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わかった気になることとわかること―『ニッポンの思想』から読む『構造と力』(一)

近年のヘーゲル復権という流れで、浅田彰『構造と力』を読み直す機会があった。

現代思想の「チャート式参考書」とも言われる『構造と力』では、現代思想を過去の思想史の中に埋め込むなかで、より大きなパースペクティブの中で見直すことが試みられている。具体的には構造主義のサンボリック一元論とクリステヴァのサンボリック/セミオティック二元論の対比が、カントとヘーゲルの対比のなかで改めて整理される。

さて、佐々木敦『ニッポンの思想』は、「80年代から現在までに至る「ニッポンの思想」の変遷を、筆者なりの視点から辿り直してみよう」というものだ。

ここで注目したいのは、本書の次のような見出しである。

すべては『構造と力』から始まった(28p.)

『ニッポンの思想』

この見出しに表現されるように、本書では『構造と力』を「ニッポンの思想」の起源として重視し、解説に多くのページを割いている。

例えば佐々木は『構造と力』を初めて読んだ時のことを回想しながら、以下のように述べる。

読んでみて非常に驚きました。難しくてわからなかったからではありません。わかってしまったからです。いや、もちろん何もかもが理解出来たわけではなかったのですが、浅田彰の主張は、ある意味ではあまりにも明瞭でした。(54p.)

『ニッポンの思想』

さて、佐々木は同じ章で、以下のようにも述べる。

「わかる」ということの意味が本当は甚だ曖昧である以上、「わかった気になる」「わかる」のあいだには本質的には線引きができないと思うのです(103p.)

『ニッポンの思想』

本稿にて私は、佐々木は、『構造と力』を「わかった気」になり、それを「わかった」ものとして提示している、と考える。以下では『ニッポンの思想』において示される、「佐々木敦が解釈する『構造と力』」を紹介したのちに、実際には『構造と力』に何が書かれていたかを詳細に検討する。

「冷たい社会」と「熱い社会」について

○『ニッポンの思想』の場合

まず『ニッポンの思想』において、「冷たい社会」と「熱い社会」という概念が、どのように用いられたかを確認しておく。

第Ⅱ部「構造主義のリミットを超える」では、副題に「ラカンとラカン以後」とあるように、ジャック・ラカンの精神分析理論の批判的読解が、ふたたび「構造」と「外部(力)」というロジックで行われたのち、この本の核心というべき「ポスト構造主義」としてのドゥルーズ=ガタリによる「国家論」の紹介に連なっていきます。ここで、先の「冷たい社会/熱い社会」を、もう少し精密にした三分類が登場します。
コード化 原始共同体
超コード化 古代専制国家
脱コード化 近代資本制
この三段階説はドゥルーズ=ガタリに拠っていますが、一つ目が「冷たい社会」に、二つ目と三つ目が「熱い社会」に相当していることがすぐに分かります。つまり、序章では「熱い社会」として一括されていた様態が、ここでは更に二つのプロセスに分けられているということです。(60p.)

『ニッポンの思想』

ここで佐々木は、「冷たい社会」を「コード化 原始共同体」、「熱い社会」を「超コード化 古代専制国家」・「脱コード化 近代資本制」に対応させて、そのことが「すぐに分か」ると述べる。また直前の部分で佐々木は、

そして実際、あらためて読み直してみて、ちょっと驚いてしまったほどに、『構造と力』では、ただひたすら繰り返し繰り返し、ほとんどしつこいほどに同様の主張が変奏されています。(59p.)

『ニッポンの思想』

とも述べる。さて、このような佐々木の「読み直し」は妥当だろうか。

○『構造と力』の場合

それでは『構造と力』において、実際には「冷たい社会」と「熱い社会」という概念が、どのように用いられていたかを確認しておく。

さて次に、レヴィ=ストロースの「冷たい社会」と「熱い社会」という理念型を導入しよう。(10p.)

『構造と力』

上記の通り、「冷たい社会」「熱い社会」は、レヴィ=ストロース由来の概念である。

ここで注目したいのは、コード化・超コード化・脱コード化という概念は、まさにこの「冷たい社会」「熱い社会」という図式を批判するためにこそ導入されたということである。

以下、ドゥルーズ=ガタリにならって、それら諸形態の中から重要な理念型をとり出し、一般的な時代区分と対応させつつ、①コード化―原始共同体 ②超コード化―古代専制国家 ③(制限された)脱コード化―近代資本制 の三段階の定式化を行うことにする。
第一段階において力を伝播させる働きを担うのは、中心なき軌道を描く負債の運動である。この軌道とはモースが見出した贈与の円環に他ならない。一方的な贈与と見えるものを円環の一契機としてとらえ返すことによって、拡大された相互性=互酬性による解釈が可能になったこと、それを承けたレヴィ=ストロースが贈与の円環を一般交換として定式化したことは、これまでに何度か触れてきた通りである。万古の昔から所定のルール通りに機械的な回転を続ける一般交換の円環。これこそ彼の言う冷たい社会を支えるメカニズムである。我々は、しかし、モースにあってレヴィ=ストロースが無視している側面に注目したい。それは微視的なダイナミックスの分析とでもいうべき視点である。(166p.)

『構造と力』

本能による規制を失ってありとあらゆる方向に走り出そうとしていた欲望の流れに対して、コード化(codage)が行われるのである。レヴィ=ストロースが見出したような象徴秩序の構造は、その結果として出来上がったコードに過ぎない。言いかえれば、不均衡でダイナミックな過程こそが本源的なのであって、一般交換のスタティックな均衡は必ずしも安定的とは言えぬ派生物に過ぎないのである。してみると、永遠の円環的調和のうちに安らう歴史なき冷たい社会というヴィジョンは、極めて観念的なものと言わねばならない。(167p.)

『構造と力』

ここで『構造と力』は、はっきりと冷たい社会(レヴィ=ストロース)とコード化(ドゥルーズ=ガタリ)を区別している。「冷たい」社会は、実は「熱い」のだ。
上記を踏まえて述べれば、佐々木はコード化とコードを誤って同じものだと「分かって」しまった、ということになるだろう。

補足として、下記の記述を加えておこう。浅田の「明瞭」な整理は、例えばこのような記述に現れる。

このことは、最後に我々がコード化を原始共同体の段階に位置付けるのを妨げるものではない。(167p.)

『構造と力』

ここでは原始共同体と古代専制国家を区別する指標が「冷たい」か「熱いか」ではないのだということが「明瞭」に述べられている。


(続く)

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