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SNSで長いこと知り合いだった方に会えた日の日記

mixiよりも自由にちょっとしたことをそれこそ「つぶやける」場としてTwitterを使い出した時に知り合った人と、今日はやっと会えた。
その頃のTwitterはまだ相手のホームに行くと相手が見ているタイムラインが表示されていたから、そのひとの興味を見渡すことができるようで面白かったのだが、あれからTwitterもずいぶん変わって、私も私なりの使い方で10年もTwitterに何やかにやをつぶやいている。
彼女とは直接言葉を交わすようなことはそんなにないのだけれど、好きなアニメが似ていたり、言葉や意思に惹かれるものを感じて、なんとなくお互いの動向を知っていたり、していることを応援していたり、私のプロジェクトに力を貸していただいたりもしていた。
いつか会えたらいいな、という風にはずっと考えていたのだけれど、いざ会えるとなったら少し緊張したけれど、そうだ、緊張なんてする必要ないんだった。もう私はしょうもないところも、恥ずかしいところも、Twitterで彼女に知られているんだから。などと考えたら少し気が楽になったりして。

小雨が顔を濡らすのもかまわずに、あの小さな影が彼女だろうか、それともあの確かな足取りが?
と、大きな公園のあちこちを眺め回した。
近くには公園のガードマンが時折無線で同僚と何か言葉を交わしながら、でもわたしをちらりとも見ずにいた。
ロングスカートと、ロングコートをひらめかせた影を見て、ああ、あれ以外にないぞ、と思ったらやはり彼女で、向こうも小さな影のうちに、私をわかってくれたのだった。

博物館でぽつぽつと言葉を交わしながら歩いて、最後の階ではほとんど展示を見ずに話ばかりしながら歩いた。
ときどき手元の三葉虫やシダの化石を横目で見ながら、この時間のなかで少しでも深く分け入ることができたらいいなあ、と集中する。
彼女の話すことの手触りと、目の前に立ち並ぶ骨たち、いつのまにか積み上がったお互いの遠い情報、やっと顔を合わせられた興奮をなだめながら、そういうものを手探りし、選り分ける。
一緒に美術館や博物館に行くと、どういうスピードで、どういうふうに一緒にいるひとに寄り添うのか、どのくらい視界を限定させるのか、どのくらい言葉にしたいのかしたくないのか、そういうことがなんとなく分かる気がする。
早くカフェで額を突き合わせて話したい!という気持ちもうずうずとこみ上げてくるのだけれど、じっと、目の前のくじらのひげに集中もする。

ひとに会うのに緊張するのは、そのひとに自分を、自分がそのひとに思ってほしいような自分として見てもらえるかが心配だからなんだと思う。
そんなこと、自分が心配したって、取り繕ったって、長い目で見たらほとんど意味のないことなのに、そういうことがわかっているはずなのに、どうしても期待はずれになりたくないという気持ちがあって、どきどきしてしまう。
その「期待」は相手の期待なんかじゃなく、私が想像した相手の期待であって、なんとも身勝手な話だし、自意識に強いことよ。

とにかく、会えてよかった。

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