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わかった気になることとわかること―『ニッポンの思想』から読む『構造と力』(四)

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○二つの脱コード化

佐々木の考える「脱コード化」とは何か。それは「リゾーム」であり「ポストモダン」である。(第二回も参照)。
そして佐々木の誤りは、「(制限された)」「(相対的な)」脱コード化も「リゾーム」であり「ポストモダン」であると読解してしまったところにある。
しかし『構造と力』の「脱コード化」には二種類ある。「制限された脱コード化」と、「無制限の脱コード化」である。そしてこの両者を分けるのが、「公理系」である。

但し、手放しで全面的な脱コード化が展開するに任せていればいいと考えるなら、それは全くの誤りである。すべては、欲望の多形的な流れの氾濫ではなく、資本の単性生殖を目指して行われるのであり、そのためには、すでに述べたように、脱コード化された流れを一定方向に誘導せねばならないのである。そのための新たなメカニズムを、ドゥルーズ=ガタリは公理系(axiomatipue)と呼ぶ。これとコードを混同してはならない。コードが質的な位置の体系を規定する規範であったのに対し、公理系は量的な流れの運動を調整する管理規則にすぎない。それはコードなき時代としての近代において欲望のアナーキーを規制する不可視のグリッドなのである。(171p.)

『構造と力』

ここで「全面的な脱コード化」を調整するものとして導入されるのが「公理系」である。

犯罪者や狂人―とりわけ無制限の脱コード化を生きる精神分裂病者―の監禁などによって公理系の埒を超える脱コード化を抑圧するという表立った作業は、近代国家の本質的な役割のひとつである。(179p.)

『構造と力』

無制限の脱コード化を生きるのが精神分裂病(『逃走論』でいう「スキゾ」)である。そして近代国家によって、脱コード化が抑圧される。

佐々木は「脱コード化」に「クラインの壺」と「リゾーム」の両方が相当することを読みとることができなかった。そしてその読みを正当化するために、浅田の考えを自分なりに推量し、構図を書き換えたのだ。例えば以下の文章にも、三段階図式を独自の意味付けによって機械的に適用した結果生じた混乱が見て取れる。

そして、この「壺」の中に在る限り、「リゾーム」へのジャンプは不可能です。第二段階から第三段階へは、実のところ超えることが出来ないほどの断層があります。『構造と力』巻末図の「ポストモダン」の項に「理想的極限としての」という但し書きが付けられているのは、そういう意味です。従って、「脱コード化」を「近代資本制」とするのは精確ではなく、実際は「資本制の極限」とでもすべきなのです。(65p.)

『ニッポンの思想』

これまで説明してきた通り、第二段階(ツリー)から第三段階(クラインの壺)へは断層はあるが、超えることができないわけではない。また、脱コード化は近代資本制として「精確」である。

ここでもういちど以下の文章を見てみよう。

ほんとうは、「監督」などどこにも居ないのに、各自がてんで勝手に振る舞うことによって、何もかも上手くいくような「第三の教室」が構想されなくてはならないのです。しかし、それが明らかに困難であるということを、浅田はよくわかっており、だからこそ「相対的脱コード化の部分的モデル」という、しごく曖昧な書き方をしなくてはならなかったのです。(63p.)

『ニッポンの思想』

ここで佐々木の言う「第三の教室」は、『構造と力』でいう「リゾーム」に該当する。
それでは、このような「各自がてんで勝手に振る舞うことによって、何もかも上手くいくような「第三の教室」」は構想されなくてはならないのか。少なくとも、『構造と力』における以下の文章に見られる通り、そのような意図を構想する必要はなさそうに思える。

ぼくたちは先程来、主体としての一貫性などにこだわることなくあらゆる方向に自己を開くこと、それによってハイアラーキーを済し崩し的に解体することを提案してきたのだった。もちろん、それなしにはすべてが混沌としてしまう以上、目的性のハイアラーキーを直接破壊しつくすわけにはいかない。(22p.)

『構造と力』

浅田自身も上記のように述べ、加速主義者のように無制限の脱コード化を無条件に肯定しているわけではない。(参照:オルタナ右翼の源流ニック・ランドと新反動主義

さて、以上から『ニッポンの思想』および『構造と力』の図式の違いは明確になったように思う。佐々木は他にも浅田彰による「子供の資本主義と日本のポストモダニズム」を引用し、「老人の資本主義」「大人の資本主義」「子供の資本主義」を上記の三段階図式と対応させ、以下のような解釈を提示する。

では、「八〇年代ニッポン」の「子供の資本主義」が「脱コード化=リゾーム」なのでしょうか。本当はそうではなかったはずなのに、あまりにも「現実」の地場が強すぎて、そういうことになってしまったのです。(96p.)

『ニッポンの思想』

もちろん資本主義は、脱コード化に該当する。そして、それは「リゾーム」ではなく「クラインの壺」である。

さて、これまでの論旨から、『ニッポンの思想』と『構造と力』の差異の構造については、明確に示すことができたのではないかと思う。実際のところ、第一回で述べた通り、佐々木はわかった気になることとわかることを区別しないため、本稿の指摘は佐々木に対しては意味を成さない。本稿の目的は『ニッポンの思想』と『構造と力』、両者のテキストの正確な読解である。

最後に、なぜ佐々木がこのような「わかった気になったこと」を「わかってしまった」ものとして纏めるか、について考察してみよう。ヒントは「なぜ東浩紀は”ひとり勝ち”」しているのか?」という、佐々木の歴史観である。

続く

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