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売られても買わないもの

「売られた喧嘩、買う?」

少し前、旧友の口から物騒なせりふが飛び出した。どうも、何かにつけて険のある物言いをする人が彼女の身近にいるらしく、しょっちゅう「なに、喧嘩売ってんの?」と思ってしまうのだそう。

いちいち突っかかるような言い方をされたり、とげとげしい言い回しを選ばれたりしたら、むっとする気持ちは痛いほどわかる。彼女について言っているとわかる会話を聞こえよがしにされることもあるとかで、それは腹が立つだろうとも思う。

「わたし、喧嘩は売られても買わないなあ。でも、○○ちゃんが自分を守るために買いたいなら、それもありだと思う」

そう答えた。だって、それに尽きる。彼女が戦いたいなら、そして戦うことで自分が守れるなら、売られた喧嘩は買うべきだ。

わたしは喧嘩に慣れていない。肉体どうしがぶつかり合う喧嘩はしたことがない。件の彼女のように頭の回転が早くて機知に富んだ会話が得意なタイプでもないから、口喧嘩にも弱い。

つまり、戦う前から負けが見えているわけだ。これは極力戦わないほうがいい。

喧嘩を避ける理由は、もう一つある。

自分に非がない場合であっても、事態が喧嘩へと発展したとたんに「あーあ、あの二人、喧嘩してるよ」という目で見られることだ。喧嘩の原因をつくったのはこちらではないのに、その事実はもう意味をなさない。「喧嘩してる奴ら」としてひっくくられてしまうのだ。こんなバカな話、あるだろうか。

それを凌駕するくらい、正論をまっとうな論法で繰り出せればいいけれど、わたしにはたぶん無理だ。押しが弱すぎる。

だから、わたしは「苦笑いでスルー戦法」をとる。喧嘩の土俵にできるだけ上がらない。「あらまあ、困りましたね」と流す。

周りからも苦々しく思われている人が相手の場合、この手はすごく有効だ。わたしはただ自分の弱さゆえに争いから逃げているだけなのに、「相手にしないなんて、さすが!」とか言われてしまうことさえある。

もちろん、ここは戦うべきだと感じたら戦う。しかし、わたしの日常にそんな場面はなかなかない。

「そっかあ、やっぱり金持ち喧嘩せず、よね」

彼女はそう言って納得していた。なぜかわたしがお金持ちなことになってしまった。まさか。どっしりと構えているように映ったのだろうか。ならば、わたしの「喧嘩買わない主義」もちょっとは意味があるのかもしれない。

戦うことが彼女に利をもたらすなら、ぜひ戦ってほしい。そこは友人とはいえ、主義が違って当然だ。

人によって、買うものと買わないものがある。食べものや生活用品に好みがあるように、買いたいものだって違う。それが生きるということじゃないかなあ、と思うのだ。

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