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もう風にもなれない

次女を大泣きさせてしまった。「いややあぁー」とわめきながら大粒の涙をぽろぽろとこぼす彼女の背をさすり、自分の不自由さを感じた。

夕食の支度をしているとき、ラジオからTHE BOOMの『風になりたい』が聞こえてきた。あら、懐かしい。高校生のとき、クラシックギター部の演奏会で弾いた記憶がある。

なにより「風になりたい」という歌詞が好き。誰か大切な人に会えた喜びを噛みしめつつ風になるだなんて、とても素敵だ。

調子っぱずれに歌詞を口ずさむ私を見て、そばにいた娘たちが口を揃えて尋ねる。

二人 「なんで? なんで風になりたいの?」

なんでと聞かれましても、と思いながら、私は返す。

私  「風って、さわやかでさ、自由でさ、いいやん」

次女が首を傾げる。

次女 「ママも? ママも風になりたいの?」
私  「うーん、なりたいかも。なりたいと思うとき、あるよ」

そう言ったら次女は泣き出してしまった。「いやや、風は見えへんし、触られへんもん。ママが風になったらいややあぁー」。

子どもに返すべき答えではなかったなあ、と反省した。ママが風になることを想像して、彼女は途方に暮れている。

双子とはいえ長女よりいくらか頼りなく、甘えん坊な次女に「うそ、ごめんね。風になんかならないよおー」と言って、その体を抱きしめる。結局、彼女は寝かしつけまで機嫌の悪さを引きずっていて、ほんとうにママは風にならないのかと何度も確認していた。『かぜかぜかぜ』という絵本は大好きなくせに、不思議なものだと思う。

娘たちには今のところ、私が必要らしい。だから私はめったなことが言えないようだ。

そういえば若い頃、いなくなってしまいたいと思ったことがある。誰にでもそういう時期があると思うのだけれど、自分の至らなさとか不器用さにうんざりしてしまって、「もう私なんていなくなればいいのに」と心の中でつぶやくことがあった。風はいいなあ、風になりたいなあ。ちょっとネガティブに風に憧れたのを思い出した。

いつのまにかそう思うことはほとんどなくなった。年を重ねて図太くなったのだろうか。でも、いたたまれなくて居場所を失ったように感じることはたまにある。

そんなときも、うかつに「いなくなりたいなあ」とつぶやけなくなってしまった。本気ではない言葉であっても、それを聞いて悲しむ子らがいると知ってしまった。

私はもう勝手に風にはなれない。それは、幸せなのか、単なる不自由なのかと、ぼんやり考えている。

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