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鼻血とコーヒーの記憶

先日、10年ぶりくらいに、ある喫茶店を訪れた。

皮膚科に行ったところ、長い待ち時間が発生することがわかったので、クリニック外で待つ旨を受付の方に伝えて、外に出た。

クリニックの近くには、古くからあるお店が連なっている。単なる取次店ではないクリーニング屋さんとか、花屋さんに和菓子屋さん。この喫茶店も、長く親しまれているお店の一つだ。コーヒーのおいしいお店として、地元の人が集まる場になっているらしい。

昔、夫と結婚し、東京から大阪に戻ってきたばかりの頃、このあたりに住んでいた。喫茶店にも、会社帰りや買い物のついでによく立ち寄っていた。

木材を多く使った内装は古めかしい。けれど、それがかえってレトロかわいい空間をつくりあげている。近所にお住まいと思われるおばあさん、おじいさんが楽しげにおしゃべりし、たまにママもそこに交じる……というアットホームな雰囲気。

皮膚科クリニックの診察が近づいたかどうかはオンラインで確認できる。わたしの順番が回ってくるのには、おそらく40分ほどかかるだろう。

ということで、限られた時間内でお店おすすめのコーヒーをしっかり味わおうと決め、「『本日のコーヒー』をお願いします」とオーダーした。その日はマンデリンだった。酸味の少ないコーヒーは、わたしの好みである。

香ばしさとほろ苦さを舌の上で楽しんでいると、10年ほど前の自分の暮らしを思い出した。まだ娘たちを産むずっと前で、会社勤めをしていた。朝5時半に起床する朝型生活を送っていて、なにかに追われるように多方面へと趣味や自己啓発の手を伸ばしていた。

そういえば、わたしが生まれてはじめて鼻血を出したのはこのお店にいるときだった。ぽたりと手に垂れた血を見てぼうぜんとするわたしにティッシュボックスを丸ごと渡してくれながら、ママは言った。

「あらまあ、なんか頑張りすぎたんかもしれへんねえ。お勉強してはったから」

たしかに、あの頃のわたしは無駄に必死だったなあ、と思い返す。今のわたしもけっこう頑張っているけれど、肩の力の抜き方は覚えたらしいよ、と教えてあげたい。

懐かしさに駆られたり、本を読んだりしているあいだに診察の順番が近づいてきた。わたしは「ごちそうさまでした」と言ってお店をあとにした。やっぱり居心地のいい、素敵なお店だったな。

「わたし、ずいぶん前にここで鼻血を出したんです」と言い、その節のお礼を伝えようか迷ったけれど、やめておいた。客商売をしていれば、たまに変わったお客さんには出くわすだろうから、ママのなかでは鼻血女もそんな一人として処理されていることだろう。

なんだか「それでいいんだ」とへんに納得してしまった。そして、鼻血を出すほど生き急いでいた当時の自分を、こっそり抱きしめてあげよう。

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