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2015年の作文・7月

7月1日

◇夢の中の大ちゃん

 

久しぶりに大ちゃんに会った

夢の中で

大ちゃんはぼくの仕事を手伝ってくれた

車の助手席に座って

ぼくは道を間違えて配達場所を通り過ぎてしまった

車を降りて歩いて届けることにした

ぼくは足を怪我していてなかなか前に進めない

だから大ちゃんは先に歩いていった

ぼくの足はだんだん重くなって

とうとう一歩も進めなくなった

大ちゃんから着信があった

「もしもし大ちゃん」

「この領収証、10枚束になっているヤツ、全部持っていけばいい?」

「いや、一枚でいいよ」

「でも10枚綴りになっているから」

「あたまの一枚だけでいいんだ」

「じゃあ10枚持っていくから」

「だから一枚で……」

とここで目が覚めた

 

大ちゃんとは何年も会っていない

物心ついた時にはいつも一緒に行動していた幼なじみだ

大ちゃんは一人っ子で

ぼくはよく大ちゃんのうちに泊まりに行った

小学5年生の時にぼくは転校した

それからばらばらになってしまった

 

 

7月3日

◇アンチケンジ5

 

山口泉『宮澤賢治伝説』で、賢治さんはボロクソ云われてしまったが、同じ2004年に出版された西成彦『新編 森のゲリラ宮澤賢治』(平凡社)を読むと、面白いことに気づかされる。山口泉氏が、賢治を批判するのは「人間から歴史性や社会性を抹消している」からなのであるが、同じ傾向性を指摘しつつも、西氏はそれを積極的に評価しているように見える点だ。

以下、西成彦氏の「宮澤賢治と金田一京助──サハリン東岸のふたりの日本人」からいくつか引用する。

《しかし、宮澤賢治のサハリン体験を作品中に読み取ろうとするとき、見逃せないことがらがある。そのあまりもの非時代性だ。これまで見てきたように、宮澤賢治は「イーハトヴ」なる土地の冷戦的状況にはきわめて敏感な作家だった。「氷河鼠の毛皮」のように、シベリア出兵や尼港事件を直接匂わせるような作品さえある。ところが、『春と修羅』に収められた連作「オホーツク挽歌」からは、ありとあらゆる歴史的背景がすとんと欠落している》

山口氏なら、こういう点を重箱の隅を楊枝でほじくるようにして批判するところであろう。西氏も賢治作品から同じ傾向性を読み取るのだが、捉え方が逆になる。

《詩人宮澤賢治にとって、重要だったのは、シベリア出兵に参加した日本軍人の生でも、サハリン北部やシベリア沿海州から命からがら逃げ出してきた避難民の生でも、かといってサハリンに生活圏を持つ少数民族の多様な生でもなかった。「透明なエネルギー」を捧げるための人格性を帯びた「妖精」や失われた「エネルギー」を「恢復」するのに必要な「風」や「雲のひかり」こそが、その詩的体験においては、不可欠の要素だった》

西氏は賢治さんの詩句を引きながら詩人の特質がどこにあるのかを示していく。

《とつぜん、宮澤賢治の目の前に姿をあらわした「妖精」なり「アイヌ」なりは、いつのまにか「向ふ」へ移っていってしまう──ありとあらゆる出会いが「エネルギー交換」の契機であり、かといって、そうした同伴者はけっして、いつまでもどこまでも同伴者でありつづけることはない──これが宮澤賢治の他者観なのだった》

まことに重要な指摘だ。そして、この詩人独自の視点の方が、一見歴史性を書きとどめているかのように見える金田一京助の視点よりも、よりくっきりと歴史性を浮き彫りにする。

《一見、非政治的・非歴史的に見える詩人宮澤賢治の知覚や認識や行動が、人間世界ばかりでなく動物をまで巻きこんだ擬人法童話へと置き直されたとたん、一気に歴史化・政治化されていく。この魔法は、おそらく詩人宮澤賢治の他者観の必然的な帰結だった》

これはまるで山口泉氏への反論であるかのような論述だ。

《金田一京助は、日本人がアイヌ語を研究調査することの政治性に生涯無自覚であったのに対し、宮澤賢治は童話作家となったが故に、人と人の出会いとすれ違いがまさに政治的な溝を明らかにするところに物語の山場を持ってこずにはおれなくなっていた。1907年の金田一京助は、サハリンから膨大なノートを宝物としてたずさえて戻ったが、「どんぐりと山猫」のかねた一郎少年は「黄金のどんぐり」をもらって帰ったはずなのに、いつのまにか「黄金」は消えて、ただの「どんぐり」に変わっているのである》

読みの可能性は広がった。ここにも疑って読むか信じて読むかの違いが現われている。西成彦氏の「宮澤賢治と金田一京助」という文章を全文読まれることをオススメする。

 

 

7月4日

◇詩の鑑賞とその評価について

 

詩についていろいろ書いてみているのだが、なんだか詩を論じるという行為が少し馬鹿馬鹿しくなってきた。詩は、第一に、やっぱり鑑賞するものなのだろう。作品を偏見なく味わうことが最初になくては、なんだか申し訳ない気がするのだ。鑑賞して、鑑賞して、それでも何か物足りないものを感じた時に、詩論を少しだけ援用してみるくらいの程度が大事なのではないか。誰が書いたかを問わないで、まず作品にぶつかる。それが詩であるかどうかも考えないで、言葉に触れる。そういう出会いが少ない。否、ほとんどない。


病気に罹って以来というもの、私は、鯨を、一頭、所有している。奴と一緒に、寝ていることにしているのだ。
夜更け、だから、私が目を醒ますと、いつでも、敷布におしつけた私の頭の傍らに、じっと、温和しくしている奴がいる。鼻息もたてず、身をかたくして。……
しかし、私の場合、鯨は、よく人々が絵本に描くような、巨大な奴ではない。殆んど、足指ほどの小さな種類だ。そして、からだは、金属でできている。全身が、扁平で光っているのだが、頭部には、紐のついた丸い穴が一つあり、尻尾には、曲がった三本ほどの突起がある。それだけの、単純な奴なのだ。
奴に気がついて以来、考えるのだが、おそらく、私の隣人たちなら、奴を鯨ではない、と言うだろう。単に、奴を、扉とか金庫とか開く時に、使用する物だ、と言うだろう。
勿論、私は、そんなことをしない。
奴は、私の所有する、唯一頭の鯨だ。私は、奴を話相手としている。お互い判り合ってしまえば、それは、たやすいことだ。
右の耳を、敷布の上の奴におしつけ、私は聴く、奴の身の上話を。昔、奴が、生きてきた寒い海を。そこに、犇めきかがやいている幾万の奴の仲間たちを。それらを照らす。二つの三日月を。
──そいつを聴きながら、で、いつも、私は、安らかな眠りにおちる、と言う寸法だ。


上の文章は何か。口から出まかせのようにも思える。足の指くらいの鯨? ずいぶんいいかげんなことを云うじゃないか。なぞなぞのようにそれが何かを当てればよいのか。ヒントは書いてある。どうやらこの文の作者は鍵を鯨と見なしているらしい。でも、ほんとうか。鍵だとしても、普通、それを話相手になんかしない。それに鍵は身の上話なんかしない。さらに、寒い海に幾万もひしめき合ってなんかない。なんだ? 二つの三日月とは。引用した文章は、粕谷栄市の詩集『世界の構造』に収められている「鯨または」という一篇である。この詩を鑑賞して、私はまた何かを言いたくなってきた。あすそれを書こう。つづく

 

 

7月5日

◇詩の鑑賞とその評価について2

 

きのうの続き。粕谷栄市の『世界の構造』という詩集を読んで、詩を鑑賞し評価することがどういうことなのかを考えてみたくなった。その前に、何かを評価すること、それを哲学的にまとめておこうと思う。

食べ物を例にするとわかりやすいので、バナナが一本ありました、というところから始めると、バナナを知らない人は、「これは何だ?」となる。お腹がすいていれば、「食べられるのか?」と思う。触ってみる。ニオイを嗅ぐ。皮を剥く。舐めてみる。食べ物だと舌が云う。食べてみる。ここまでが認識(鑑賞)だ。次に、「うまい」とか「まずい」がくる。だいたい甘ければ「うまい」と思い、苦ければ「まずい」と思う。これが評価の段階。気に入った人はおかわりしたり、人にすすめたりする。そして、バナナのおかげでいいうんちが出たりした場合、この食べ物は健康に良いという評価となる。人にすすめるために、きれいで形の良いバナナを選んだりする。

ここまでで分かることは、評価は「すき、きらい」と「よい、わるい」と「うつくしい、みにくい」の三つに分類できるということ。

煙草を例にとると、煙草が「すき」な人はそれを「うまい」と感じて何本も吸うのだが、煙が他人にも自分にも害を及ぼすわけだから、これは「わるい」という評価となる。しかし映画のワンシーンで俳優がすぱーと煙草をふかしているのを観ると「うつくしい」と思ったりする。

こうした評価の三類型を、文芸にも応用してみよう。

粕谷栄市氏の作品「鯨または」を読んで、足の指くらいの鯨を所有しているという常識では考えられない話、私は「すき」である。そういうヘンテコな発想をたんたんと書き記す態度も「すき」である。形式は散文である。そこに詩的な香りを漂わせようとする企みも「すき」である。しかし、これは事実を記していない。子どもに読ませたらきっと「うそだい」と言われる。これがウソだとしたら「わるい」ことをしたことになる。加えて、散文形式であるが故に、韻をふんだり音数律で整えたりしているわけではないから、詩としては「うつくしい」とは思われないだろう。言葉のテンポやリズムを好む人にとって、この作品は詩であるとは見なされないかもしれない。

私がどんなに「鯨または」という作品が「すき」でも、それを人に読ませるだけの価値があるかどうかは、分からない。人間の生死にとって重要なことが書かれているなら、これは「よい」と叫んですすめるだろう。しかし、この作品にはどう読んでもそういう重さはない。はっきり云ってどうでもよいことしか書かれていない。鯨のような鍵または鍵のような鯨から、この詩の語り手は夜な夜な身の上話を聞きながら眠りにおちている。それがどうした! そんな話を聞いているひまはないわい、というタイプの読者には、受け入れ難い評価だと思われるのだが、私はどうしてもこの作文を詩であると云いたいし、この作品の香りが「すき」なのだ。

詩集『世界の構造』には、40篇の詩が収められている。どれも同じ形式で、同じ発想のもとでの作文である。この統一が詩集としての「うつくしさ」を形成している。そして、物体としてのこの詩集が、やはり「よい」と私には云える。

 

 

7月7日

◇イメージの類似について

 

粕谷栄市氏の詩集『世界の構造』を私が読んだのはつい先日のことだ。私が手にしたのは2版だから1972年3月3日の発行である。43年前の詩集をはじめて読んだわけだ。そして、その中に収められている「鯨または」という作品が気に入って、先日も全文引用した。もう一度、部分を抜粋してみる。

《奴は、私の所有する、唯一頭の鯨だ。私は、奴を話相手としている。お互い判り合ってしまえば、それは、たやすいことだ。/右の耳を、敷布の上の奴におしつけ、私は聴く、奴の身の上話を。昔、奴が、生きてきた寒い海を。そこに、犇めきかがやいている幾万の奴の仲間たちを。それらを照らす。二つの三日月を。》

詩人は鯨を一頭所有している。しかし、それはどうも人が鍵と呼んでいるものらしい。しかし、そんなことにはお構いなく、詩人はそれを鯨だと言い張り、その声を聞いて眠りにつくと云う。そして、鯨が寒い海でひしめきあっていることを想像し、そこに二つの三日月があると妄想する。

次の文章を読んでほしい。

《彼はふたたび鯨を夢に見ていた。鯨にまじって大洋を長いあいだ泳いでいた。波を浴びる鯨の目を見ていると、鯨の目の表情が理解できた。彼自身もいつの間にか鯨になっていた。鯨の群れは、飛行機の上から見たときのように、くさび型に並んで泳いでいた。説明できない力が鯨をはるか前方の水平線のほうへ引き寄せていた。まるで何かがそこで鯨を待っているようだった。水平線は次第に遠ざかるのに、鯨は巨大な体で波を切り裂きながら泳ぎ続けていた。海の水はますます熱くなってきた。打ち寄せる波が肌をひりひりさせていた。進むに連れて、熱い波のなかを泳ぐことがますます恐ろしくなってきた。そして、そのとき、思いがけなく目撃して、どうして海がこのように沸き立ち始めたかを知った。海の上には二つの太陽が同時に昇っていた。二つの真っ赤な火の玉が、二つ一組のサーチライトのように、水平線のすぐ上の空で燃えていた。》

ごらんの通り、〈鯨と二つの太陽〉というイメージが、粕谷氏の詩の中のイメージである〈鯨と二つの三日月〉に類似している。これは偶然だろうか。

引用した文章は、1996年1月25日に出版された『カッサンドラの烙印』という小説の第三章の冒頭部分である。作者はキルギスタン共和国出身の作家チンギス・アイトマートフである。私はこの小説を1996年に買って読んだ。19年前である。引用した鯨の夢のシーンがとても印象的で、散文詩のようだなと思ったものだ。しかし、その鮮烈なイメージを私はずっと忘れていた。〈鯨と二つの太陽〉から遠く離れて19年、たまたま開いた粕谷栄市詩集の一篇との出会いによって、それが蘇ったのである。

順番でいけば、粕谷氏の〈鯨と二つの三日月〉の方が遥かに先である。粕谷氏も驚いているのではないか。自分の詩集出版から24年後に、キルギスの作家の小説のなかに、〈鯨と二つの太陽〉が登場するとは……。

さて、私は推測する。もしかしたらアイトマートフは、粕谷栄市の詩集『世界の構造』を読んだことがあったのではないか、と。きちんと調べてないので、あくまで推測である。もしそうだとしたら、『世界の構造』がロシア語か英語に訳されているとか、アイトマートフが日本語に堪能だったとか、そういう証拠が必要だろう。または二人に直接の交流があったかもしれない。調べていないので、推測でしかない。

もっと詮索すると、〈鯨と二つの天体〉というイメージが、実はギリシャ神話や聖書や仏典のどこかに記述されているという可能性だって考えなくてはいけない。こうなると、他の作家の作品も調べてみなくてはならないぞ。だれかたすけて~。

 

 

7月8日

◇感情不移入

 

本を読んでいる時に、全く別のことを考えてしまっている。私は、昔からそうなのだ。確かに読んではいるのだが、それに内容もある程度理解しているつもりなのだが、私の意識はどうもその本の世界には入っておらず、本の上空50センチくらいのところを漂い続けている。これは私だけの感覚なのかどうか、それは知らない。

主人公に感情移入して、思わず泣いたり笑ったり、映画や小説でそれを体験したことがないわけではない。でも、正直言って、そんな時でも、本当は上空50センチに意識はある。それを客観と呼ぶのかも知れないが、意識はそれこそが主観だと主張する。

感情が移入しないのは、私が冷静すぎるからなのだろうか。冷静を過ぎて冷酷にさえなっている気がするけれど。目が笑っていない、と云われることがある。私はどこを見ているのだろうか? 欲望の動きが気になる。そうなのだ。私は私の欲望をいつも意識している。

本を読んでいるのは知性だ。しかし、その背後で欲望がうごめく。そのたびに、私の意識は、「おい、お前は今何を考えている?」と欲望に問いかける。すると欲望は云う「そんな文章を読んだからって、いったい何になる。くだらない暇つぶしだ。それよりぼくと踊りませんか? 書を捨てて、街に出ませんか?」。

私の読書はこうしていつも単なる資料集めに終わる。お酒を飲む行為が栄養補給でしかないようなものだ。酔って気分がよくなることはない。淋しいかぎりである。

たまには本に読まれてみたい。

 

 

7月9日

◇お通夜

 

きのうの夜、後輩のお父様のお通夜があった。亡くなったお父様は遺影のなかでやさしく微笑んでいた。いつもジョークを飛ばして皆を喜ばすいいお父さんだった。遺族と葬儀の参列者は無言の会釈を繰り返していた。故人への追悼を目的にした儀式だが、参列者は遺族への挨拶の方が重要なのだろう。不思議といえば不思議な文化である。遺体は棺に収められていて見えない。本当は遺体をみなが見えるところに横たえておく方がいいのではないか。死に様を見せてあげるのが故人とその縁者たちへの最大の配慮なのではないか。

死んだ人は「向こうの世界」へ旅立ったというアナウンス。これもまことにおかしな話だ。そこにいる人で「向こうの世界」を見たことのある者など一人もいないにもかかわらず、だれもそれに不審を抱かない。

遺体を見せないことと、他界の存在を前提とした儀式には深い関連があるのだろう。

死んだ人がどこへ行ったのかという問いはエポケーしておいた方がよい。遺体があり、それが告別式のあとに燃やされて灰になる。物質が変化する姿を見守ることだけが遺された者ができる精一杯だ。

ただし、故人の思い出を語り合う事と再会を強く望む気持ちを否定しない事だけは必要だと信じる。思い出が記憶されていること、そして今ここにいない人に会いたいという強い思いがあること、これは遺された者が今を生きている確かな証拠でもある。

この地球上には数えきれない死者がいて、その死者たちの遺した言葉やアイデアの上に現在は作られている。政治も経済も教育も宗教も、死者たちと無関係なものは一つもない。そして、現在の私たちが一人残らず死者になることは誰も否定できない絶対の真理だ。

 

 

7月10日

◇理性の叫び

 

もうこれ以上食えないよお!

と蕎麦屋から出てきた男が大きな声で叫んでいた

体重200キロ近くありそうな肥満の男だ

きっと太りたくて太っているのではないのだろう

欲望が勝手に食べて食べてそして全部脂肪に変えてしまうのだ

そして理性が叫ぶ

もう食えない

やだよこんな身体

叫んだのは理性ではなく身体の方かもしれない

からだの悲鳴?

人間はこの分裂が恐い

やりたくないことを平気でやってしまうもう一人のじぶん

それが多くの問題を起こしている

男の叫び声はあまりにも悲しく痛々しく早朝の街に響いていた

 

 

7月12日

◇静かな日曜日の朝

 

仕事を終えシャワーで汗と疲れを流す

椅子に座って冷たいコーヒーを飲む

ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第14番を聴く

静かな日曜日の朝

目をつぶって宇宙とわたくしの存在をゆっくり味わう

 

 

7月20日

◇政治的立場と意見

 

私はブログで政治的な立場を表明したり意見を述べたりするのを極力さけている。理由はいくつかあるが、一つはこのブログが「詩」に関する記事だけをのせるものにしようと決めているからだが、もう一つ加えると、何か政治的な発言をすれば全部知ったかぶりになってしまうからだ。

あらゆる政治的な意見というものがとても遠いところでしか響かないと感じている。例えば、「戦争法案」という言葉、いったいそんな法案がほんとうにあるのか? もしそれがあるとしたら、日本国民が騒ぐ前に、近隣諸国がもっと過剰に大騒ぎする筈である。とうとう日本は戦前に戻ったか! けしからん、と。

例えば、「独裁」という言葉、今、この国でほんとうに独裁政治が行なわれているとするなら、こんなに知識人たちがおとなしくしているわけがない。毎日、「朝まで生テレビ」が放映されている筈だ。

「憲法9条」が大切なことは小学生の頃に教えられ、知っている。私が通っていた小学校の校歌にはこの憲法の精神が強く込められていた。この歌が好きでみな高らかに歌っていた。日本は武器を捨てた。そして、もう絶対に戦争はしない。そうだ! その通りだ! と素直に思って育った。この神話が崩れたのが、1991年の湾岸戦争勃発の時である。大学1年生だった私は、友人と「戦争と平和」について真剣に語り合った。友人が「自衛隊は違憲なんだよ」と教えてくれた。ショックだった。「平和憲法」のもとにある日本に、憲法が認めていない軍隊がずっとあったことになる。この頃から、いつかこの矛盾が大きな問題の種になると思った。やがて、大学三年になり、PKO協力法が世間を騒がせることになる。自衛隊が平和維持活動のために海外へ行けることになった。友人は狂ったように「反対」した。違憲である自衛隊がさらに海外へ派兵されるとなればこれはもう戦争に行くのとなんら変わらないではないかと。さらに大学のゼミの教授から「君は戦争に行くのか?」と問い詰められた。私がPKO法案に賛成を表明していたからだ。

そして1994年、驚くべき事態が起こった。村山政権が誕生し、自民党と新党さきがけと連立を組んだ社会党が、「自衛隊違憲」から「自衛隊合憲」の立場へ態度を180度転換したのだ。私の友人は「自衛隊違憲」の立場に立っていた社会党を支持していた。また裏切られた、だから大人は信用できない、と彼は嘆いた。

あれから20年。今ふたたび自衛隊が問題になっている。今回の法整備を懸命に反対する野党の姿を見ていて、「なぜ今更?」という気持ちになる。自衛隊が存在するのは事実である。そして自衛隊が海外で活動してきたのも事実である。20年間、国際社会で隊員たちは懸命に働いてくれた。野党の騒ぎ方には、こういう事実を無視するような軽薄さが見られる。反対の立場がウソっぽい。もしほんとうに今回の法整備に反対するなら、「自衛隊解体論」にまでいかなくてはならない筈だ。

朝日新聞の調査では、6割を超える憲法学者が「自衛隊違憲」の立場にあるという。

ならば、野党は「自衛隊解体論」か「憲法改正」かのどちらかの代案を提出して現政権と戦うべきだと私は思う。

 

 

7月21日

◇校歌を歌い憲法の精神に立ち返る

 

私が通った小学校の校歌の歌詞はたしかこうだった。

一番

ときわの木立 玉の砂 すがしい明治神宮の みやい間近く朝ごとに いさみいさんで通いゆく

これがわれらの学校だ これがわれらの学校だ

二番

世界の国に先駆けて 戦争すてた憲法の こころ忘れずとりもって 平和日本の民となる

民主日本の民ごころ 民主日本の民ごころ

三番

道ゆく人のためならば 落ちてる石も捨てたまえ 顔も見知らぬ人々に つくし合うのが新しい

これがわれらの将来だ これがわれらの将来だ

 

小学5年の春に転校してしまったので、残念ながら私の手元に卒業アルバムがないのだが、6歳から11歳までの五年間歌い続けたので、詞もメロディーもずっと記憶に残っている。私はこの学校が大好きだった。朝目が覚めると、ふとんを蹴飛ばしてぱっと立ち上がり学校へいそいそとでかけた。乱暴だったので、ガキ大将になってしまった。勉強も遊びも、友だちとの交流も、やることがいっぱいあった。先生もいい人ばかりだった。「君はねばり強い」と誉めてくれた。池があって、おたまじゃくしやメダカやヤゴがいた。白い蛇も出た。ニワトリがいた。ウサギもいた。金魚もいた。街なかをスーパーカーが走っていた。カウンタック! デトマソパンテーラ! ポルシェカレラ! ピンクレディが買物しているのをみかけた。走って追いかけた。砂場で相撲した。大きな相手を背負い投げするのが気持ちよかった。鉄棒で何十回もけんすいした。傘が飛んできて歯にあたった。サッカーでヘディングシュートをきめたあとに地面で顔を打ち前歯がかけた。巨大な絵を描いた。いじめられている転校生を助けた。その転校生に嫉妬された。コカコーラのヨーヨー大会がはやった。牛乳瓶のフタを集めた。「ポン」というゲームがはやり、そのあと「ぺ」というゲームに進化した。民主主義という血と平和主義という肉で私たちは育てられた。

「憲法9条を守る」という人がいるけれど、正確には「憲法9条の精神を守る」というべきだろう。戦争はしない、させないと決めることだ。そういう精神を確立した人々を守るために憲法がある筈なのだから。教条主義からは、平和は生まれない。

 

 

7月29日

◇家族で読書はいいものだ

 

子どもたちの夏休みが始まって10日ばかりが過ぎた。子どもが小中高とそろっているのははじめてのこと。それぞれに過ごし方はちがうが読書だけはみな好んでしている。小学生の娘が感想文の課題に選んだのは『長くつ下のピッピ』である。それで、私もピッピを読むことにした。ただし、同じものを読むだけでは工夫がない。翻訳者のちがうものを三つ用意した。

はじめに、岩波書店版の大塚勇三訳。さし絵は桜井誠。1964年の発行である。

次に、偕成社文庫版の下村隆一訳。さし絵は山田三郎。1988年の発行。

三つ目に、ポプラポケット文庫版の木村由利子訳。さし絵は山西ゲンイチ。2005年の発行。

それぞれの良い所を探しながら読み比べてみたいと思うのだ。

原作者は、スウェーデンの作家アストリッド・リンドグレーンである。解説によると、「長くつ下のピッピ」は原語で「ピッピ ロングストルンプ」であり、英語にすれば「ピッピ ロングストッキング」となる。

「長くつ下」という訳語を最初にあてたのは大塚勇三さんだろう。でも「長いくつ下」は今では「ハイソックス」で通っているのではないか。ハイソックスとストッキングではものが違う。『ハイソックスのピッピ』としたら、誰も手に取らなくなってしまうかも知れない。『ストッキングのピッピ』でも同様だ。言葉というものは面白いもので、「長くつ下」という言葉が流通しなくなったとしても、本のタイトルはずっと『長くつ下のピッピ』で通ってゆくだろう。実際、どの年代の翻訳でもタイトルは変えていない。ピッピと言えば「長くつ下」と定まってしまったのだ。

私の娘が手にしたのは、角川つばさ文庫の『長くつ下のピッピ』である。訳者は冨原眞弓。さし絵はもけお。2013年の発行である。選んだ理由は「絵がかわいいから」とのこと。

その他に、昨年、岩波書店から『幻の「長くつ下のピッピ」』という本が出た。1971年にピッピをテレビアニメーションにしようという企画が立ち上がり、高畑勲、宮崎駿、小田部羊一の三氏がこの計画を進めていたにもかかわらず、原作者の許諾がおりなかったために、実現できなかったのである。

私はピッピを読みながら、やっぱりこれはスタジオジブリでアニメにしてもらわないとならないぞと思った。ピッピ旋風が世界中に巻き起こる筈だ。しかし、一方で、ピッピには本を通して出会ってほしいとも思うじぶんがいる。

 

 

7月30日

◇ピッピの強さはどこから来るのか

 

『長くつ下のピッピ』の読者は、どうしてこの女の子はこんなに強いのだろうと不思議に思うことだろう。まだ9歳なのに一人で暮らしている。周りにそんな子はいない。10歳になったばかりの私の娘は、ピッピのとりこになっている。やることなすこと型破りで言動がまことに面白いからだ。

このキャラクターは、日本のアニメの主人公たちの性格にも深く関係しているように思う。海賊のルフィのように仲間思いで、ドラゴンボールの孫悟空のように何事にもへっちゃら。ハイジのように明るくて、アラレちゃんのように無邪気。未来少年コナンのように原始的で、魔法使いサリーちゃんのように賢い。他にも数えあげたらきりがない。

私はピッピという人物は『男はつらいよ』の寅さんにも匹敵するくらいの個性の持ち主だと思っている。常識がないのに世間のことはなんでも知っているように見せようとする「子どもっぽさ」(おとなげないところ)が寅さんの愛すべき特徴であるが、ピッピはまさにその「子どもっぽさ」をもつ女の子である。そのことが、周囲の空気を読めなくさせているにもかかわらず、結果的にみんなを幸せの方向に導いてしまうところなんか、寅次郎にそっくりである。

ただし、ピッピがすごいのは、アニメの主人公のように超能力や魔法を一切使わないところである。これを読んだ子どもたちは、どんなに励まされることか。おなじ子どもとして、大人たちの言いなりになるのではなく、かといってただ反抗するのでもない、ピッピのおおらかで屈託のない天然の強さを目の当たりにして、胸のすく思いにひたることができる。そして同時に読者はピッピの姿から知らず知らずのうちに深い道徳的な意味を汲み取ることになるのだ。

映画で『男はつらいよ』を観るか、本で『長くつ下のピッピ』を読むか、人格形成に必要な最も重要な教材として、この二つは私の中で同列の位置を占めている。

 

 

7月31日

◇アイス

 

夏休みの子どもたちに少しでも思い出をつくってあげなくてはという思いはあるけれど特別なことができないのである。きょうは娘と一緒にサーティーワンへ行ってダブルをコーンで注文して食べた。31日はサービスデイなのだ。それからDVDを借りて、家族でハリーポッターを観る。

ハガキが一枚送られてきていたのを思い出す。川柳の会からお題と〆切のお知らせ。あわてて川柳をつくる。

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