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舞台の上で、どこを向くのか

 冷麺が美味しく感じる季節になってきた。夏が顔を見せ、少し動くだけでじんわりと汗をかいて、一仕事したような気分になる。

 演奏会のチケットは大抵二枚取って、後から誰を一緒に連れていくのか考えるのが楽しい。先週末が予定だった、だいぶ前に取っていたウィーン少年合唱団のコンサートには母を連れて行った。母は昼寝をするのが好きなので、いい演奏で心地よくなったらうとうとしちゃうと思うけど。

 同じ少年合唱団で、LIBERAのコンサートには何度か訪れたことがあったが、ウィーン少年合唱団は初めて。来日ツアーと称して、少年たちは小さい身体で連日あちこちを移動するようだ、最近出不精ぎみな私よりよっぽど体力があるんだろうな。

 大ボリュームの全21曲プログラム。曲を追うごとに彼らの緊張がほぐれ、澄んだ声が通るようになっていくのを感じた。ソロ曲を歌いあげる子の声は一等響いていた。団員の得意に合わせて出てくるヴァイオリンやギターなどの演奏も楽しかった。

 さてさて、「舞台上で誰がどこに立ち、どちらを向いているのか」という視覚的要素は、聴覚優位なイベントと思いがちな演奏会においてもかなり重要なポイントで、楽しみ甲斐がある。

 今回の演奏会は、前後ろの二列に整列した25人の団員と、団員の真ん中を割って配置されたピアノ、それを弾くカペルマイスター。団員は素直に客席の方を向いているが、マイスターはピアノの向きに合わせて我々に背を向けている。

 団員はマイスターの合図に従って歌い、お辞儀をし、場面転換をする。「手はお膝まで」と教わっているのか、揃っているけどどこかぎこちなくて落ち着かないお辞儀が可愛い。

 お金をきちんと取っていて歌声も一品の演奏会なので、学芸会と表現するとカジュアルすぎるが、日頃の練習の成果を見させてもらっているような雰囲気がホール内を満たす。自分と同じ方向を向くマイスターと気持ちがシンクロして、こちらも見守りの姿勢が芽生えてくる。

 LIBERAの演奏会は対照的で、大人は舞台上に目立って現れなかった。伴奏として支える演奏隊の大人たちはステージの奥の陰に潜んでいて、曲の説明も転換も少年たち自身のタイミングで自律的に行われていた。

 大人の先導を受けず、揃ってこちらを見て歌声を降らせるその様子は、なんだか彼らが人為から離れた存在に感じることを煽った。聖歌隊の衣装や「天使の歌声」という文言が際立ってきて、神聖なものに出会った気分になった。

 パイプオルガンの演奏者が大きく聳えた存在に立ち向かう同朋の戦士に見えるとか、テーブル席よりカウンターの方が人と深い話ができる気がするとか、スポーツ大会の選手宣誓とか、似たような話が記憶のなかからぽろぽろ……。

 そうしてあれこれ考える娘の隣で、案の定母は気持ちよさそうにうとうとしていたし、結局チケットの料金以上にお昼ご飯をご馳走してもらい、夜ご飯のお惣菜と翌日の朝ご飯のパンを買ってもらい、上手な親孝行にはならなかったなあと思うのでした。

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