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優しい迫力

このお正月も、両親の郷里に帰れぬまま終わってしまった。山と川に囲まれた、のどかで美しい城下町。幼い頃、私は年末になるとそこに帰って父方の祖父母と過ごしていた。だから、冬休みにはよく祖父のことを思い出す。

私の祖父は、明治の生まれだった。元警官という経歴のせいか、堅物で、ガチガチに保守的だった祖父は、子どもに接するのに迷信を多用した。

祖父が口にした数々の迷信のなかでも、「茶碗にごはん粒を残したら目がつぶれる」というのが非常に怖かったのを覚えている。茶碗に米粒を残すことと、目が見えなくなることとの間には、何の因果関係もない。それゆえに怖かったのである。「やばい、目ぇつぶれるんやって。意味わからへん、怖い」。世の中には、人には理解できない恐ろしい力が働いている気がした。

子ども心に迷信は「意味がよくわからないからこそ怖いもの」だった。迷信が有効に働くのは、この非論理性が大きな要因なのだろう。ちょっとぶっとんでいるからこそ怖い、と思わせる装置がそこにある。

たいていの人は、文章や発言に整合性を求めるのではないだろうか。私も、至らないながらもなんとか論理的な、つじつまの合った文章を書こうともがく。人に物事や気持ちを伝えるのには論理的なほうが伝わりやすいと教えられてきたし、論理的であろうと努力するのが礼儀のように感じることさえある。

しかし、たまに「これは参った!」と思わされる発言や文章に出会うことがある。論理的には破綻していたり、支離滅裂だったりするのに、どこか「迫力」があり、とてつもなく心に響くやつだ。

20年前、私は昔ながらの喫茶店にたむろする大学生だった。名作ジャズをBGMとして流すことで有名なその喫茶店で、私と友人たちに議論をふっかけてきた人がいた。近所のスイミングスクールでボイラー技士として働く、70歳を過ぎた男性だった。あだ名は「まっつぁん」。読書好きの偉丈夫。豪放磊落な、とても面白い人だった。こんもりと盛り上がった肩を揺らしながら彼が放った言葉が忘れられない。

「せやからな、カントはとにかくすごいんや!腹にグッとくるんや!そんな哲学者、ほかにおらへんやろ!」

非論理的で何を言っているのかよくわからないのだが、いやに説得力があり、「う、うん、そうやんなぁ…」と唸ってしまったのを覚えている。まっつぁんが言うからそうなんだろう、と思わせる何かがあった。きっと彼の人生には艱難辛苦が少なからずあり、カントの言葉が「腹にグッときた」ことが何度もあったのだろう。それらの言葉を糧に、70年余りを生き抜いてきたのだろう。そう感じさせる力強さを備えた発言だった。

「こうした発言や文章って、なんなんだろう」といつも考える。まっつぁんのように、人生経験の豊富さや深度によるものは大きそうだ。長年の苦楽を背後にしのばせた言葉は、否応なしに強い。

誰かのエッセイで「心の表面張力」という表現を目にして深く共感したことがある。自分を保とうと、心がぎりぎりのところで持ちこたえている状態を指すのだと私は理解している。私の場合、論理的であることを自分に課していると、心がきゅーっと張りつめてしまう。しかし、非論理的かつ含蓄ある言葉は、心の表面張力を崩壊させる。ときには思いがけず涙してしまう。そんなとき、心地よい敗北感を覚えるのは私だけではないはずだ。

そこに、迷信の効用に通じる言葉の迫力を感じるのだ。

加えて、言葉の向こうに生身の人間を感じられるのも理由である気がする。

論理的に構築された文章は美しい。読んでいて安心もする。しかし、言葉を受け取るのは生身の人間だ。文字のすき間からのぞく、書き手や話し手の感情が生の心を動かす。

20年前の私は、まっつぁんの言葉に「むちゃくちゃだけど魅力的なひとりの人間」を感じ取った。カントへの飾らない畏敬の念と、少年のような知識欲と、豪快な生きざまを。それを集約した言葉が「カントはとにかくすごいんや!腹にグッとくるんや!」だったのだ。カントもすごいが、まっつぁんもすごかったのだ。

だからこその心地よさ。論理を超えて「ぶっとんでしまった」言葉が、その人の体温を連れてくる。論理的に整えられた言葉を、やすやすと超えていくのだ。

今年5歳になる双子を育てている私は、これまでの育児で何度か心の梁が折れそうになったことがある。そのときに知り合いの女性がかけてくれた言葉もまた、忘れられない。

「双子ちゃんは、あなたを選んで生まれてきてくれたんだから」

普段の私なら、素通りしてしまうはずの言葉だった。個人的に、まだ生を受けていない命が母親を選ぶという発想には共感できない。理屈として証明しようがないし、子を持てなかった女性は「選ばれなかった」ことになってしまう。そんなのナンセンスだと思っていた。

しかし、それは私自身にかけられた言葉だった。私はそこに、私をなんとか励ましてくれようとする意図をはっきりと感じた。包容力のある、優しい女性だったから。言葉は本来の意味を超えた重さをもって私のもとに届いたのだった。涙をこらえようと、私の唇が震えた。これもすごい言葉だったなぁと、今、思い出している。

こうやって、人生経験を反映した深みのある言葉や、書き手や話し手の感情が息づいた言葉は、論理を超えていくのだと思う。しかもそれはたいてい、言葉を発した本人の思惑の外で起こる。いわば幸せなアクシデント。

こんな素敵な真実に気づかせてくれるなんて、祖父の迷信も悪くないじゃないか。

私はと言えば、今のところは整合性の取れた文章を求めて日々の仕事をこなすのみなのだけれど、やっぱり心の片隅で思っている。まっつぁんは、すごいよなぁ、と。もちろん、論理的であることを捨てるわけではない。論理的でありながらも、まっつぁんのように人生経験や人間性をにじませた言葉を、いつか生みだせる日が来たらいいな、と思うのだ。

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