カワセミ号の初出航 伊良コーラ物語 第2話 IYOSHI COLA STORY
2018年、7月29日、伊良コーラの移動販売車「カワセミ号」は青山ファーマーズマーケットへと"初出航"した。
今回はカワセミ号ができるまでと、できてからの、とても具体的なお話し。
伊良コーラとクラフトコーラの誕生については以前の記事で書いた。
詳しくはこちらから。
今回は、移動販売車「カワセミ号」と出店近辺の具体的な動きについて書こうと思う。
まず、2018年の5月ごろに
「クラフトコーラを売りたい!」では→「移動販売車を作ろう!」
となったのは過去記事の通り。
当時、私はアサツー ディ・ケイ(現在はADKと改称)という広告代理店で働くサラリーマンだった(4年目の下っ端社員)。そういったことから、実店舗ではなく、土日のみ出店できてリスクも少ない移動販売車でクラフトコーラを売ろう!となった。
まずはなにはともあれ一番大事な車の入手から。
車の手配は学生時代にお世話になった、札幌の車屋さん(布施さん)にお願いすることとした。
車のベース車としては、イタリア車の「ピアッジオ・アペ」という可愛らしい3輪の車や、広告代理店の本業で移動販売車を作るプロジェクトがあり、そこで使った「トヨタ・デリボーイ」、「ダイハツ・ミゼットⅡ」というコンパクトで個性的な車、そして「ダイハツ・ミラウォークスルーバン」が候補だった。
可能な限りコンパクトでスモールスタートしつつも、ある程度の積載量がある、というバランスを考え今の車(ミラウォークスルーバン)一択ではないかということになり、「ミラウォークスルーバン」に絞って探すこととなった。
それが確か5月の半ばごろだ。
とはいえ、実はこの時点では「クラフトコーラを売りたい!」というモードになっていたものの、「会社員の自分に本当にできるのかな?」、「本当に一歩踏み出していいのかな?」という気持ちもあった。
何かのきっかけがあればやめてしまう流れにもなる可能性もあったと思う。
それが大きく動き出した瞬間は今でも覚えている。
5月末のことだ。
当時(今でも)、私はバス釣りが大好きでよく茨城県の霞ヶ浦に釣りに行っていた。
朝、東京を出て、霞ヶ浦で釣りをし、お昼の12時ごろだろうか。小休憩していたところ布施さんから1通のラインが来た。
「程度のいいウォークスルーバンが出た。どうする?」
次の瞬間、私は、
「買ってください!」
と返信していた。
このタイミングを逃したらふっと何もかも消えてしまいそうな気がしたからだ。
カーオークションに出ていた画像自分で買った初の愛車が「ミラウォークスルーバン」となった。
なかなかレアだろう。
ただ、ずっとサラリーマンだった自分にとって、この時点でもこの車でクラフトコーラを売る、というのはイメージがつかず、まだ実感はなかった。
それでもこの時から、のちに自分が生涯をかけることになるプロジェクトが前に進み始めたことは確かだ。
そして、なんとなくノリで車を買ってしまったものはいいものの、ロゴ、デザインなど「クリエイティブ」のほか、移動販売車の許可や資材などの「ハード面」、どうやってクラフトコーラを提供するかというオペレーション=「ソフト面」はまだ何も決まっていない。
そのため、5月末から「クリエイティブ」、「ハード」、「ソフト」の3点を並行して進めていった。
まずは「クリエイティブ」。
MOUNTAIN BOOK DESIGNの代表であり、デザイナーの山本さん、イラストレーターの大谷さんとの出会いは「クラフトコーラ誕生秘話」の通り。
ざっくり言うと、デザインの本でビビッと来たデザイナーさんに直接連絡をした。
今、昔のメールを探ってみたところ、こんなメールが残っていた。
とても懐かしい。
この打ち合わせまでにざっくりしたイメージは自分の中で固めていた。
ロゴのモチーフについては既にこの時点で決めていた。
伊良コーラの現ロゴでもある、カワセミ。
シンプルに好きな鳥であったことに加えて、自ら水に飛び込んでいく姿が「コーラは作れないという常識や既成概念に挑戦する」ことと重なったため、選んだ。
実は、カワセミ属には、沖縄に自生する「アカショウビン」という鳥や東南アジアに多く住む「ヤマショウビン」という鳥がいて、アカショウビンは鮮やかな赤だし、ヤマショウビンは嘴が赤、頭が黒く、首は白くて、体は瑠璃色といったように非常に美しいのだが、それらの鳥を題材とした悲しい伝記がそれぞれの自生地に存在することから、ロゴとして採用するのは避けた(ただ、ヤマショウビンの美しさは捨て難く、実は伊良コーラのロゴは正確には日本に自生する「カワセミ」ではなくて、カワセミに似た、7色の羽を持つ鳥、という裏設定がある)。
そして、カテゴリ名「クラフトコーラ」と「伊良コーラ」というブランド名に由来についても「誕生秘話」の通り。
あとは大事な車について。
色はなんとなく、青系か緑系がいいなと考えた。
青ならネイビー系だし、緑ならミントグリーン。
その上で、昔のローバーミニのカラーリングが好きなので、チェックしていると、アイランドブルーという色とアーモンドグリーンという色に惹かれた。
どちらも素敵な色で最後まで悩んだ。
だが、自分が好きな釣りだったり、コーラだったりと、やはり水にまつわる方がいいかなと思い、アイランドブルーを選んだ(※青系だと他の移動販売車と似た配色になりがちで、重複を懸念し本当に青でいいのか悩みはした。だが、独自のディティールで個性を出せば良いと考えた)。
※ちなみに、当初は車の上にアルミボートを乗せる構想を考えていた。移動販売車の上にアルミボートが載っかっていたら目立つこと間違いなしだ。ついでに、そのまま霞ヶ浦に釣りにでも行こうかなと思っていた。だが、このアイディアは車のスペックの問題で実現はしなかった(その話は後述)。
そして、そんなことを説明用に1枚の紙にまとめて、山本さんの初台の事務所に向かったわけである。
めちゃくちゃワクワクしていたし、とても楽しかった。
今、分析すると、当時は私はまだ広告代理店の会社員で職種は「営業」という立場であった。
何か物事を通すためには色々な部署と「調整」をし、さらに上長に承認をもらい、その上の上長にも承認をもらい、そのまた上の上長にも承認をもらい、そのまた上の•••というスタンプラリーを経て、やっとクライアント(お客さん)に提案をする。しかも、それは通らないことも多々。といった具合であった。
そのため自分が全て決めて、舵取りをし、スピード感を持って向き合うというのが新鮮だったしとても楽しかった。
※ちなみに、前述の通りまだ会社員だったため、半休をとって山本さんの事務所に打ち合わせに行っていた。
初台にある山本さんの事務所はとてもいい感じで、コンクリートの躯体剥き出しの空間に植物とシンプルなデスクが置かれていた。
その場所で、自分のイメージを山本さん、大谷さんに伝え、ディスカッションを行った。
伊良コーラの語源を話した時には、「祖父にまつわるモチーフや何かをエッセンスとして入れ込みたい」という話が上がった。ただ、その場では思い当たることがなく、実家に戻って聞いてみようと思った(祖父の工房のあった祖父の家は実家の建物に隣接しているため)。
実家に戻り、叔父もいたタイミングで、ダメもとで母親と叔父に、何気なしに祖父のゆかりの品が何かないかと聞く。
その時、地下室から自分が探し出したのか渡されたのか、記憶が確かではないのだが、「こんなものが出てきたよ」と、小さなノートを渡された(もしくは探し出した)。
中を開けると、その中にはカラフルなラベルがぎっしり所狭しと貼られていた。
几帳面な祖父が集めていた、大正、昭和時代のマッチラベルのコレクションだと言う。
今となってはなぜ、祖父がコレクションしていたのかわからないが、とにもかくにも、レトロでカラーリングが美しいデザインばかりで、これだ!と思った。まさに祖父からの贈り物である。
2回目の打ち合わせで、このマッチラベルを見せると普段落ち着いている山本さんと大谷さんが大興奮していたのは以前の記事の通りである。
少々、閑話休題的にお金の話をしよう。
ご存知の通り、私が伊良コーラを始めたのは社会人4年目の夏。
そこまでに300万円の貯金を貯めていた。
広告代理店は給料が良いからそれだけ貯められたのか、と思われるかもしれないが、実は違う。給与はキャリアを積めば関係あるかもしれないが、私のような下っ端にはあまり関係がない気がする。
それよりも、当時、会社は虎ノ門にあり、私は日比谷線の神谷町から通っていて、日比谷線直通の東横線の祐天寺のアパートに住んでいたのだが、そこの家賃は管理費込みで5万4千円だった。これが大きいと思う。もし家賃10万円のところに住んでいたら、5万円×12ヶ月×3.5年=200万円もの差が出てくる。
なお、祐天寺のアパートは駅から徒歩4分であったし、アパートといっても鉄筋コンクリート造、ユニットバス付き、角部屋で午前中は日の光も気持ち良かった。
知り合いからは事故物件じゃないのか、と聞かれたがそんなことはなく、大変気に入っていた。
※ただし、部屋はL字型の4畳の大きさで、シングルベッドを壁の隙間にねじ込んでいた。また、洗濯機も冷蔵庫も置けなかった(これはむしろミニマリスト的な生活で快適だった)。あとは、キッチンの流し場が玄関にあり、靴を履かないと調理ができなかった。家具は既製品がサイズに合わないため、DIYで自分で作っていた。こう書いていくと、極めて特殊だったのかな、と思い返される。
※一方、気に入っていたので伊良コーラで独立してからも3年程度、この部屋には住んでいて、かれこれ足掛け8年くらい住んでいたことになる。
あとは飲みなどもほとんど行かなかったこともあるかもしれない(そもそもあまり飲めないが)。
通勤に使っていた日比谷線は六本木駅を通るため、「あの」広告代理店の社会人になったら、毎週末は、先輩に誘われて六本木でブイブイ言わせるのかな、と思っていたが、4年間の社会人生活で会社帰りに六本木に降り立ったのは、カワセミ号用のゴミ拾いトングを買うために、六本木のドンキホーテに行った1回だけだった。
※むしろ毎週末は仕事に追われてヒイヒイ言っていた。
※ただ、万博の仕事でカザフスタンに半分駐在のようなことをしていたり、FISE HIROSHIMAというストリートスポーツの祭典の仕事で、広島に長期出張していたりと、出張手当がある程度ついたのは幸運だったと思う。
そのような形で貯めた自己資金の300万円。
あとは定番の日本政策金融公庫にも同額の300万円を借りた。
渋谷の支店に行った。ただ、クラフトコーラが世の中に存在しない状態であったため、クラフトコーラのお店を出します!と言っても理解されない気がして、ジンジャーエールのようなオリジナルドリンクを出します!と言った記憶がある。
また、その際、事業計画書の提出にあたり、売上や支出をシミュレーションする必要があった。
そのため、マーケティングの意味も兼ねて、青山ファーマーズマーケットに張り付き、同じようなドリンク系の移動販売車にどれくらいの人が買いに来るのかを1日中観察していた。まさに電信柱の影からじっと見ているような感じで相当怪しかっただろう(人が多いこともあり、じっと見ていることを気づかれはしなかった。スパイの才能があるのかもしれない)。
話はカワセミ号に戻る。
クリエイティブと並行してハード面とソフト面だ。
ハード面とソフト面は札幌の車屋の布施さんと連携しながら作り上げていった。
6月18日には布施さんから、「カーオークションで落札したウォークスルーバンが届いた」とのラインが入る。
写真が届き、急にリアリティが増していく。
現車確認したい気持ちが抑えきれず、飛行機のチケットをすぐに手配し、札幌に飛ぶことにした。
目の前にしたカワセミ号はこんな感じ。
外装やエンジンのチェック。
とてもワクワクする。
夜には、布施さんの友人で札幌でカフェを営む佐藤さんとともに近所の焼肉屋へ。
そこではオペレーションの話を伺う。
クラッシュアイスは容器に食品用の手袋で手で入れるのが素早くていい、機材はロボクープという業務用のものがパワーがあっていいことなど、飲食の経験が全くない自分にとって、とても勉強になることばかりだった。
非常に多くの人が関わり、なかなか仕事の全体像が見えづらい普段の会社員での仕事と違い、手触り感があって、自分が主体的になって動ける仕事がこんなにもワクワクして楽しいものなのか、と感じた。仕事とはいうものの、まるで学生時代の文化祭の準備をしているようだ。
衣装をどうするかという話が進んだ際には、クラフトコーラと言えどもクラフトビールのようなラギッドなスタイルや、白Tにデニムのエプロンのような、おしゃれカフェスタイルの格好はして欲しくないという話が出た。
その中で「ポパイのような水平の帽子が目立つからいいのではないか」という話が出た。
もしかしたら、おもしろ半分で言っていたのかもしれないが、元来、私は好奇心旺盛で、人がやらないことをやりたくなる。
また、それで人を(いい意味で)びっくりさせることにとても快感を感じるタイプだ。
なので、実際にその帽子をかぶっている人なんて見たことないが、やってやろう、という気持ちになった。
※東京に戻ってから、帽子はアメリカの本物の軍関係の業者から、そしてそれに合う個性的な白い服はイギリスの漁師専用衣装の業者に直接コンタクトをし、個人輸入して取り揃えた。
なお、伊良コーラの代名詞とも言える、透明パウチでの提供は前から既に確定していた。
もともと透明パウチで提供したい、と思うようになったのは、私がフィリピンでコーラの飲み歩いていた時のことがきっかけだ。
フィリピンをはじめとする東南アジアでは道の屋台で瓶のコーラを買うと、その場でビニール袋に入れ替えて、ストローを差して渡してくれる。というのも東南アジアは原付バイク社会なのだが、ビニール袋だと袋の取手をハンドルにかけられるため、都合がよいのだ。また、飲み終わった後、瓶だと処分が難儀だが、袋だとさっと捨てられるというのもあるだろう。
そんな通りで、私はビニール袋でコーラを提供したいなと思っていた。流石に東南アジアと同じ、レジ袋スタイルは見た目がイマイチなので、縁日などで金魚すくいした時に、金魚が入る袋はどうだろうかと思っていた。
実際に三軒茶屋にある雑貨屋に行き、現物を買ってきた。ただ、金魚の袋だとどうしてもストローが突き刺さり、袋が破けてしまう。そのため、透明で中が見え、素材もしっかりしている透明パウチがいいのでは、となった。
翌日、札幌を発った私はレンタカーを借り、学生時代に行けず、興味のあった美瑛の青い池や旭川の神居古潭、利尻島、礼文島を周り、稚内から東京に戻ってきた。
東京に戻ってきたのが6月27日。出店まであと約1ヶ月。
東京に戻ってからは、実際に見てきた現車のイメージをもとに、山本さん側とデザインを擦り合わせていく。
この時点でカワセミ号の全体デザインは決定した。
これがイメージ写真だ。
あとの課題は機材周り、ハード面だ。
パウチにシロップを入れて、炭酸を加える。
炭酸はよくライブハウスにあるような「バーガン(ボタンが付いていて押すと炭酸水が出てくるやつ)」で注ぎ入れられればいいのだが、調べると、それには大掛かりな機材が必要そう。
一方で、既に出来合いの炭酸水をペットボトルから直接、パウチに注ぐのはしたくない。
そんな時、野球の球場で売り子は生ビールを出しているが、ビールは炭酸であるよな、と思い出す。
その仕組みはどうなっているのか気になった。
調べていると、どうも、耐圧のタンクに炭酸ガスをかけ続けることで、生ビールの炭酸が抜けずに保持できるし、炭酸ガスの圧力でコックから生ビールを出すこともできるようだ。
炭酸ガスは液体の温度が低ければ低いほどよく溶ける。であるなら、水を氷で冷やした上で、水に炭酸ガスを高圧でかけ、タンクごとふれば、炭酸水ができるのではないか。
まさにペットボトルの炭酸水をふると炭酸が抜けるのと逆の原理である。理論上はいけそうだが、実際やってみないとわからない。
すぐに生ビール用のタンクと装置をネットで買い揃え、ガスボンベもカクヤスで買った。
祐天寺の狭い部屋で実験をしてみる。
結果は、なんと炭酸水ができた!一番の課題であった炭酸水の提供が決まり、出店へと大きく前に前進した。
※なお、当初5リットルだった炭酸水のタンクはカワセミ号の進化と共に、20リットルと巨大化し、炭酸水が切れた際にはお客さんを待たせないよう、巨大なタンクを毎回のように必死に振っていたところ、腰を大いに痛めたのはまた別のお話。
7月の12日には布施さんからカワセミ号の塗装写真が上がってくる。
7月13日、青山ファーマーズマーケットを運営する「メディアサーフコミュニケーションズ」の國崎さんとマットさんに、「移動販売車を青山ファーマーズケーケットに出したいのだが、どうすればいいでしょうか」ということを相談した。
もともと、國崎さんとマットさんとは会社員時代のプロジェクトで、「太陽光で走る移動販売車を作る」というプロジェクトを一緒に行っていたこともあり、そのつながりで真っ先に相談をした次第だ。
※伊良コーラを始める際、移動販売車でやろう、となったのももしかしたらその時の記憶が頭の片隅にあったからかもしれない。
國崎さんにはファーマーズマーケットの出店ブッキングを担当する土屋さんを紹介してもらう。
そして、ついにカワセミ号の初出店日が決まる。7月28、29日だ。
本来的には出店には2ヶ月以上前から予約が必要なのだが、なんと、たまたま運よくその日程でキャンセルが出ており、出店できるとのことだ。
そして、同日、アメリカとイギリスから取り寄せていた衣装も揃った。「コーラ小林」の名札もできている。
カワセミ号も、塗装の上にデザインのカッティングシートが貼られ、完成間近。
出店まであと2週間。
同じタイミングで祐天寺の駐車場を探した。
家の近くには2つの駐車場が見つかった。
1つは家から近くて、駐車位置も停めやすい形をしているが、月額2万7千円。
もう1つは自転車で行かなくてはならず、位置も変に斜めになっていて停めづらいが、月額2万3千円。
今だったら近くて効率の良い方を選んでいたかもしれないが、当時は会社員の身。とにかく安い方を選択した。
※ここには映っていないが、隣の車が線をオーバーして駐車してくるもので、カワセミ号が出られなくなったこともあり、大変だったが、これはまた別のお話。
駐車場も確保し、中に積み込むガスボンベや資材も揃った。並行して進めていた看板や暖簾なども完成した。
カワセミ号が到着次第、資材を積み込むだけの状態までやっと来た。
カワセミ号は札幌から東京まで布施さんが自走して納車していただくこととなった。
ルートは札幌から小樽まで自走し、そこから苫小牧までフェリー。そこから東京まで再び自走して来ていただく。待ち合わせ場所は祐天寺からほど近い、五反田。
7月17日、夜21時ごろ、五反田にカワセミ号が到着。
長旅を終え、くたくたになった様子の布施さんと対面する。近くの居酒屋で一緒に遅い夜ご飯を食べる。
ここまで直接納車していただき、本当に頭が上がらない。
そして、翌日の中目黒の保健所での移動販売者用営業許可の申請に備える。
出店まであと11日。
翌日は事前のアポイントメントの通り、カワセミ号の営業許可申請だ。
保健所の担当の方に設備基準を満たしているかどうか、確認をしてもらう。
もしここでNGが出てしまうと、せっかく出店できることになった、カワセミ号デビュー戦の7月28、29日に出店できなくなる可能性が高くなる。
カワセミ号は車体がコンパクトなこともあり、各機材を基準ギリギリの寸法で納めていたりと、本当にヒヤヒヤする。
だが、検査を担当してくださった方は若い男性で、なんと北海道出身とのこと。
札幌から来たことや、大学時代、北海道で過ごしていたことを伝え、和やかなムードに。そして無事に許可が降りた!布施さんにお礼をし、駐車場にカワセミ号を駐車しに行く。
出店まであと10日。
7月19、20日は本業の会社員のイベントの仕事で足立区の綾瀬へ。担当していたシャンプーのイベントが綾瀬のスポーツジムであったため、泊まり込みで準備をして、イベントを迎える。
出店まであと1週間に迫る。21日はスタンプやショップカードなど、細々としたものを準備する。
出店まであと1週間を切った22日。
事件は起こる。
駐車場で機材や資材を詰め込んだ。
来週の出店に向けて、資材を積んだ状態で駐車場の周りを試運転してみようと考え、運転席に乗り込む。
エンジンをかけ、スピードを上げて20mくらい走っていた。
すると、
「ドカン!!」
というとんでもない音が車の左後方からした。
訳も分からず、すぐに急いで車を停め見に行くと、そこにはぐちゃぐちゃになった跳ね上げがあった(跳ね上げというのは移動販売者の販売面で、営業時には上に跳ね上げて開くところ)。
そう、私は跳ね上げをおろすのを忘れてそのまま走ってしまっていたのだ。
ぐちゃぐちゃになった跳ね上げと、出店まで1週間を切っているという事実に呆然とする(呆然としすぎて当時の写真を撮れていない)。
だが、とにかく直さないことには始まらない。すぐに祐天寺から一番近くにあるホームセンターの馬込にあるケンマートに向かう。
焦りながらアルミ複合板を買い、駐車場に戻る。跳ね上げの大きさにカッターで切り出し、補強のアルミパイプを取り付け、なんとか日暮れまでには体裁を整えた。なんとかなるものだ。
※今は既に改修しているが、初期にカワセミ号の跳ね上げの色だけがシルバーだったのはこんな理由だ。
そして出店前日の27日。
有給をとり、友人のコウヘイを誘い、出店のシミュレーションをすることにした。
開店準備から当日の簡単なオペレーションまでをしたいと思い、スペースが広そうなところを探す。
多摩川沿いの河川敷がいいのではないか、ということで東急多摩川線の沼部駅でコウヘイと待ち合わせる。
自分は祐天寺からカワセミ号で向かい、コウヘイは電車で沼部駅まで来てもらう。
コウヘイを沼部駅のロータリーでカワセミ号の中で待っている時、外からおじさんに話しかけられる。
窓を開けてみると
「コーラを売ってくれないか」
とのこと。
もちろんその場では売ることはできないため、丁重にお断りしたが、カワセミ号に何かしらの力があるのではないか、という感じがした。
その後、多摩川の河川敷でカワセミ号の開店のシミュレーションと、セッティングの調整をする。
すると、自転車で通りがかった人が財布を出してきて、、またもや、コーラを買えるかと聞かれた。
コーラを売ってみたい気持ちに駆られたのだが、前回と同様に丁重にお断りをする。
もちろんその時には伊良コーラの名前など誰も知らないのに、コーラを買おうと思ってくれる人がいること。
とても不思議な感じがしたし、もしかしたらカワセミ号の物語はその時から始まっていたのかもしれない。
そのあと、セッティングの検証用に写真を撮っていると、急にクラクションが鳴る。
その先にはゴルフの打ちっぱなし練習場があったようで、練習場自体は工事で休業中なのだが、工事の車がそこから帰るようだ。
カワセミ号の中には装飾用の薬瓶がたくさん飾られており、そのまま車を動かすと、割れたりして危ない可能性もあった。
そのため、「今、片付けるので、少しだけ待っていただけませんか?」と工事の車にお伝えした。
だが、「待たない、すぐどかせ」とのこと。
そのため、車の荷室にコウヘイに入ってもらい、薬瓶を抑えてもらいながら、得意の「跳ね上げ上げたまま運転」で道の脇までカワセミ号をどかした。
その車は
「そもそもこんなところで営業して良いのか!お前ら覚悟しとけよ」
と捨て台詞を吐きながら去っていった。
もちろん営業はしていないのだが、説明する暇もなく、去って行ってしまった。
すぐに帰ろうか、と片付け作業し始めて、10分後。
サイレンをつけたパトカーが来た。
なんと先ほどの車が「怪しい車が河川敷の下で違法な営業をしている」と警察に通報したとのこと。
確かに文面で聞くと相当危なそうだ。
だが、しっかりと警察に経緯を説明し、警察官の方は納得してくれた。
※ちなみに先ほどの自転車の人にコーラを売ってみたい、という誘惑に駆られないでよかった。
出店まであと1日。
と、この流れで出店当日に向かいたいところだが、
どうも天気の雲行きがおかしい。なんと台風が接近しているとのこと。
初出店日28日は暴風雨のようだ。
案の定、18時18分に土屋さんから、
「残念ながら明日は台風の影響で、開催中止となります」
との連絡が来る。
サポートで朝イチで来ていただく予定だった布施さんにもすぐに連絡。
そして、29日もどうなるか分からない。
カワセミ号の初出航が嵐によって消え去ってしまうのか。
一方で29日には学生時代の友人の大井さんがサポートで入ってもらえることになった。
元々、28、29日でサポートで入ってもらえるか聞いていたのだが、28日がNGで、29日はOKとの返事をもらっていたのだ。
7月28日、元々初出店の予定だった日はすごい雨と風だった。
東京をちょうど台風が通過しているところのようだ。
翌日の天気をみるとなんとか曇りのよう。台風が過ぎ去ってくれることを祈りながら目覚ましを3個、朝7時にセットして、眠りにつく(目覚まし1個では大変不安だ)。
7月29日。目覚ましとスマホのアラームがごちゃ混ぜになった音で目を覚ます。すぐに立ち上がって窓の外を見る。
晴れだ!雨は降っていない!出店できる!
すぐに着替えをし、自転車でカワセミ号が停まっている駐車場まで行く。
ドアをあけ、エンジンをかける。
駐車場から駒沢通りに出て、祐天寺の駅前通りをドコドコと進み、三菱UFJ銀行の角を左折する。ちょっと走ってアパートの下にカワセミ号を停車させる。
自分の部屋に戻り、炭酸ガスボンベやバッテリー、仕込み水、レモンをキャンプ用の台車に積み込む(当初、炭酸ガスボンベをカワセミ号の車内に置きっぱなしにしていると、夏の車内の高温でボンベが爆発するのではないかと怖がっており、炭酸ガスボンベは毎回カワセミ号に積み込んでいた)。
台車を引き、エレベーターに乗り込む(自分の部屋は3階にあった)。エレベーターを降りる。ここからまた難関。アパートのエントランスは半地下のようになっていて、階段がある。そのままカワセミ号まで台車を引っ張っていけない。
台車からものを全部出してカワセミ号に詰め込む。エントランスのドアも厄介だ。オートロックはオートロックなのだが、自動ドアではなく、バタンとしまって鍵がかかるタイプのオートロックなのだ。ドアを開いて台車をドアの隙間に挟み、その状態で物を出して、カワセミ号へ積みこんでいく。
全部積み込んだら、いざ、青山ファーマーズマーケットへ。
荷台に積み込んだ資材たちがカタカタ、ガタガタとすごい音を立てている。
たまに道路の段差で、どこっと何かが落ちる音がする。気が気ではない。
祐天寺の昭和通りから駒沢通りへ、駒沢通りから代官山を抜け、渋谷東を通り過ぎる。
ここの坂も厄介だ。代官山からみると渋谷東の明治通りは谷底のようになっているのだ。明治通りの手前の信号で停まってしまうと、荷物をたくさん積んだカワセミ号は青山方面への坂を登ることはできない!(実際には登ることはできるが、人間が歩くスピードよりも遅く、後続車からは大ひんしゅく必至だ)。
渋谷東の下り坂のタイミングを合わせて、そのままの勢いで青山方面への上り坂を登る。
やっと青山学院大学の脇を通り過ぎ、青山通りに出る。
青山通りに出ると本当にホッとする。青山通りを右折し、左側の国連大学へと入場する。
入場後、定位置までカワセミ号を移動させ、事務局のスタッフさんに挨拶をし、開店準備を始めた。
そして、10時間店に合わせて、9時半ごろに待ち合わせをしていた布施さん、大井さんがやってくる。
カワセミ号のオープンまであと30分。
「本当にお客さんは来てくれるのだろうか」と急に不安になる。
「1杯も売れなかったらどうしようか」という気持ちにもなる。
10時に開店した。
そこからの記憶は、無い。
忙しすぎたのだ。
なんと初出店で行列ができたのだ。
150杯分くらい用意していた伊良コーラが、全て売り切れた。
途中でレモンが足りなくなり、裏で必死に布施さんにスライスしてもらったのを覚えている。
一方で、強く心に残っているのは、伊良コーラに出会うお客さんの驚きの表情や笑顔であった。
そして、今までの会社員時代、給与というのは紙に印字され、銀行に自動的に振り込まれるものだった。
よく、「お金は誰かを幸せにした対価だ」と言われるが、会社員時代は関わる人が多すぎたり、最終的に誰を幸せにして、どうお金をもらっているのかなかなか想像できずにいた。
だが、自分が作った伊良コーラをお客さんが目の前で飲み、お客さんが笑顔になる。そして、五百円玉を手渡される。
「お金は誰かを幸せにした対価だ」という言葉が身に染みてわかったし、一種のカルチャーショックでもあった。
営業中には、会社の同僚であり、友人でもあるケイスケも営業中に来てくれたのも嬉しかった。
営業終了後には飲食の先輩である布施さんに「愛想が悪い!」とダメ出しされつつも、不思議な高揚感のまま帰路に着いた。
帰りながら、もし台風がなくて28日に出店することになり、大井さんにヘルプに来てもらってなかったらやばかったなと思う。本当に幸運だ。
祐天寺に着いたのは夕方の17時半ごろ。
炭酸ガスボンベやその他諸々を部屋に下ろし、カワセミ号を駐車場に置きにいく。
カワセミ号の中では社外品のカーラジオのガサガサのスピーカーから、J waveのサウージサウダージが流れている(カワセミ号の帰りにはいつもサウージサウダージが流れていて、思い出の番組だ)。
そして自転車でアパートまで戻り、お腹がペコペコになって、今日くらいは贅沢していいだろうと思って、UBER EATSを頼む。
それがカワセミ号の初出店の流れ。
カワセミ号出店は本当に大変で15キロ以上も痩せたかもしれない。
だが、最高に楽しかった。カワセミ号のエンジンの香りを嗅ぐとあの日々を今でも思い出す。
おわり
※カワセミ号は始まりの地「青山ファーマーズマーケット」に、今でも必ず月に一回以上出店しています。
伊良コーラが続く限り、ずっと出店していきたいと思っています。