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「余白」にあるものを感じ取れる豊かさ

「エメラルド色のメガネをしていたから、
 何もかもエメラルド色に見えていた」

「色」を扱う仕事をしているので、よく子供の頃に読んだ「オズの魔法使い」のそんなオチを思い出し、「色眼鏡」をつけていないか自問します。

デザインする仕事も、絵を描く仕事も、
ワークショップで参加者さんと関わる時間においても、
極力、自分の先入観をゼロにしようとしているものの・・・
これは、超・私先入観かもしれないというお話を書きます。

アートワークショップで様々な世代の参加者さんと、
美術館の名画を前にお話ししたりしていると、
実年齢と、アートに触れた時の心の動き・反応の年齢が一致しないように
感じることがよくあるのです。

(もちろん、優劣のお話ではないです)

まだ10年も生きていないはずなのに、
「あなたさまの中に、仙人さん住んでます?」
というお子さんであったり、

「ばぁば」と呼ばれて久しいかたが
「先生、あのね!」って、喋りたくて喋りたくて仕方ない、
赤いランドセルを背負った少女のように見えたり。

「精神年齢」が高いとか、若いとかではない気がするのですが、
これが何だかよくわからないまま、
その「中(なかのひと)」とのコミュニケーションを楽しく思っています。

日本的な「余白の美」というものがありますが、
同様に、年齢を重ねても「余白」をスルーするかたもいらっしゃるし、
お若くても、水墨画の「描かれていない部分」に
見入るかたもいらっしゃいます。

デザインの仕事をしていた頃、
「もっと、詰めて、もっと、詰めて」
と連呼するディレクターさんに、同僚と辟易したものですが(笑)
情報を詰め込む必要がある場合もあるので間違いではないのですが、
「隙間」が怖いのか?というくらい、
満杯にしておかないと落ち着かないという様子でした。
(参加者さんが、そういうタイプの場合には、
 たくさんの人物が描きこまれた絵画にご案内しています)

「余白」の豊さに気づくのは、どういったタイミングなのだろう、
と考えたりもしていたのですが。
前述の通り、小さなお子さんの方が、
詩の行間を読むのに長けていたり、
(大人にとっては何が描かれているのか判然としなくて落ち着かないような)抽象画に胸を躍らせていたりする様子を見ていると。

あれ?本当は生まれた時は「余白」の豊さ、美しさがわかっていて、
忘れちゃうことがあるってことかな?
なんて思うようになりました。

子供さんが画用紙に無心で描く絵って、
絶妙な余白がありますよね。

技術がないからとか、集中力が足りないから、
じゃないと思っています。私は、あれは素晴らしいアートだと^^

それに、何年か経って、子供が小さい頃に描いたその絵を見たときに、
何も描かれていないその白い部分から、
思い出が、記憶が溢れ出てくるはずです。
どんな場所で書いていたのか、
どんな匂いがしていたのか、
どんな・・・

描かなかった部分、書かなかった行間。

それを感じ取ることができる、私たち本来の感覚を
「余白」にあるものを感じ取る豊かさを
少しずつ取り戻している人が増えているような気がしています。

文学や音楽、芸術といったものがあって、良かった。


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