わかった気になることとわかること―『ニッポンの思想』から読む『構造と力』(四)
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○二つの脱コード化
佐々木の考える「脱コード化」とは何か。それは「リゾーム」であり「ポストモダン」である。(第二回も参照)。
そして佐々木の誤りは、「(制限された)」「(相対的な)」脱コード化も「リゾーム」であり「ポストモダン」であると読解してしまったところにある。
しかし『構造と力』の「脱コード化」には二種類ある。「制限された脱コード化」と、「無制限の脱コード化」である。そしてこの両者を分けるのが、「公理系」である。
ここで「全面的な脱コード化」を調整するものとして導入されるのが「公理系」である。
無制限の脱コード化を生きるのが精神分裂病(『逃走論』でいう「スキゾ」)である。そして近代国家によって、脱コード化が抑圧される。
佐々木は「脱コード化」に「クラインの壺」と「リゾーム」の両方が相当することを読みとることができなかった。そしてその読みを正当化するために、浅田の考えを自分なりに推量し、構図を書き換えたのだ。例えば以下の文章にも、三段階図式を独自の意味付けによって機械的に適用した結果生じた混乱が見て取れる。
これまで説明してきた通り、第二段階(ツリー)から第三段階(クラインの壺)へは断層はあるが、超えることができないわけではない。また、脱コード化は近代資本制として「精確」である。
ここでもういちど以下の文章を見てみよう。
ここで佐々木の言う「第三の教室」は、『構造と力』でいう「リゾーム」に該当する。
それでは、このような「各自がてんで勝手に振る舞うことによって、何もかも上手くいくような「第三の教室」」は構想されなくてはならないのか。少なくとも、『構造と力』における以下の文章に見られる通り、そのような意図を構想する必要はなさそうに思える。
浅田自身も上記のように述べ、加速主義者のように無制限の脱コード化を無条件に肯定しているわけではない。(参照:オルタナ右翼の源流ニック・ランドと新反動主義)
さて、以上から『ニッポンの思想』および『構造と力』の図式の違いは明確になったように思う。佐々木は他にも浅田彰による「子供の資本主義と日本のポストモダニズム」を引用し、「老人の資本主義」「大人の資本主義」「子供の資本主義」を上記の三段階図式と対応させ、以下のような解釈を提示する。
もちろん資本主義は、脱コード化に該当する。そして、それは「リゾーム」ではなく「クラインの壺」である。
さて、これまでの論旨から、『ニッポンの思想』と『構造と力』の差異の構造については、明確に示すことができたのではないかと思う。実際のところ、第一回で述べた通り、佐々木はわかった気になることとわかることを区別しないため、本稿の指摘は佐々木に対しては意味を成さない。本稿の目的は『ニッポンの思想』と『構造と力』、両者のテキストの正確な読解である。
最後に、なぜ佐々木がこのような「わかった気になったこと」を「わかってしまった」ものとして纏めるか、について考察してみよう。ヒントは「なぜ東浩紀は”ひとり勝ち”」しているのか?」という、佐々木の歴史観である。
続く
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