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『マッドマックス:フュリオサ』星々と共にあらんことを


※便宜上、ですます調で書きますが、基本的に個人の考え、感想です。


前作との比較

本作は、前作『マッドマックス 怒りのデスロード』同様、テンポの良いアクション大作でしたが、かなり前作とはテイストが違いました。
前作と単純に比較され、否定的に語られがちなのは少し可哀そうだと思いました。
私はめちゃくちゃ楽しめました。

前作が、感情を導いてくれるクラシックのド派手な交響曲だとしたら、本作は一定のクールネスを保ちながら、反復がグルーヴを生むブラックミュージックのような趣でした。

第三章で描かれるアクション的な白眉。
オクタボスチーム対ウォータンクを守るウォーボーイズのシークエンス。

チェーンのように連続したアクションを、端的で的確な説明描写を交えながら、リズムよくみせてくれます。
緊張感と、高揚感が一定以上に保たれますが、前作ように爆発的に頂点を迎えるようなポイントはありませんでした。
ドラムが激しく鳴り響きますが、感情を先導するメロディや和音はなかったように思います。
その余白ににじみ出るのは、ウォーボーイズに対する悲哀でした。

ウォー・パップ

ウォーボーイズは、イモータン・ジョーに洗脳され、ジョーの為なら自ら命を投げ出すマッチョ集団です。
その中で、一人特段に小柄なウォーボーイがいます。
クアデン・ベイルズ演じるウォー・パップです。
ウォー・パップが、肩車をされたりして他のウォーボーイズと仲良くやっている描写(ウォータンク製造時)、最高です。

ウォー・パップは、他のウォーボーイズと違い、屈強な筋肉の鎧を身につけていません。
いわば、他のウォーボーイズ達が筋肉の鎧で覆い隠している「恐れ」や「不安」が露出しているキャラクターです。
前作を観た方ならば、ニュークスを例に、ウォーボーイズにも隠している恐れがあることが想像できると思います。

言い方を変えれば、ウォー・パップはマッチョイムズの欺瞞を暴く役割を果たしています。
現実で、マッチョイムズの犠牲者であり、いじめられっ子だったクアデン・ベイルズが、この役割を果たしているのは痛快です。

ウォー・パップの存在が、基調となり、ウォーボーイズが全滅する一連のアクションの色彩を決定しています。
前作とは違い、ウォーボーイズの狂信とマッチョイムズに基づいた極端な行動に、痛快さを覚えるスキがないように設計されています。

因みに、口を閉じたフュリオサが初めて発した言葉が、ウォー・パップに対する「ボミーノッカー!」という言葉でした。
また、ウォー・パップの死を目撃し、眼を潤ませています。
本作においてフュリオサの眼の描写は製作者によってしっかりとコントロールされています。

徹底的に作りこまれた隙のない独創的な衣装と美術は、本作で描かれる狂気が、人間の文化の一形態であることを物語ります。
とんがった格好をした暴力集団を、(洗練された教養はもたないが)ライフスタイルを持つ人間として描いたのが前作です。
本作は、ウォーボーイズを、アクションのテイストを変えることにより、より等身大の人間として描いています。

「星々と共にあらんことを」

作中では、「星とともにあらんことを」と字幕が出ていましたが、“The stars be with you”だったと思うので、個人的なこだわりで複数形にしています。

本作は、狂気の中、星々を頼りに、フュリオサがトラウマの反復を繰り返しながら、自己を確立していく話です。

星々とは、フュリオサの故郷の座標を示すものであり、フュリオサの左腕のタトゥーでもあり、また、フュリオサの「心の向かう先」、つまり希望や理想を表すものです。

反復

本作では、似た描写が、何回も形を変えて繰り返されます。
例として、第一章で描かれ、後に反復される要素を書きます。

フュリオサが侵入者に発見され、崖を「這い上がる」。フュリオサが「後ろ手に縛られる」。フュリオサがバイクを止めようとして「ホースを咥える」、フュリオサの母メリー・ジャバサが「追撃」する。ジャバサの「スナイピング」(長距離射撃)。ジャバサが「ビークルを盗用する」。ジャバサが「不利な立場にあるものに憐憫の情をみせる」。ジャバサがフュリオサを「解放する」。「二人で逃走」する。ジャバサがフュリオサに「桃の種」を託す。「星々とともにあらんことを」。フュリオサが「高所を通って独りで逃げる」。フュリオサが「引き返す」。ジャバサが「吊られる」。フュリオサが「大事な人を失う」。フュリオサが「涙を流す」。

第一章の、フュリオサが連れ去られて大事な人を失うまでの一連の描写は、フュリオサのトラウマです。

フュリオサは物語の中で、何度もトラウマと同じ状況に挑み、その都度、以前よりも、少しだけましな結果を獲得します。

これら反復の中で描かれる差異が、フュリオサの変化であり、フュリオサが星々を頼りに狂気にあらがった足跡です。
狂気とは「心の向かう先」つまり希望が無く、利己的で継承をあきらめた状態です。

例えば、イモータン・ジョーは健康な女たちを独占し、息子たちが子を残すことを許していないように思います。
ジョーが子を残すことに執着しているのは、次世代の事を考えてではなく、利己的な自己実現のためであることが推測できます。

反復の話に戻ります。
これら反復の本作での集大成が、第五章のフュリオサのディメンタスへの追走劇であり、さらにその延長線上にあるのが、前作である『マッドマックス 怒りのデスロード』です。

ジャックとの関係の反復がマックスとの関係であり、解放の反復が『怒りのデスロード』の物語です。

今作単体でも十分に面白い映画ですが、前作を反復の続きとして位置づけることにより、前作をより深みのあるものにしています。
本作は素晴らしいスピンオフ作品です。

フュリオサと桃の種

数ある反復の中、物語の芯を貫いているのは「桃の種」の反復です。
フュリオサは機を察知し、何かを決意する際に、「桃の種」を取り出します。

種子とは、殻にこもり機を伺うものです。
これはフュリオサのキャラクターと一致しています。
また、「桃の種」は次代に希望をつなぐものです。ジャバサから継承されたものでもあり、フュリオサが継承者であることも示しています。

フュリオサは孤独な戦士とも宣伝されていたように思います。
確かに孤独ではあるのですが、フュリオサはジャバサやジャックの行動から「心の向かう先」を継承しています。

ジャックはフュリオサを解放しようとします。
フュリオサはジャックから、仕事以外にも解放者としての振る舞いを継承しています。
ジャックの両親は立派な戦士でした。ジャックの志も両親から継承されたものでしょう。
ジャックの行動から、立派な戦士とはどういうものかが見て取れます。

この物語は、星々をみる者たちが、狂気にあらがいながら希望をつないでいく物語でもあります。

復讐か逃亡か

本作は復讐劇ではあるのですが、物語を通して、フュリオサが常に復讐を最優先にしているわけではないと思います。
左腕の星々のタトゥーを失くすまでは、基本的には故郷に帰ることが最優先です。

第四章、バレットファームにジャックが閉じ込められた場面。
独りで逃げようと思えば逃げられたのに「引き返し」はするものの、フュリオサはバレットファーム中心部へ向かい、結局はディメンタスへの復讐よりも、ジャックの救出を優先し、「逃亡」します。

復讐の機はうかがっていても、やはり復讐は最優先ではなかったのだと思います。

第五章の、星々のタトゥーが入った左腕を失くし、復讐へ向かうフュリオサは、星々の導きを一時的に見失っていたのではないでしょうか。
ヒストリーマンがその時のフュリオサを闇黒天使と呼びます。

ディメンタスを追い詰めたフュリオサは、ディメンタスが身につけていたクマのぬいぐるみを解放します。
この時、しっかりとアクションを強調する演出が入ります。
そしてフュリオサの眼から涙がこぼれ落ちます。(ジャバサの死以降初めて)

私は、ディメンタスへの処刑はおまけで、ここが本作のクライマックスだと思います。
だから、ディメンタスの処刑は諸説ありという少しぼやけた着地だったのではないでしょうか。

フュリオサは過去のトラウマの反復を繰り返し、自らのアクションでトラウマを塗り替えながら、成長してきました。
クマの解放は、かつての幼いフュリオサが願い果たされなかった解放の代償行為です。
ここでフュリオサの、トラウマの克服が一つの到達点を迎えたのではないでしょうか。

そして同時に、フュリオサが解放者としての自覚を確立する瞬間でもあります。

ディメンタス

フュリオサとジャックの処刑シーン。
ディメンタスのバイク軍団が二人の周りをグルグル回ります。
そこでディメンタスが「もう疲れた」と漏らします。
このシーンにディメンタスのキャラクターが表れています。

ディメンタスは、生粋のショーマンであり、乳首がもげそうになってもはしゃぐほどの刺激依存症者です。
第一章で出てくるディメンタス軍団のキャンプはどこかサーカス団のキャンプっぽいです。後に出てくるMr.ノートンもピエロ感があります。

中盤、ディメンタスはガスタウンの管理者に上り詰めますが、あの仕事はホントに彼がやりたかったことなのでしょうか。
おもしろそうなイベントを求めた結果、そうなってしまっただけではないでしょうか。見るからに疲れていたし。
上昇志向が強そうなディメンタスですが、実際のところは目の前の即物的な刺激を追いかけて、同じことをグルグルと繰り返しているだけにすぎないのではないでしょうか。

同じことを繰り返しているように見えて、星の導きに従い、同じ結果に収まらずグルグルから解脱していくフュリオサとは対照的です。

刺激を求めて動いていたディメンタスの最後が、「静の処刑」であったのは、皮肉が効いていてディメンタスにうってつけの結末です。
また、他人を手段としてしか捉えていない利己的なディメンタスが、養分となり、樹が果実を実らせるための手段になる点でも皮肉になっています。
「テクノライズ」を思い出しました。

以上です。


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