見出し画像

今年はもらわない、という選択

先月、誕生日を迎えた。もう立派なアラフォーなので、年を数えるのはやめた。正直、四捨五入できる程度の年の差はどうでもよくなってしまった。誤差みたいなもんではないですか、もはや。

夫に、プレゼントは何がいいかと聞かれた。これまでの我が家では一応、クリスマスと誕生日にプレゼントを贈りあうことになっていた。

私の答えは「プレゼントなしで予算を来年以降に持ち越し」だった。なんと色気のないことか、と言われそうだけれど、私なりに悩んだ末の結論なのだ。

たとえば、誕生日プレゼントの予算が10万円だったとして。

今の私には、自分でそこそこ満足できる程度の持ち物がある(あくまでも「そこそこ」ではあるけれど)。ジュエリーにせよ、洋服にせよ、旅行にせよ、喉から手が出るほど欲しいものなんてない。

ならば、10万円を2年後まで繰り越して、30万円のものをひとつもらうほうがよいと思った。そのほうがきっと納得のいく品選びができるし、ものの出番も多いだろう。

若い頃は「プレゼントをあげること」「もらうこと」そのものが意味を持っていた気がする。贈り、贈られる行為に気持ちをこめることが大切だったはず。

けれど、結婚して10年も経つと、こめるべき気持ちのほとんどは伝わりきってしまっている。

改めて伝えることにも意義があるだろうけれど、まあ、このゆるい感じもいいんじゃないかと思うことが多い。

ある意味、油断している。「気の利いた、それでいて気持ちの伝わるプレゼントを贈らなくては!」という気負いも義務感も、お互いになくなっている(と、思う)。

プレゼントなし、は油断の表れ。同時に、納得できるものを買いたい、本当に気に入ったものだけを所有していたいという気持ちの表れでもある。せっかくプレゼントをもらうなら、愛着を持って使い続けられるものがいい。

中途半端にしか気に入らないものを持っていると疲れるようになってきた。大切に使いたいと思えるものを、丁寧に手入れしながら持ち続けていたい。

昨年購入したフィリップ・オーディベールの指輪は、心から納得できた買い物のひとつだ。

デザイン、丈夫さ、他のアイテムとの調和。すべて検討したうえで買った。高価なものではないけれど、こまめに手入れしてほぼ毎日つけている。

何かものを新しく迎え入れるときには、それが本当に欲しいものかどうかを熟考する。手入れの手間をかけられるくらいの愛着を持てそうか、きちんと日常的に活用できそうか、といったことも。

私たち夫婦は、年を重ねるとともに油断してしまっているようだし、プレゼントに対する気負いも少なくなってしまった。

でも、プレゼントのない誕生日も悪くなかった。ものとまっすぐに向き合う術を身につけられたような気がしている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?