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ゆるく、熱く。ゆっくり、急ぐ。

どーも!Hayatoです!

今日は!誰も興味ないと思いますが!!

自己紹介を兼ねて、これまでの人生を振り返っていきまーす。(はーい。)

小学校から大学までサッカー中心に生きていました。小中はJリーグの下部組織で、高校は普通の公立高校、大学受験は第一志望だった大学には行けず、地方にある国立大学に進学しました。田舎の国立大学で特に設備が良いわけでもなかったので、普通に勉強しながら卒業までサッカーに打ち込みました。チーム自体はそんなに強くなかったので2年生からレギュラーで出させてもらい、運良く大学選抜に入ったり、J2の練習に参加させてもらったりしていましたが、大学入学時から元々プロになれると思っても見なかったし、実力的にも全然ダメで「自分はこんなにストイックにはなれないなー」ということでプロの選択肢はありませんでした。

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元々スポーツチームで働きたいという理由からトレーナー志望だったので大学卒業後の進路として、①大学院 ②海外の大学or大学院 ③医療系専門学校がありました。ちなみに子供の頃のなりたい職業はスポーツトレーナーか花火師か考古学者でした。笑

そして机の上の勉強より実践的な事を学びたかったので専門学校への進学を選びました。トレーナーになりたかった理由は、「現役時代に怪我してトレーナーにお世話になった」とか綺麗なものではなく、単に部活の雰囲気が好きで、この感じで仕事できたらなーというのが始まりです。スーツ着たくなかったし。笑

専門学校では通常6年かけて取得する鍼灸師と柔道整復師という異なる資格を同時に3年で取りました。入学時に先生方に止められましたが、時間をかけたくなかったので無理矢理ダブルで入学して無事に国家試験をパスしました。たぶん頑張れば、みんなできます。

大学卒業と同時にサッカーコーチの推薦も貰い、専門学校に通いながら大学生のコーチや監督もしていましたが、日本サッカー協会のコーチングの講師が嫌い、かつ当時はコーチの仕事に魅力を感じなかったので、こちらは辞めました。サッカーが嫌いになった時期でした。

専門学校在学中は夏休みを利用してアメリカに行き、大学のアメフトチームのサマーキャンプにトレーナーとして参加したり、インターン先を自分で探して授業の合間に行っていました。通っていた学校にトレーナー科はなかったのでとにかく自分で勉強しに行っていました。その時にアメリカで知り合った選手たちは今でも連絡とったりします。

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アメリカの他にもドイツのブンデスリーガのチームにも自分で連絡をとって勉強しに行ったりしました。

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アメリカ留学時に「アメリカではトレーナーの学生は色んなスポーツ見るんだよー。どんなスポーツにも対応出来ないといけないから。」と教えてもらい、それに習ってコンタクトスポーツを学ぶことに決めました。

専門卒業後、整形外科と鍼灸院を掛け持ちしながら土日はアメフトチームで活動しました。半年後、ご縁を頂き愛知県にあるラグビートップリーグのチームと契約を結びました。このチームで2シーズン過ごした後、「来季も契約するから」と伝えられ他のチームのオファーを断って待っていたら掌を返され、無職になりました。笑 はっきりとした理由は今でもわかりませんが、後々チームの方に聞いたところ、上司にあたるトレーナーが良く思っておらず、根回ししていたそうです。いろいろありますね。辞めるときに選手はめちゃくちゃ連絡くれたので、自分がやってた事は間違ってなかったと今でも思っています。大殺界でした。(今まで良くないことがあるとノリで大殺界大殺界と言っていましたが、あまりに良くないことが起こるので調べたらガチで大殺界でした。笑 ※大殺界は3年間続くそうです。)

あと1年働きながらお金を貯めて、アメリカの大学院に進学するつもりだったのですが、プランが総崩れしました。「やべー。」となっているところに、当時同じチームで働いていたスタッフが「何で辞めちゃうの?」と連絡をくれ、経緯を話したところ「ニュージーランドのチーム紹介できるよ。もう海外行っちゃえば?」と繋げて下さり、英語の勉強にもなるし勢いで行くことに決めました。

当時付き合っていた彼女(現奥さん)を離したくなかったので無職なのにプロポーズして、婚約しました。結局ニュージーランドには2年いましたが、一言も文句を言わず待っていてくれた奥さんには頭が上がりません。

1年間オークランドという町にあるラグビーチームで活動した後、「もう少し勉強したいなぁ」と思い、日本の鍼灸師の資格を移行してNZの試験を受けて資格を取りました。この資格があると保険を使えるのでNZで就職するのに有利になります。そして新しい仕事先を探していると、スポーツ系のクリニックがあったので連絡を取るとあれよあれよと話が進み、クイーンズタウンという町にあるクリニックで勤めることになりました。カイロのドクター、理学療法士、鍼灸師、マッサージ師が勤めるホリスティックなクリニックでした。

何より良かったのはクイーンズタウンという町がとても美しかったことです。僕の大殺界で荒んだ心を洗い流してくれました。いや、ホントに自然に助けられたと言っても過言ではない。

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その1年間はクリニックで働きながらローカルのチームをみたり、スポットでSuper Rugbyのチームに治療に行ったりしていました。他にもNZのボクシングチャンピオンやテニスの日本代表選手なんかも診たり、良い経験をさせて貰いました。ボスが昔診ていたこともあり、NZラグビー代表All Blacksにも帯同させて貰いました。

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ある日、地元のサッカーチーム(といってもヨーロッパの元プロとかがいる)をサポートしてると、ボール蹴ってるのをみてイングランド出身のコーチが「Hayato、試合出ろ。」と言ってきました。「いやいやどこに怪我人と変わって試合出るフィジオおんねん。」と言ったら、「お前の同僚のスコット、ラグビーのフィジオしながら試合出てるで。」と衝撃の事実を伝えられ「うそやん…」と、何か知らん間に登録させられ試合に出たら新聞に載るという事件も起きました。笑

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そんな自由な国、ニュージーランドが僕は大好きです。

しかしまぁ色んな想いもあり、2年弱いたNZを離れ、日本に帰ってきました。帰国してからは大阪のラグビーチームに勤める一方、友人と治療院を立ち上げました。帰国した理由に、動けるうちに友人や身近にいる人と一緒に過ごしたり何かしたいという想いがありました。結局、その治療院は友人に任せて僕は新しい施設(ジム)を作ることにしました。それが今の経営施設です。

そして2021年5月、3年間務めたラグビーチームを離れました。一番の理由は、娘が生まれたことです。お金はもちろん大事だし、必要不可欠だけど、今しかない娘の成長する瞬間を奥さんと一緒に見ることを僕は選びました。これが正解ではないし、人それぞれの選択があると思います。ただ、選択肢を持てる事、そして持った時に自分の歩きたい道を歩けるように知識やスキル、経験、もちろんお金も、僕は準備しておきたいと考えています。

帰国して、もともとクソだと思っていた柔整鍼灸業界も若い人たちは熱意や自分なりの考えがあって、だけどそれを発揮する場所がなかったり、中身を見てみるとまだまだ低賃金と長い時間拘束されるライフスタイルと本当に想いは色々あります。僕自身の目標もあります。海外での生活や自分の経験を活かして、お客さんはもちろんその施設で働いてくれるスタッフや同じ業界の仲間にもう少しだけ良い人生を送るキッカケを提供できたらなと思っています。

色々な想いはまた今度。

今んとここんな感じです、僕の人生は。

Hayato


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