱コード化について解説する。
教室に生徒とその監督がいる。第一の教室では監督が前からにらみをきかせている。第二の教室では監督は後ろにいる、いや、いるらしいとしかわからない。
そしてこのふたつの教室の違いについて、浅田は以下のように説明する。

第一の教室が前近代、第二の教室が近代のモデルとして提示されているということは、あらためて確認するまでもないだろう。たとえば、第二の教室の機能はフーコーが近代のモデルケースとしてとりあげたベンサムのパノプティコンの機能と同一であり、第一の教室の機能はそれに先立つ絶対王政の権力装置の機能と共通している。さらに、第一の教室と第二の教室を、ドゥルーズ=ガタリのいう超コード化(専制)と相対的脱コード化(資本制)の部分的モデルとみなすこともできるだろう。(213p.)

『構造と力』

さて、この部分について、佐々木は以下のように論じる。

しかしこの「第二の教室」は「第一の教室」と、それほど違うものでしょうか。少なくとも「監督」の存在という点では、ふたつは共通しています。
あくまでも理想的/理念的に考えてみるならば、この二つの教室は、実はどちらも「超コード化」の段階にとどまっているのであって、ほんとうは、「監督」などどこにも居ないのに、各自がてんで勝手に振る舞うことによって、何もかもいくような「第三の教室」が構想されなくてはならないのです。(『ニッポンの思想』63p.)

『ニッポンの思想』

佐々木の考えによると、第二の教室は、「超コード化」の段階に留まっている。これは第二回で佐々木が「超コード化」の段階に「クラインの壺」を位置づけていたことと対応している。
ここから分かることは、佐々木は第一の教室と第二の教室を区別しない、ということだ。言い換えればツリーとクラインの壺の違いを認めない

もちろん浅田は、この二つの教室について、「たったこれだけの違いが生徒たちの行動様式に根本的な差異を生じさせる」と両者を区別する。(『構造と力』211p.)
そして『ニッポンの思想』の独自性は、「ツリーとクラインの壺の違いを認めない」という立場から、独特の『構造と力』像を描き出したことにある。

さて実際のところ、「第一の教室」と「第二の教室」は同じなのか。つまりツリーとクラインの壺は同じなのか、それとも異なるのか。この点に関して議論の余地があることは付け加えておこう。ツリー=神学とクラインの壺=否定神学の違いを重視しない、という立場は十分ありうる(例えば東浩紀『動物化するポストモダン』など)。しかしそれは、佐々木敦『ニッポンの思想』の読解を超えた問題である。

さて、このような手続きを経て、はじめて佐々木の以下の文章の意味するところを正確に掴むことができる。

しかし、それが明らかに困難であるということを、浅田はよくわかっており、だからこそ「相対的脱コード化の部分的モデル」という、しごく曖昧な書き方をしなくてはならなかったのです。(63p.)

『ニッポンの思想』

佐々木にとって「相対的脱コード化の部分的モデル」という書き方は、「しごく曖昧な書き方」であるとされる。他にも佐々木は、『構造と力』において「脱コード化」というキーワードに「(相対的な)」「(制限された)」という留保が付けられた部分に注目した読解を展開している。

結論からいえば、この書き方には特に曖昧なところはない。浅田は『構造と力」において「相対的脱コード化」に明確な定義を与えている。それは「クラインの壺」である。

続く

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