2013年の作文・3月
2013.3.1
引用を続けたいと思う。
《ぼくの知っていた紳士で、赤ぶどう酒の通だということだけを、生涯自慢にしていた男がいる。彼は、これを自分の積極的な価値と考えて、つゆ自分に疑いをはさもうとしなかった。そして、良心安らかに、というより、むしろ得々として死んでいった。そして、それはそれで、まったく正しいことにちがいなかった。だが、そのときのぼくは、またちがった道をえらぶに相違ない。なまけ者の大食らいはいいとしても、ただの平凡なやつではなく、たとえば、いっさいの美にして崇高なるものに共鳴しうるなまけ者というわけである。こいつは諸君のお気に召さないだろうか? これは、以前からぼくの夢だったものである。なにしろこの〈美にして崇高なもの〉は、四十年のぼくの生涯、ぼくの頭にべっとりとこびりついて離れなかったものなのだ。》(ドストエフスキー『地下室の手記』江川卓訳「Ⅰ 地下室」の6より)
ぼくの父親はゴルフに関することなら何でも知っているし、それが生涯の自慢である。ぼくの息子は野球のことなら、寝食も忘れることができるだろう。ぼくのある友人は、あるデザイナーのブランド品のためならば、生活を投げ打つ覚悟がある。またある友人は、ギャンブルのことで頭がいっぱいだ。このように、自分からみた自分以外の人間は、それぞれ何かひとつのことに命を懸けているように見えるものだ。きっと、家族や友人たちの目から見れば、ぼくは詩のことだけに全てを費やしている人間である、と映っているにちがいない。実際、詩のことになれば、何時間でも夢中になれる。詩を読み、解釈し、詩を作り、推敲し、詩を論じる時間があれば、他に何もいらない。そしてぼくはそんな風に死んでいくのだろう。しかし、ぼくはただそれだけで生きているわけではない。他にも口には出せないような欲望をたくさん抱えているのだ、きっと。『手記』の主人公は、そうした人間の様々な欲望を還元して、〈美にして崇高なもの〉にすべてを注ぎ込んできたと言っている。読み手は、この時点で、こいつはいかれたやつだ、と思うことだろう。と同時に、その異常な偏執を、自分の異常と照らし合わせることをしてみるにちがいない。
《心安らかに生き、誇らかに死ぬ──これはじつにすばらしいことではないか。いや、こんなすばらしいことなんてないほどだ! そうなったらぼくは、べんべんとした太鼓腹をかかえ、顎を三重にもくびらせ、赤鼻をにゅっとつきだして、道で行き会った者がみんなぼくを見て、〈これこそ正(プラス)だ! これこそ真に積極的(ポジチヴ)な人間だ!〉と言うようにしてやろう。諸君はどう思うにせよ、現代のようなネガチヴの時代に、こんな評判を耳にするのは、じつに愉快きわまることではないか。》(同 6より)
ぼくが『地下室の手記』をはじめて読んだのが、21才の時だった。そして今、40才を超えて、再び読解に挑んでいる。ぼくの手元にあるのは昭和44年12月30日発行の新潮文庫で昭和58年5月15日25刷である。とうとう『手記』の主人公と同じ年代になったのだ。
2013.3.2
今日は文献を一つご案内しよう。芦川進一『ゴルゴタへの道 ドストエフスキイと十人の日本人』新教出版社(2011年11月25日)という本を図書館で見つけて読んだ。
《ドストエフスキイ(1821~1881)と福沢諭吉(1835~1901)。彼らの人生の軌跡は、奇しくも一瞬交錯する。同じ年(1862)になされた西欧への旅である。〈中略〉一夏の旅(6月19日~9月4日)を終えたドストエフスキイの帰国は、福沢たちのロシア訪問中(8月8日~9月17日)のことである。やがてラスコーリニコフがさまよい歩くペテルスブルク。二人は約二週間、この街の同じ空気を吸ったことになるのだが、直接的な出会いの痕跡は見当たらない。しかしそれぞれロシアと日本という後進国の歴史を背負う二人の心に焼付いた西欧は、二人の精神史にとっても、それぞれの祖国の近代史にとっても、共に運命的な重みを持つことになるであろう。》(15頁より)
《ドストエフスキイと福沢が、そして漱石が訪問したイギリスは、一貫してヴィクトリア女王の治下にあり(1837~1901)、「世界の工場」たる力を基に、帝国主義的世界侵略の途を突き進む国であり、弱肉強食のバアル・サタンとしての相貌をますます強めていた。漱石がイギリスを訪れた時、日本はこの国と間もなく同盟関係を結ぼうとするまでに到っていた。だがこの地から見る祖国日本とは、列強の一角に食い込む威厳どころか、未だ半覚半睡のまま一等国の後を大慌てで追うみじめで滑稽な姿を曝す国でしかなかったのである。》(23頁より)
《太宰治(1909~1948)最後の小説とも言うべき『人間失格』(1947)。そのピークは、主人公・葉蔵が酔いにまかせ、友人の堀木と興じる反意語(アントニム)遊びであろう。「罪。罪のアントニムは、何だろう」。法律、善、悪、神、救い、愛、光。最後の焦点はドストエフスキイに絞られてゆく。》(29頁より)
こうして、この本の第一部では、福沢諭吉、夏目漱石、太宰治、遠藤周作、小林秀雄、西田幾多郎、道元、親鸞、芭蕉、小出次雄という十人の日本人とドストエフスキイが対比され、論じられている。面白い。
2013.3.3
今日も懲りずに、ドストエフスキー『地下室の手記』を読んでみる。
《誓って言うが、諸君、あまりに意識しすぎるのは、病気である。正真正銘の完全な病気である。人間、日常の生活のためには、世人一般のありふれた意識だけでも、十分すぎるくらいなのだ。つまり、このふしあわせな十九世紀に生れ合せ、しかもそのうえ、地球上でもっとも抽象的で人為的な都市であるペテルブルグ(都市には人為的なものと、人為的でないものとがある)に住むなどという、どえらい災難を背負いこんだ知的人間に割りあてられている意識量の二分の一、いや、四分の一もあれば十分なのである。》(ドストエフスキー『地下室の手記』江川卓訳「Ⅰ 地下室」の2より)
ぼくの十代は、まさに自意識の過剰に悩まされる日々であった。そして、それ故に、自殺まで考えるようになってしまった。ふしあわせな二十世紀に生れ合せ、しかもそのうえ、地球上でもっとも抽象的で人為的な都市である東京に住んでいた。そして、長い暗闇のなかで自己の内面だけをみつめ、あがき、もがき、苦しんだ。ドストエフスキーがここで言っていることは、さらにラディカルなことだ。自意識の過剰という言葉では足りない。意識そのものが過剰なのだ、と言っているからだ。
《いや、待て待て、これこそみなのやっていることではないか。まさしく病気を自慢のたねにしている。しかも、ぼくなどは、おそらくその最たるものなのだ。その点は一言もない。ぼくが反論するなど、筋ちがいもはなはだしい。しかし、にもかかわらず、ぼくの深く確信するところによれば、たんに意識の過剰ばかりでなく、およそいっさいの意識は病気なのである。》(同 2より)
こんなアイロニーが他にあるだろうか。この『手記』全編が、過剰な意識によって貫かれている。そして、そのことを常に意識しながら書かれている。読者はその過剰さに気がついて、しばしば腹を抱えて大笑いしたくなるほどだ。実際、ぼくは笑いすぎて死ぬかと思った。ふしあわせな二十一世紀に生れ合せ、地球上でもっとも抽象的で人為的な都市に住む、『手記』を手にした新たな読者が、今日もどこかで笑い転げているにちがいない。
2013.3.4
《諸君、ぼくがやたらと哲学づいてしまったのを勘弁してほしい。なにせ、四十年の地下室暮しなのだ! すこしばかりの空想癖は見逃してほしい。ところで、諸君、理性はたしかにけっこうなものにちがいない。それに異論はない。だが、理性はあくまでも理性にすぎず、たんに人間の理性的判断力を満足させるにすぎない。ところが恣欲のほうは、全生命の、つまり、上は理性から下はかゆいところをかく行為までひっくるめた、人間の全生活の発現なのだ。なるほど、このようにして発現したぼくらの生は、往々にしてくだらないものになりがちだけれど、やはりそれは生であり、平方根を求めるだけの作業とはちがうのだ。現にぼくにしたって、しごく当然なことながら、ぼくの生きる能力のすべてを満足させるために生きたいと願っており、けっして理知的能力だけを、つまり、ぼくの生きる能力のたかだか二十分の一にしかあたらぬものだけを満足させるために生きようなどとは思ってもいない。》(ドストエフスキー『地下室の手記』江川卓訳「Ⅰ 地下室」の8より)
ここで、『手記』の主人公が展開している「理性と欲望」の議論は、著者であるドストエフスキー自身の思想であるとは言えない。小説がずるいのは、こういう議論を読者が真に受けようと受けまいと、著者に責任が及ばないというところにある。特に、独白の場合、それが冗談であっても、真摯な議論であっても、どちらでも構わない。主人公がいかれた人間であるという設定で、どんな発言をしても、それは物語のなかのことでしかないからだ。ぼくらは『手記』の主人公の話をまじめに受け止める必要はない。しかし、ここで理性が相対化されている点に、ぼくらはハッとさせられる。彼の話と、たとえばデカルトやカントの哲学を比較してみれば良い。「理性万歳」の西洋思想と、ここでの議論は真っ向から対立する。それは読み手としては看過できないポイントなのではないか、とぼくは思うのである。
2013.3.5
大学1年の時、英語の非常勤講師がとても面白い人で、授業の他に色々と雑談をしてくれた。最近こんな小説が面白かったとか、ギリシャ神話と聖書は読んでおいて欲しいとか、そういう脱線した話の方が印象に残るもので、ぼくは学校の帰りに早速本屋で聖書を買って読むようになった。でも、聖書はなんの手引きもなしにはなかなか読めないもの。ほんとうは教会などに足を運んで、然るべき指導の下に読んでいくべきなのだろうが、その時は誰かについて教わる気もなかったので、いちばん有名な作家の本でも読んでみようと思い立ち、遠藤周作の『イエスの生涯』を手に取ったのだった。ぼくは、この小説で、イエスが好きになった。そして、イエスが分かった気になった。人物像が出来上がってから、聖書の記述に戻ると、物語が豊かに膨らんでいくのが感じられた。それで、他にも文献はないかと、いろいろ当たっているうちに、田川建三の著作に出会った。そして、驚いた。田川建三が遠藤周作の小説家としての仕事を学者の立場から徹底的に批判していたからだ。ぼくは、はじめ遠藤周作の側にいた。ところが批判の中身が的確である田川建三の話を聴いているうちに、次第に田川建三の側にじぶんが連れ出されていることに気がついた。ぼくは揺れ動いた。そして、それを楽しんだ。作家と学者、同じキリスト教に熱心な二人が、方法をめぐって、こんなにも対立できることの面白さ。ぼくは、これは深刻な問題ではないと直感した。むしろ、積極的に楽しむ世界だと思った。3月2日の記事で紹介した、芦川進一『ゴルゴタへの道 ドストエフスキイと十人の日本人』新教出版社のなかで、ぼくと同じような経験を著者が語っている箇所にぶつかって、やはりそのことは偶然ではないと確信した。
《しかし、この遠藤のイエス像について、新約聖書学を専門とする田川建三から痛烈な批判が浴びせられた(『宗教とは何か』、大和書房、1984)。田川は遠藤を、歴史的事実と現実についての生半可な知識しか持たず、また自己が立つ主観的真実への批判的視点も持たないままに、そのイエス像を、聖書学との取り組みを通してえられた客観的なイエス像であるかのように世に提示したとして批判したのである。「生々と自信に満ちて活動する一人の人間の姿」、「逆説的反抗者」としてのイエス像を打ち出す田川にとり、遠藤のイエスとは「じめじめと『無力』に居直って、しかも無力こそ本物の『愛』だ、などとうそぶく頽廃した人間の姿」でしかなかったのだ。》(芦川進一『ゴルゴタへの道 ドストエフスキイと十人の日本人』42頁より)
人によって人物像は、様々だ。イエス像が、ブッダ像が、孔子像が、作家により、作品により、様々に変わるのは仕方がない。ぼくらの知的営みは、そういう意味では人物像の終わりなき修正なのだ。ただここでは、作家のアプローチと学者のアプローチは根本的に違うということを知っておくだけでも有意義であろう。
2013.3.6
大学時代のことを語りだしたら、きっといろんなことを思い出して、話題がつきないだろう。きのうは英語の非常勤講師のことを話したが、今度は哲学の助教授(現在は准教授というらしい)の話。ぼくが一年生の時、いちばん熱心に聴講し、いちばん楽しみにしていた授業が哲学であった。教室に入ると、前列には殆んど学生が座っていない。たいがい後ろの席にグループごとに座って、小声でお喋りしたり、雑誌をパラパラめくったりしている。そんなしらけた教室で、その助教授は、実に熱心に哲学の歴史と哲学者の見解と人物像を語ってくれた。古代ギリシャの自然哲学者から始まり、ソクラテス、プラトン、アリストテレス、そして中世のスコラ哲学を経て、デカルト、カント、ヘーゲルなどの近代哲学へ。各時代の代表的な思想家の著書を紹介しながら、丁寧に、そして極めてオーソドックスに西洋哲学の概要を説明してくれたのだが、聴講している学生はみな欠伸の合唱。ぼくは、そんなコミュニケーションの成立していない大学の哲学の授業という空間を、独りで楽しんでいた。常に最前列のど真ん中に座り、助教授の話をわくわくしながら聴き、ペンを休ませることなくノートにびっしり文字を書き続けた。まるで大学を独り占めしている気分であった。助教授は、話が盛り上がってくると身振り手振りがオーバーになってくる。《みなさん。「無」というのは、どうでしょう? 「無」というのはあるのでしょうか、ないのでしょうか? もしも、「無」がないとすれば、世界は「有」だけで出来ていることになる。しかし、みなさん、考えて下さい。もし「無」がないのなら、ここで「ない」と言ってはいけないのではないでしょうか?》などと議論をしかけながら、両手を大きく広げ、教室の天井を真剣な眼差しで見詰めている髪の乱れたおじさんが一人、教壇のまえに突っ立っていることを想像してみて下さい。ぼくはこんな面白い世界がこの世にあるとは思いもしなかったので、ほんとうに笑ってしまった。そして、その笑いを誰とも共有できないことが歯がゆかった。その助教授が、昼食を学生食堂でとる場面に何度か遭遇したが、それがまた面白くって、ラーメンのコーナーで必ず二、三分考え込んでいるのだ。そして、唐突に、右手を高く掲げて「味噌ラーメン」と叫ぶ。塩か醤油か味噌かの選択を哲学的に考察し、何をここで選ぶのが最善かをじっと考え抜いて結論を下しているような雰囲気を出していた。ぼくはそれ以来、学食では、同じように二、三分躊躇してみせ、右手を掲げて「ミート」と叫ぶようになった。決してからかっていたわけではない。ぼくは助教授を心から尊敬していたのだ。
2013.3.7
本日、小学校1年生の娘に、「進研ゼミ」の教材が届いた。昨年は申し込まなかったが、来年度から加入することにしたのだ。学校から帰ってくるなり、娘は大はしゃぎ。一緒についてきた付録に釘付けだった。結局、おまけにつられているだけなのだ。そう言えば、ぼくも小学校のある一時期、「進研ゼミ」をやっていたことがあった。でも、ぜんぜん真剣にやらなかったので、いつの間にかやめてしまった。その時も、教材に取り組むことよりも、シールを集めたり、付録に期待したりしていたと思う。親は、特典は手段で、勉強が目的だと思っているが、子どもは逆だ。特典が目的で、勉強は口実でしかない。親子である。二の舞になるだろうと予想している。手段と目的の逆転現象、これは日常たくさん起こっていることだろう。たとえば、ダイエット。ダイエットの目的は健康である。ところが、ダイエットで健康を害する人は多い。ケータイやスマホ。電話やメール、情報収集などが目的でみなが手にしている筈だが、今やそれらが口実でスマホを持つこと自体が目的化されている気がするがどうだろう。人間がスマホを利用しているのではなく、スマホが人間を操っているのだ。お金。生活のためにお金を稼ぐのか、それともお金を稼ぐのが目的で生きるのか、資本主義社会のアポリアである。自殺。死ぬために生きてきたのか、それとも生きるために死ぬのか、永遠の謎だ。きょう、友人からメールで質問を頂いた。「暇がないと哲学はできない。時間に追われた生活をしている人は哲学的にはなれないのだと聞かされました。そんなものでしょうか?」という内容。ぼくの経験上、確かにそのような一面はある。生存の欲求が満たされていない人が「存在とは何か?」とは考えない。社会的欲求が満たされていない人が「宇宙の意味」を考えていたら家族に叱られるだろう。釈迦も、ソクラテスも、孔子も、狩猟や農耕だけの生活をしている時代には出てこなかった。やはり環境として、考える暇を与えてくれるような都市が必要だった。そういう意味で、「暇がないと哲学はできない」のかもしれない。しかし、一歩深く突っ込んで考えてみると、暇があったら哲学できるというのは、手段と目的の逆転ではなかろうか。暇がなくても、哲学的に考える必要があるならば、是非とも哲学すべきであろうし、それはできないことではないであろう。これは、読書も同じ。暇があるから読書ができるのではない。読みたい本がある人は、本を読む時間をこじあけてでもつくる。意志ある者にしてみれば、暇(時間)は、あるとかないとかの次元ではなく、つくり出すものであるにちがいない。
2013.3.8
ドストエフスキーに関連した文献のご案内。第二弾。松本健一『ドストエフスキイと日本人』上・下(第三文明社 2008年8月19日発行)。(上)のサブタイトルが「二葉亭四迷から芥川龍之介まで」となっており、(下)のサブタイトルが「小林多喜二から村上春樹まで」となっている。こちらの本は、近代から現代までの文学者がドストエフスキー文学をどのように受容したかを時代ごとに区切って、詳細に解説している。ドストエフスキーという切り口で、ここまで日本の近代文学史が語れるというのは、実に驚異的である。樋口一葉が『罪と罰』を愛読していたとか、島崎藤村の『破壊』執筆がドストエフスキーの熟読と平行していたとか、そんな話がポロポロ出てくる。知らなきゃ損だよ、この話。その序章にこうある。
《1974年6月はじめのことである。わたしはある大学祭の講演会に招かれた。そのときの講演会は「日本的近代の超克をめぐって」というのを主題にすえていた。わたしの話はひとわたり済んだが、わたしよりも少し若い聴衆たちは、「日本的近代」の毒に、みずからが今日なおも犯されているという事実に、さほど実感をもっていないらしかった。そこでわたしは、一見この主題にあまり関係がないかにみえる質問を、聴衆に発してみた。いわく、あなたたちはトルストイが好きか、それともドストエフスキイが好きか、と。/この質問に対する聴衆の反応は、トルストイが好きなものゼロ、ドストエフスキイが好きなもの約三分の二、と出た。この反応は、実は、わたしの予想をはるかに上まわるものであった。つまり、こんにちの若者たちには、トルストイかドストエフスキイか、という二律背反は、すでに成立しないのである。かれらにとって、ドストエフスキイはいわば唯一絶対なのであった。そのことが、かれらの幸せであるか不幸であるかはさておく。いえることは、かれら(われら)もまたドストエフスキイに憑かれた世代である、ということである。》
(『ドストエフスキイと日本人(上)』16頁、17頁より)
同じ質問を現在の人にしたらどうなるだろう。ぼくならトルストイの方に手をあげる。実は、ぼくはドストエフスキーは好きではない。トルストイの方が断然いい。20代の頃からそう思っていた。しかし、大学の友人Mくんはドストエフスキーを熱く語り勧めてくれたので、読み続けるはめになったのだ。そして、日本近代の文学者たちと同様に、その毒気にやられてしまったのである。ただし、トルストイという解毒剤を先に飲んでいたので、それを転じて薬に変えられそうな気がしている。今、ドストエフスキーについて語っているのは、その試みに他ならない。
2013.3.9
松本健一『ドストエフスキイと日本人』上・下(第三文明社)からの抜書きをしてみる。第一章「新しき文学の渇望──明治二十五年前後」では、北村透谷がこの時期(明治25年前後)のピークとして取り上げられている。
《平野謙は、透谷の批評の延長上に小林秀雄の『罪と罰』を置きながら、こういう。「わがロマンティケル北村透谷がバイロンにふかく影響され、エマースン、カーライルに近接していたとは今日の文学史的定説である。しかし、もしも透谷が小林秀雄の十分の一でもドストエフスキイを知っていたら?……」と。/平野が紹介したような文学史的定説などに別に恐れいる必要もない。透谷がドストエフスキイと邂逅しているかぎり、かれがその十倍知ろうと、百倍知ろうと答えは同じではないか。そのことを知る桶谷秀昭は、右の平野説を逆手にとって、こう言あげした。「透谷の十倍もあるいはそれ以上にドストエフスキイを知っている小林秀雄が、にもかかわらず歩いて歩いて六十年後に、透谷の延長線に出会した」と。/明治二十年代にあって、ドストエフスキイは少しも早すぎはしなかったのである。それを邂逅と捉える人間が、ただのひとりでもいるかぎりは。新しい文学を渇仰する心は、早くもドストエフスキイの文学にその渇えた眼をむけはじめていた。そこにドストエフスキイとの邂逅はありえた。そしてかれらはその邂逅ゆえに、底もしれぬ地獄のなかへ落ちこんでいかねばならなかった。邂逅とは、すなわち苦悩のはじまりであった。》(『ドストエフスキイと日本人(上)』110頁、111頁より)
ぼくは北村透谷の文章が好きだ。だから、この引用箇所がとても気に入っている。ただし、北村透谷に与えたドストエフスキーの影響だけを、または北村透谷が受容したドストエフスキーだけを見ていると、地獄へ向かったようにしか思われないが、彼にはやはり解毒剤があったとぼくは信じる。それはやっぱりトルストイによってもたらされたのではないか。
《もし伯が貴族の家に産れたる身を以て、自ら降りて平民の友となり、其一生を唯だ農民の為に尽すところあらんとするの精神を読み得なば、誰れか伯の資性の天真爛漫たるを疑ふものゝあるべき。ひとり伯の資性が然るのみにあらず、伯の抱持する基督教主義も実に朴実なる信仰に外ならず。外部厳粛なる教法は、彼に取りて何の関するところもあらず、彼は唯だ其胸奥に自然に湧き出でたる至愛を以て、自ら任じて平民の保護者となれるのみ。露西亜は世人の尤も危ぶむ国なり、而して今や此真摯なる大偉人を有てり、謂ふべし、前途望多しと。》(北村透谷「トルストイ伯」明治25年5月の文章より)
トルストイを知っていた透谷だ。確かに病は篤く、最後は自殺であったかもしれない。だが、希望がゼロだったのではない。この事については、いずれまた深く掘り下げていく機会もあるだろう。
2013.3.10
さらに、松本健一『ドストエフスキイと日本人』上・下(第三文明社)からの抜書き。第二章「近代の定着と矛盾──明治四十年前後」では、日本の近代化が強力に推し進められる背景のなかでドストエフスキーがどのように読まれたかが分析されている。
《わがくにの近代化は国民国家の建設、資本主義化、個人主義化のほかに、西洋化をも含んでいたのである。/そしてそれは、わがくにと同じく後進のロシア(あるいはドイツも)の場合にも似通った性格なのであった。おそらくここに、ドストエフスキイが西欧よりもより一層わがくにに、甚大な影響を与えた理由が潜んでいるはずである。わがくにの近代は大ざっぱにいえば、ドイツにおけるニーチェ、中国における魯迅、すなわちロシアにおけるドストエフスキイをもたなかった。これらの作家に共通するのは、遅れて近代化をはじめた国ぐにで、相乗化された近代の毒にのたうちまわりながらも、その毒をみずからの身体からしぼりだそうとする苦闘、とでもいったらよいだろうか。そして、かれらのその苦闘こそが、わがくにの近代文学をそのままで容認することができぬ読者たちをひきつけた所以であった。これを称して、近代日本文学とドストエフスキイとの逆縁というのである。》(『ドストエフスキイと日本人(上)』118頁より)
なるほど、明治の日本に、ニーチェ、魯迅、ドストエフスキイに比肩する大作家、思想家は見当たらないのかもしれない。しかし、我々には、「現代日本の開化」や「私の個人主義」という講演をその晩年にのこした夏目漱石がいる。松本健一が分析したような文学史的推論などに別に恐れいる必要もない。必要はないのだが、そういうレトリックが有効だと思われるくらいに、ドストエフスキーが日本で読みつがれてきた事実は隠しようがない。島崎藤村の『破戒』も、石川啄木の社会意識も、大逆事件も、その文脈から読めることを確認することは意味がありそうだ。「逆縁」という言葉の使い方が少し気になるけれど。
2013.3.11
きょうは、石川啄木の詩を読むことにする。
◇はてしなき議論の後 石川啄木 1911.6.15.TOKYO◇
われらの且つ読み、且つ議論を闘はすこと、
しかしてわれらの眼の輝けること、
五十年前の露西亜の青年に劣らず。
われらは何を為なすべきかを議論す。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NAROD!’と叫び出づるものなし。
われらはわれらの求むるものの何なるかを知る、
また、民衆の求むるものの何なるかを知る、
しかして、我等の何を為すべきかを知る。
実に五十年前の露西亜の青年よりも多く知れり。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NAROD!’と叫び出づるものなし。
此処にあつまれるものは皆青年なり、
常に世に新らしきものを作り出だす青年なり。
われらは老人の早く死に、しかしてわれらの遂に勝つべきを知る。
見よ、われらの眼の輝けるを、またその議論の激しきを。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NAROD!’と叫び出づるものなし。
ああ、蝋燭はすでに三度も取り代へられ、
飲料の茶碗には小さき羽虫の死骸浮び、
若き婦人の熱心に変りはなけれど、
その眼には、はてしなき議論の後の疲れあり。
されど、なほ、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NAROD!’と叫び出づるものなし。
‘V NAROD!’とは、「人民の中へ」というスローガンである。1870年代のロシアで学生集団などによって叫ばれていた。日本の政治家は、握り拳でテーブルを叩いて立ち上がり、被災地へ、そして被災者や避難者のいるところへ駆けつけよ、と東北出身のわれらが詩人は叫んでいる。
2013.3.12
読書を続けよう。
《そのころ、ぼくはやっとまだ二十四歳だった。だがぼくの生活は、もうそのころから、陰気くさい、しまりのないもので、人間ぎらいといえるほど孤独だった。ぼくはだれともつきあわず、話をすることも避けてまわり、ひたすら自分だけの片隅に閉じこもっていった。勤務先の役所では、だれの顔も見ないようにさえしていた。そのくせぼくは、同僚たちがぼくを変人扱いしているだけでなく、──もう一つ、いつも感じていたことだが、──ぼくのことを露骨な嫌悪の目で見ているらしいことに、はっきりと気がついていた。ぼくはよく考えたものだ。なぜぼく以外の人間は、自分が嫌悪の目で見られているという感じを持たずにいられるのだろう? と。》(ドストエフスキー『地下室の手記』江川卓訳「Ⅱ ぼた雪にちなんで」の1より)
この主人公の独白を読んで、じぶんに似ているとか、誰かに似ていると思う人は多いのではないか。人はバラエティーに富んでいるが、本質はどこか同じような部分を共有しているものだ。ここでぼくらが分有しているのは「内気」という性向であるかも知れない。ひきこもりの人や、精神の病んでいる人だけが特別なのではない。人はやっぱり人からどう見られているかが気になるし、じぶんに自信がもてない時期がなんども訪れる。そして、みなが共通に抱く感懐として、そういう自意識が働いているのはじぶん一人なのではないかという独我論である。これは非常におかしな現象である。じぶんは一人だとみんなが思っているというのは一つの大きな矛盾だからだ。
《当時のぼくは、もう一つ、別のことにも苦しめられていた。ほかでもない、だれ一人ぼくに似ている者がなく、一方、ぼく自身もだれにも似ていない、ということである。〈ぼくは一人きりだが、やつらは束になってきやがる〉ぼくはこう考えて、すっかり考えこんでしまったものだ。》(同「Ⅱ ぼた雪にちなんで」の1より)
「だれ一人ぼくに似ている者はない」と思う点がみんな似ているわけだ。主人公と読者は執拗な自意識でつながっている。それでも、『手記』の主人公は、少し異常なのではないかと感じる部分がある。そして、そこがこの『手記』を読み進めていく動機をぼくらに与えてくれるカギだ。
2013.3.13
学校時代の友人シーモノフの家を訪ねた主人公は、成り行きで、同窓生ズヴェルコフの送別会に参加したいと申し出る。しかし、家路につく時、彼は心の中で次のように思う。
《〈ちょっ、なんでまた出しゃばる気になんかなったんだ!〉通りを歩きながら、ぼくはぎりぎりと歯がみをした。〈しかもズヴェルコフみたいな、あんな豚野郎のために! もちろん、出かけていく必要なんかない。唾をひっかけておさらばだ。義理も何もあるわけじゃなし。あすにもシーモノフに市内郵便で通知してやろう……〉/しかし、ぼくが腹をたてたのは、ほかでもない、自分が出かけていくにちがいないことを確実に知っていたからだった。いや、わざとでも行くにちがいなかった。出かけていくことが突拍子もない、不作法なことであればあるほど、かえってぼくは出かけていくはずだった。/しかもそのうえ、ぼくが出かけていけないのには、積極的な理由があった。つまり、金がなかったのである。ぼくの手もとには、全部で九ルーブルしかなかった。しかも、そのうち七ルーブルは、あすにも下男のアポロンに給料として渡す分だった。彼は食事は自分持ち、月七ルーブルで住みこんでいたのである。/アポロンの気性から推して、これを渡さないわけにはいかなかった。しかし、ぼくにくらいついたダニのようなこの悪党については、追ってまた話すことにしよう。/とはいえ、ぼくは、自分がけっしてこの金を渡したりせず、かならず出かけていくにちがいないことを知っていた。》(ドストエフスキー『地下室の手記』江川卓訳「Ⅱ ぼた雪にちなんで」の3より)
いったいこの男はなんなの? と突っ込みどころ満載なのであるが、妙に説得力のある心理描写だ。実際の場面での振る舞いと、心で思っていることが真逆であったり、人により場所により言動がくるくる変わったり、実にやっかいな生き物が人間である。それを、ここまでリアルに描写している文章にはなかなか出くわせない。送別会には一人が七ルーブルずつ出し合うことになっているのだ。そんな話にそもそも乗れるような立場いないことを本人がいちばん分かっていて、ぼくも参加させてくれないかと自分から言い出すのだから尋常ではない。おまけにシーモノフに十五ルーブルの借りが残っているという。シーモノフにしてみたら全くうざったい人間なのだろう。ぼくらの通常の観念なら、九ルーブルのうち、給料七ルーブルを払わなくてはならないとなれば、のこり二ルーブル、それでは送別会のお金は出せないから、せめて餞別の品でも買って、友人によろしくと託しておしまいだろう。しかし、この男は、じぶんの見栄を優先し、先ず参加することにして、お金がなければ誰かにまた借りられればよいと思っているのか、それとも払う気はさらさらないのか。だいたい送り出す友人とは仲が悪くなっている状態であり、あろうことか「あんな豚野郎」とまで思っている。心の中身を知っている読者にしてみたら、何を考えているんだ! となる。しかし、ぼくらはまるでじぶんの心を見透かされた時のような驚きをここで感じてしまうのだ。じぶんが考えてもみなかった行動に出てしまう経験はだれにでもある。理性のコントロールがきかない局面を知っている。弱いのに立ち向かってみたり、できないのにできる振りをしたり、知らないのに知っていると言ってしまう、というような変な虚栄心が、ぼくらのなかで働いている。それが特殊なのではなく一般なのだ。
2013.3.14
ドストエフスキーの『地下室の手記』を読んできて、特殊と一般についての考察がしてみたくなった。われわれ読者にとって、主人公はあまりにも卑屈で、あまりに屈折したものの見方をしている特殊な人間のように映っている。そして、それが物珍しい生き物を観察しているような気分にさせて、読んでいて面白いわけだが、読み進んでいくうちに、待てよこれはひょっとすると俺のことを言っているんじゃないか、となる瞬間がある。作者であるドストエフスキー自身が言っているように、《時代に特徴的であったタイプの一つを、ふつうようりは判然とした形で》表現しているのだから、それは一般に存在すると誰もが思えるような人物でもあるのだが。そうなってくると、読者が最初に感じた特殊という評価が逆転し、むしろ読み手であるじぶんの方が特殊なのであって、主人公の言動や思考の方がはるかに一般的なのではないか、という疑念が生じることになる。そして、そう感じたら最後、いよいよ読者は気が気でなくなってくる。
《あの〈卑劣漢〉のズヴェルコフめ、さも人を見くだしたような、冷やかな態度でぼくを迎えるにちがいない。薄のろのトルドリューボフは、いかにも間の抜けた、軽蔑そのものの目でぼくを見るだろう。俗物のフェルフィチキンは、ズヴェルコフのご機嫌をとりむすぼうと、ぼくをネタにおよそ下品な、厚かましい追従笑いをしやがるだろう。そしてシーモノフは、こういうことをすっかり心得ながら、ぼくの自尊心のくだらなさと気の小ささを軽蔑することだろう。》(ドストエフスキー『地下室の手記』江川卓訳「Ⅱ ぼた雪にちなんで」の3より)
これから送別会で会う旧友たちをここまで馬鹿にできる卑屈さが、ぼくらにはあるだろうか? ダメだしできるような立場にないことは重々承知で、おまけに、そのことに本人は極めて自覚的なのだ。おそるべき自意識。ああ自意識。
《そして、何よりやりきれないのは、こうしたいっさいがじつにみじめたらしくて、非文学的で、月並みなことだ。もちろん、いちばんいいのは、出かけていかないことにきまっている。しかし、それがまた何より不可能なことだった。》(同3より)
今夜も、どこかの歓送迎会で、いかなきゃいいのにでかけていく人々が、心の中でつべこべ言いながら、愛想笑いをしたり、苦笑したり、相槌に疲れたりしていることであろう。
2013.3.15
松本健一『ドストエフスキイと日本人』上・下(第三文明社)の第三章「社会と個人の接点──大正期」のなかで、ドストエフスキーが近代の詩人にも影響を与えたことが記述されている。
《ところで、犀星にドストエフスキイのことを吹きこんだのは萩原朔太郎である。その萩原によれば、犀星も白樺派の一派と同じように、「ドストエフスキイをトルストイの石段に祭って居た」ことになるらしい。もっともこの批判はかなりの程度あたっているところがある。ただ犀星が有産有識的な白樺派と異なるのは、かれがその本来的な資質に、虐げられた庶民感情をもっていた点だろう。/たとえば、散文詩集『愛の詩集』第一(大正七年)、第二(八年)には、ドストエフスキイへの共感が至るところに滲みでている。ところがその共感のありようは、これまでの共鳴者のそれとちがい、ソーニャに対するものなのである。たとえていえば前記の詩集中で、永遠の女性の愛を求めて謳われた詩は、ソーニャに捧げられていたといえる。》(183頁より)
《さて、朔太郎は犀星とともに、山村暮鳥にもドストエフスキイを吹きこんだ。暮鳥の「或る淫売婦におくる詩」などには、ソーニャの姿が彷彿としている。》(185頁より)
《朔太郎の資質は透谷に似て、一種のヒポコンデリア漢であった。熱にうかされたかれは、弧絶のはてに世界の終末を覗きみるという視座をとった。そのかれにとって、ドストエフスキイとトルストイとは、「一を好むものは他を好まず、他を愛する者は一を取らずというほど、本質的にはっきりした宇宙の両極」であった。/ドストエフスキイとトルストイではなく、ドストエフスキイかトルストイか、という二律背反的視点を意識的に提出したのは、おそらくこの朔太郎をもって嚆矢とする。そしてかれは、ドストエフスキイをこそ選びとった。その意味で犀星とかれはまさに対極を形づくっていた。「『月に吠える』には僕の見たド氏の生理的内臓図が描かれてあり、『愛の詩集』には室生君の見たド氏の人道的な肖像が描かれて居た」とは、その対極を知るかれ自身の言葉であった。》(188頁より)
まったく驚いた。ドストエフスキーを媒介して、萩原朔太郎と室生犀星の詩人としての立場を分析できるとは! 朔太郎自身がそれについて鋭い解説を加えていることにもハッとさせられる。流石の朔太郎である。
2013.3.16
萩原朔太郎が、昭和10年11月に発表した「初めてドストイェフスキイを讀んだ頃」という文章から引用する。
《初めてドストイェフスキイを讀んだのは、何でも僕が二十七、八歳位の時であつた。それ以前によんだ西洋の文學は、主にポオとニイチェとであつた。その他にもトルストイなど少し讀んだが、僕にはどうもぴつたりしないので、記憶に殘るといふほどでもなく、空讀にして通つてしまつた。後々迄も影響し、僕の文學的體質を構成するほど、眞に身に沁みて讀んだ本は、ポオとニイチェと、それからドストイェフスキイの三つであつた。僕はポオから「詩」を學び、ニイチェから「哲學」を學び、ドストイェフスキイから「心理學」を學んだ。》
朔太郎らしくカッコイイ書き出しだ。年齢もちょうどいい。朔太郎は27歳で読んだ。25歳よりも早くドストエフスキーに触れるのは、少し早すぎるとぼくは考える。ぼく自身は21歳だったが、やはり圧倒的に経験不足だった。もちろん、そんな年齢制限が文学に必要ないことは分かっている。しかし、あえて、ドストエフスキー体験は25歳以上とする、とどこかに貼り出してみたくなる。それまでにゲーテ、トルストイ、ロマン・ロランなどを読んでおかねばならないと思うからだ。先にドストエフスキーを読んじゃうと、きっとトルストイにはいかない。
《僕がドストイェフスキイを讀んだ頃は、丁度「白樺」の一派が活躍して、人道主義が一世を風靡した時代であつた。その白樺派の人たちは、トルストイとドストイェフスキイとを竝立させて、文學の二大神樣のやうに崇拜して居た。僕がド氏の名を初めて知り、その作品を讀む機縁になつたのも、實は白樺派の人に教はつた爲であつた。しかしそれを讀んだ後に、僕は白樺派の文學論を輕蔑した。なぜならド氏の小説とトルストイとは、氣質的に全く對蹠する別物であり、一を好む者は他を好まず、他を愛する者は一を取らずといふほど、本質的にはつきりした宇宙の兩極であつたからだ。單に人道主義といふ如き感傷觀で、二者を無差別に崇拜する白樺派のヒロイズムは、僕にとつてあまり子供らしく淺薄に思はれた。》
この批評眼。松本健一氏が言うように的を射ている。そして、興味深いのは、トルストイを先に知っていた萩原朔太郎であったが、彼の場合、ドストエフスキーの方により惹かれるものがあったということだ。それにはニーチェが関係しているかもしれない。面白いので、明日も引用を続けよう。
2013.3.17
萩原朔太郎は「初めてドストイェフスキイを讀んだ頃」に書いている。
《僕が初めて讀んだド氏の小説は、例の「カラマゾフの兄弟」であつた。勿論飜譯であつたが、僕はすつかりこれに打たれてしまつた。あの厖大な小説を、二晝夜もかかつて一氣に讀み了り、夢から醒めたやうにぼんやりした。當時僕がどんなに深く感動したかは、その時讀んだ本の各頁に、鉛筆で無數の書き入れや朱線がしてあるので、今もその古い本を見る毎に、新しい追憶の感銘が興るほどだ。イワンもドミトリイも、すべての人物が面白かつたが、特にあの氣味の惡い白痴の下男と、長老ゾシマの神祕的な宗教觀が面白かつた。》
1914年(大正3年)6月に、萩原朔太郎は、室生犀星、山村暮鳥と三人で詩と宗教と音楽の研究を目的とする人魚詩社を結成しているが、おそらくその頃に、朔太郎はドストエフスキーに惚れこんで、犀星と暮鳥にもその意義を語って聞かせたのだと思われる。彼の『月に吠える』の諸作が書かれるのはその年の12月であるから、ドストエフスキー体験が彼の詩作に少なからず影響を与えていることは確かであろう。
《次に讀んだ本は「罪と罰」であつた。これにはまたカラマゾフ以上に感激させられた。主人公ラスコリニコフの心理と言行とが、小説の最初から大尾まで、魔法のやうに僕の心を引き捉へて居た。當時僕はニイチェを讀んで居たので、あの主人公の大學生が、ナポレオン的超人にならうとイデアした思想の哲學的心境がよく解り、一層意味深く讀み味へた。その讀後の深い印象から、僕はラスコリニコフを以て自ら氣取り、滑稽にもその小説的風貌を眞似たりした。夜は夜で、夢の中に老婆殺しの恐ろしい幻影を見た。》
感受性の豊かさが尋常ではない朔太郎の特徴がよく出ている箇所だ。ラスコーリニコフになった朔太郎が想像できてしまう。
《この時以來、僕は完全なドストイェフスキイ・マニアにかかつた。それから彼の文庫を渉獵して、日本語の飜譯がある限り、一つ殘さず讀み耽つた。しかし多くの物の中で、就中最も感銘が深かつたのは、彼のシベリア流刑記を自傳した「死人の家」であつた。これと前記の二作とは、おそらくド氏の三部代表作であるだらう。ただ「惡靈」だけは、どういふものか興味がないので途中で止めた。「白痴」を讀んだ時は、主人公の精神病的な異常氣質が、たまたま僕とよく酷似してゐる點があるので怖くなつた。僕がそれほど強くドストイェフスキイに魅力された原因も、おそらく作者との氣質的、血液類似型的の生理關係にあるのか知れない。もつとも僕の讀書の仕方は、すべて皆生理的である。ポオも、ニイチェも、ショーペンハウエルも、僕はすべて我流の仕方で、神經生理學的に讀むのであり、さうでない限り、僕に讀書の興味はないのであるが、ドストイェフスキイの場合は、僕との氣質的類似の機縁で、特にそれがはつきりして居た。》
ここまで深く共鳴していたとは、恐れいりやの鬼子母神である。つづく
2013.3.18
萩原朔太郎「初めてドストイェフスキイを讀んだ頃」の引用を続ける。
《當時僕は詩を作り、初めて文壇的に出發したので、二三の友人と共に同人雜誌を發行して居た。それは「感情」といふ名前の雜誌で、同人には室生犀星、山村暮鳥等の詩人が居た。前にも書いた通り、この時代は白樺派の活躍した全盛時代だつたので、自然その影響を受けたらしく、山村君や室生君等やの詩にも、多少人道主義的傾向が現れ、トルストイズムの臭氣が濃厚だつた。然るに僕はトルストイが嫌ひであり、且つ白樺派のジャーナリズムに輕侮の反感を抱いて居たので、此等の友人等に向つて、僕は大いにドストイェフスキイの惡靈的神祕文學を推薦した。僕の推薦した意味は、人道主義などといふ淺薄のものを捨てて、ドストイェフスキイから深刻な文學を學べといふ意味だつた。》
これが萩原朔太郎のシャープな知性である。トルストイが嫌いだとは、見上げたものである。
《トルストイの愛讀者であつた山村君や室生君は、直ちに僕の言をいれてドストイェフスキイを讀み始め、後には全く僕以上の熱愛讀者になつてしまつた。しかし本來僕と人間的氣質を異にし、且つ生理的にも健康性を多分に持つてる二人の詩人が、僕と同じ仕方でドストイェフスキイを讀む筈が無かつた。僕の讀み方によるドストイェフスキイは、心理上でポオと共通し、思想上でニイチェ、ショーペンハウエルと類縁するところの作家であつたが、友人たちの見たドストイェフスキイは、やはり白樺派の人と同じく、人道主義的に見たそれであつた。》
同じものを読んでも、その人の思想遍歴、読書経験、知識量などにより、評価の仕方が180度違ってしまうこともあるということの好例である。
《そこで僕は、自然に思想上で彼等と別れ、雜誌の發行にも興味を失つてしまつたのであつた。丁度その時、僕は處女詩集「月に吠える」を出し、室生犀星君もまた第一詩集「愛の詩集」を發行した。前者の詩篇には、僕の見たド氏の生理的内臟圖が描かれてあり、後者の詩集には、室生君の見たド氏の人道的な肖像が描かれて居た。》
ぼくは朔太郎のようにドストエフスキーを読んできたように思う。つまり、無神論的に、悪徳的に、虚無的に、人間の深層心理をえぐりだす作品として。しかし、ぼくはトルストイが嫌いではない。その人道主義を尊敬している。大正102年の現在のぼくらと、大正
3年の萩原朔太郎たちのような近代詩人とでは、人道の意味や解釈も大きく違ってきているのかも知れない。なにせ、大きな戦争が二度挟まれているのだから。ドストエフスキーの予言的な文学も、トルストイのような救済への強い希求も、ぼくらにはどうしても必要なのである。大正3年といえば、トルストイの『復活』が、松井須磨子がカチューシャ役で芸術座の舞台になって上演され、「カチューシャかわいやわかれのつらさ」という歌がレコードになり、また日活向島の映画作品も作られている。100年たった今、ぼくは『復活』が復活してくる気がしている。トルストイ原作の映画『アンナ・カレーニナ』がまもなく公開される。これは偶然ではない。いいぞいいぞトルストイ!
2013.3.19
萩原朔太郎は云う。
《僕が出發した當時の文壇は、ドストイェフスキイの名が最も高く呼ばれて居り、一つの文壇的流行でさへあつたにかかはらず、事實全く理解されてなかつたのである。單にドストイェフスキイばかりでなく、白樺派の偶像としてあれほど流行したトルストイさへ、少しも本質的には理解されて居なかつた。世界の文豪である大トルストイが、救世軍的人道主義者として擔がれたり、通俗モラルのセンチメンタリストとして、女學生の涙劇的ヒロイズムの對象であつたりしたことを考へると、今から考へて全く馬鹿馬鹿しく滑稽である。ゲーテも、ハイネも、ニイチェも、日本では早くから名が叫ばれて流行し、その文學的概論さへ解らない中に、既に「流行おくれ」となつてバタ屋の紙屑箱に賣られて行つた。》(「初めてドストイェフスキイを讀んだ頃」より)
萩原朔太郎の鋭利な知性は、同時代のロシア文学の受容者たちとは違って、一段深い解釈が可能なほどに的確だった。それは一体なぜなのか。それについては朔太郎の詩人としての仕事を丹念に追っていく過程でみえてくるのかも知れない。
《昭和三年頃の或る雜誌に、近頃トルストイやドストイェフスキイを言ふのは時代遲れだと書いた人がある。大正九年頃の或る雜誌に、今頃ニイチェを論ずるのは流行遲れで古臭いが云々と書いてあつた。しかも昭和十年頃の最近になつて、それらのもつと古臭いゲーテやハイネが、漸く少しばかり本體を知られて來たのである。要するに日本の文壇は、過去に於て女學生と中學生との文壇だつた。最近漸く大學豫科の一年生位に入門して來た。そこで初めてドストイェフスキイが、眞の文學的本質によつて理解される機縁が來た。日本の再建される文壇は、再度もはや過去のやうに、流行のハシリを追ふ稚態を止め、正しい認識によつて外國の古典文學を讀むべきである。》
何度読んでも目の醒めるような箴言だ。結局、全文を引用してしまった。明日は、朔太郎の詩を読んでみたい。
2013.3.20
◇雲雀の巣 萩原朔太郎◇
おれはよにも悲しい心を抱いて故郷の河原を歩いた。
河原には、よめな、つくしのたぐひ、せり、なづな、すみれの根もぼうぼうと生えてゐた。
その低い砂山の蔭には利根川がながれてゐる。ぬすびとのやうに暗くやるせなく流れてゐる、
おれはぢつと河原にうづくまつてゐた。
おれの眼のまへには河原よもぎの草むらがある。
ひとつかみほどの草むらである。蓬はやつれた女の髪の毛のやうに、へらへらと風にうごいてゐた。
おれはあるいやなことをかんがへこんでゐる。それは恐ろしく不吉なかんがへだ。
そのうへ、きちがひじみた太陽がむしあつく帽子の上から照りつけるので、おれはぐつたり汗ばんでゐる。
あへぎ苦しむひとが水をもとめるやうに、おれはぐいと手をのばした。
おれのたましひをつかむやうにしてなにものかをつかんだ。
干からびた髪の毛のやうなものをつかんだ。
河原よもぎの中にかくされた雲雀の巣。
ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよと空では雲雀の親が鳴いてゐる。
おれはかわいさうな雲雀の巣をながめた。
巣はおれの大きな掌の上で、やさしくも毬のやうにふくらんだ。
いとけなく育くまれるものの愛に媚びる感覚が、あきらかにおれの心にかんじられた。
おれはへんてこに寂しくそして苦しくなつた。
おれはまた親鳥のやうに頸をのばして巣の中をのぞいた。
巣の中は夕暮どきの光線のやうに、うすぼんやりとしてくらかつた。
かぼそい植物の繊毛に触れるやうな、たとへやうもなくDELICATEの哀傷が、影のやうに神経の末梢をかすめて行つた。
巣の中のかすかな光線にてらされて、ねずみいろの雲雀の卵が四つほどさびしげに光つてゐた。
わたしは指をのばして卵のひとつをつまみあげた。
生あつたかい生物の呼吸が親指の腹をくすぐつた。
死にかかつた犬をみるときのやうな歯がゆい感覚が、おれの心の底にわきあがつた。
かういふときの人間の感覚の生ぬるい不快さから惨虐な罪が生れる。罪をおそれる心は罪を生む心のさきがけである。
おれは指と指とにはさんだ卵をそつと日光にすかしてみた。
うす赤いぼんやりしたものが血のかたまりのやうに透いてみえた。
つめたい汁のやうなものが感じられた、
そのとき指と指とのあひだに生ぐさい液体がじくじくと流れてゐるのをかんじた。
卵がやぶれた、
野蛮な人間の指が、むざんにも繊細なものを押しつぶしたのだ。
鼠いろの薄い卵の殻にはKといふ字が、赤くほんのりと書かれてゐた。
いたいけな小鳥の芽生、小鳥の親。
その可愛らしいくちばしから造つた巣、一所けんめいでやつた小動物の仕事、愛すべき本能のあらはれ。
いろいろな善良な、しほらしい考が私の心の底にはげしくこみあげた。
おれは卵をやぶつた。
愛と悦びとを殺して悲しみと呪ひとにみちた仕事をした。
くらい不愉快なおこなひをした。
おれは陰鬱な顔をして地面をながめつめた。
地面には小石や、硝子かけや、草の根などがいちめんにかがやいてゐた。
ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよと空では雲雀の親が鳴いてゐる。
なまぐさい春のにほひがする。
おれはまたあのいやのことをかんがへこんだ。
人間が人間の皮膚のにほひを嫌ふといふこと。
人間が人間の生殖器を醜悪にかんずること。
あるとき人間が馬のやうに見えること。
人間が人間の愛にうらぎりすること。
人間が人間をきらふこと。
ああ、厭人病者。
ある有名なロシヤ人の小説、非常に重たい小説をよむと厭人病者の話が出て居た。
それは立派な小説だ、けれども恐ろしい小説だ。
心が愛するものを肉体で愛することの出来ないといふのは、なんたる邪悪の思想であらう。なんたる醜悪の病気であらう。
おれは生れていつぺんでも娘たちに接吻したことはない、
ただ愛する小鳥たちの肩に手をかけて、せめては兄らしい言葉を言つたことすらもない。
ああ、愛する、愛する、愛する小鳥たち。
おれは人間を愛する。けれどもおれは人間を恐れる。
おれはときどき、すべての人々から脱れて孤独になる。そしておれの心は、すべての人々を愛することによつて涙ぐましくなる。
おれはいつでも、人気のない寂しい海岸を歩きながら、遠い都の雑閙を思ふのがすきだ。
遠い都の灯ともし頃に、ひとりで故郷の公園地をあるくのがすきだ。
ああ、きのふもきのふとて、おれは悲しい夢をみつづけた。
おれはくさつた人間の血のにほひをかいだ。
おれはくるしくなる。
おれはさびしくなる。
心で愛するものを、なにゆゑに肉体で愛することができないのか。
おれは懺悔する。
懺悔する。
おれはいつでも、くるしくなると懺悔する。
利根川の河原の砂の上に坐つて懺悔をする。
ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよと、空では雲雀の親たちが鳴いてゐる。
河原蓬の根がぼうぼうとひろがつてゐる。
利根川はぬすびとのやうにこつそりと流れてゐる。
あちらにも、こちらにも、うれはしげな農人の顔がみえる。
それらの顔はくらくして地面をばかりみる。
地面には春が疱瘡のやうにむつくりと吹き出して居る。
おれはいぢらしくも雲雀の卵を拾ひあげた。
2013.3.21
きのう掲載した萩原朔太郎の作品「雲雀の巣」という詩は、第一詩集『月に吠える』に収録されている。その中の《ああ、厭人病者。/ある有名なロシヤ人の小説、非常に重たい小説をよむと厭人病者の話が出て居た。/それは立派な小説だ、けれども恐ろしい小説だ。》と出てくる小説とは、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』である。厭世とは、世を厭うことで、生きているのがいやになっている状態のことで、厭人は、人を厭わしく思うこと、つまり人間嫌いということである。人間嫌いの病者といえば、ぼくらがいま読んでいる『地下室の手記』の主人公をすぐに思い浮かべることができる。ドストエフスキーの小説には、この厭人病者が様々な場面で登場し、その独特の思想を披歴する。その原型が、『地下室の手記』の主人公なのかもしれない。人間嫌いにもいろいろな段階があるだろう。ただ単に内気な少年が見せる内向的な態度もその一つであろう。シャイな人は、他人とうまくコミュニケーションが取れず、そのことを人に知られたくないばかりに、あまり人と会おうとしない。こちらから見ればそれも人間嫌いの一種に見えてしまう。対人恐怖症の人や被害妄想の人もいる。そして、被害者意識から加害者への憎悪や怒りを抱え込んでいる人もいる。そういう人間が見ている世界が、小説のなかでは、ドタバタを演じ、饒舌を生み出していく登場人物によって語られる。それがドストエフスキー作品の大きな魅力にさえなっているのだ。朔太郎の人間嫌いは、次のように表現されている。《なまぐさい春のにほひがする。/おれはまたあのいやのことをかんがへこんだ。/人間が人間の皮膚のにほひを嫌ふといふこと。/人間が人間の生殖器を醜悪にかんずること。/あるとき人間が馬のやうに見えること。/人間が人間の愛にうらぎりすること。/人間が人間をきらふこと。》と。朔太郎はドストエフスキーを耽読しながら、そのなかの登場人物に自分と重なる人間像を見い出したのであろう。
2013.3.22
今年に入ってからのぼくの論考は、振り返ると「詩人と小説家」がサブテーマになっているような気がする。堀辰雄について書いていた時も、小説を書く詩人としての堀辰雄が浮き彫りになってきたし、ドストエフスキーについて書いていたら萩原朔太郎が出てきてしまったし、まるで詩人が小説家を呼び寄せ、小説家が詩人を呼び寄せるかのようである。松本健一さんの『ドストエフスキイと日本人』には、次のようなエピソードも紹介されている。
《朔太郎は次第にそういう芥川の表裏を知ることになる。そのときかれは、はじめは詩の「鑑賞家」とよんでいた芥川を、「詩に溺れている詩人」とよびかえる。「詩に溺れている詩人」とは、みずからの荒れ狂う詩想に翻弄されて詩をなしえぬ詩人の謂であろうか。/芥川は小説を書きながらも詩に憧れつづけた。あるとき、朔太郎の『郷土望景詩』を読んだ芥川が、寝まきを着たままで、どたどたと朔太郎の寝ているところへ駆けつけて、その詩についての感激を語ったという。朔太郎はこのエピソードを語りながら、「芥川龍之介──彼は詩を熱情してゐる小説家である」と断言している。このエピソードは、『貧しき人々』を読んだネクラソフが感激のあまり、真夜中にドストエフスキイを敲き起こして徹夜で語りかけた、という有名な話を連想させるはずである。》(『ドストエフスキイと日本人(上)』193頁より)
芥川龍之介という小説家が萩原朔太郎という詩人の家を夜中に訪ねて興奮しながら喋っている。これは絵になるわい。同様に、ネクラーソフという詩人がドストエフスキーという小説家の家に真夜中に訪れて感動している。映画が一本撮れるわい。そう云えば、『地下室の手記』の第二部の「ぼた雪にちなんで」という章は、ネクラーソフの詩の引用からはじまっている。
迷いの闇のふかい底から
火と燃える信念の言葉で
おちぶれた魂を引きあげたとき、
おまえは 深い苦悩にみたされ
両の手をもみしだいて
おまえをとらえた悪を呪った。
もの忘れがちな良心を
思い出のかずかずで責めながら
わたしを知るまでのすべてを
おまえはものがたってくれた。
そして ふいに両の手で顔をおおい
羞恥と恐怖におののきながら
おまえは 心ゆく涙にくれた、
怒りと 心のたかぶりを
どう抑えようもなくて……云々
2013.3.23
◆河馬夢 2013.3.23◆
ぼくはなにかしらの研究に携わっている。
どこかの博士の助手をしている。
茶色い河を見つめている。
助手のひとりであるミナミくんが丘の上から「気を付けて! もうなん十匹も泳いできてるから」と叫ぶ。
よくみると河底に黒いかげがいくつも見える。
河馬の群れだ。
錦鯉のように近付いてくる。
突然河馬に襲われる。
大きな口で全身を噛まれそうになる。
滑り台のようになっている斜面を必死にのぼる。
振り向くと河馬がおしりを向けている。
大きな肛門がみえる。
河馬はオナラをふきかけてくる。
毒ガスのような黄色い煙がたちのぼってくる。
臭いをかいだら命取りだと思う。
さいわいにもマスクをしている。
今度はオシッコを飛ばしてくる。
頭からオシッコをかぶる。
博士の声が聞こえてくる。
「そのうち馴れるさ」
オシッコを浴びながら(こんな仕事に馴れるのはごめんだ)と思っている。
目が覚める。
この夢にどんな意味があるのだろうと考えてみる。
考えてみたが結局よくわからない。
それにしてもぼくを嘲笑うあの河馬の河馬面は実に憎たらしい。
2013.3.24
夢の力やその意味について考えてみたい。
哲学者ニーチェの最初の論文『音楽の精神からの悲劇の誕生』は次のような書き出しで始まる。
《芸術は、アポロ的なものとディオニュソス的なものとの二重性によって進展して行く。ちょうど生殖が、たえず争いつづけ、わずかに周期的に仲直りする男女両性の対立によって子どもをふやして行くのと、様子がよく似ている。》
この論文の主題は、古代ギリシアの「アッチカ悲劇」がどのような起源から生まれたのかを重層的に解明することであったが、ニーチェはギリシア神話の神々のうち、アポロとディオニュソスを象徴として利用しながら、これまで誰も言及したことのない革新的な議論をこの論文で展開する。アポロは絵画や彫刻のような造形芸術を象徴し、ディオニュソスは音楽という非造形的芸術を象徴している。ニーチェはまたそれらを夢と陶酔に譬えるのだ。
《人間は、夢の世界を創り出すことにかけては誰でも完全な芸術家である。この夢の世界の美しい仮象は、あらゆる造形芸術の前提である。いや、そればかりか、後に述べることになるが、詩文芸の重要な一半の前提をなすものである。》
このようにアポロ的なものは夢の世界を足場にしているとニーチェは考える。ぼくも詩を書くのでそれについては肯ける。夢のなかで観た世界や会話を記録することができれば、それはそのまま詩になるし絵になるからだ。その一方で、
《ディオニュソス的なものの魔力のもとでは、人間と人間とのあいだの結びつきがふたたび回復されるばかりではない。人間からへだてられてきた自然も、敵視され、あるいは押えつけられてきた自然も、あらためて、その家出息子である人間と和解の祭典を祝うことになる。大地はみずからすすんでその贈り物をささげ、岩山や荒野の猛獣はこころなごやかに近寄ってくる。ディオニュソスの車は草花や花輪で埋められ、その軛をひいて豹や虎が歩む。ベートーヴェンの『歓喜』の頌歌を一幅の画に変えてみるがよい。幾百万のひとびとがわななきにみちて塵にひれ伏すとき、ひるむことなくおのれの想像力を翔けさせてみよ。そうすれば、ディオニュソス的なものの正体に接近することができるだろう。》
と述べて、陶酔のなかで産み出される音楽という芸術を、ニーチェは象徴的に表現したのだ。
2013.3.25
仏教の唯識派などが語っているように、人間心理の奥深くに、第六の意識から第七の末那識へ、そして第八のアーラヤ識へと深層が広がっているとすれば、ニーチェは第七の末那識(思量識)を越え、さらにその深層へ至ろうとした思想家であると言える。夢の中で、人は理性の規制から解き放たれ、自由に想像の翼を広げる。また、陶酔は、さらにいっそう人を狂気に近付けるであろう。アポロ的なものが第七の末那識と第八のアーラヤ識との架け橋をしているとすれば、ディオニュソス的なものは第八のアーラヤ識にどっぷりつかっている状態だと言えるだろう。ニーチェの場合、そこに、ワーグナーの歌劇のような総合芸術が産み出される源泉が存在すると見えたのだ。一本の映画を例に取れば、映像は夢の作用のように働く。現実には有り得ないような場面が次々に現れるのは夢の中と同じだ。そして、そこにひとつの美しい音楽が流れ、観客を陶酔させることに成功すれば、作品は高く評価されることになるであろう。まさに「芸術は、アポロ的なものとディオニュソス的なものとの二重性によって進展して行く」のである。しかし、ここで再度注意しておかなければならないことは、第八のアーラヤ識にどのような力が眠っているにせよ、それを理性のコントロール下に置かなければ、とても危険だという点である。それはアーノルド・トインビーが「潜在意識は、あのギリシア神話の海神プロテウスに似ています。それは常に支配から逃れようとしており、いったん支配下におかれるとそのことを怒ります」と指摘していた通り、人間が手なずけるのは至難の業なのだ。ニーチェは晩年、「力への意志」という概念で、その世界に踏み入ろうと努力したが、とうとう発狂し、11年間余り精神の闇のなかで過ごしたまま1900年に亡くなってしまった。
2013.3.26
ニーチェは哲学者として、思量識をフル回転させながら、心理の深層への冒険に果敢に挑戦したのであるが、最後は精神が錯乱し、支離滅裂な言葉を遺して、アーラヤ識のトンネルから抜け出ることのないまま逝ってしまった。次の引用は、ニーチェが発狂寸前に、ワーグナー(リヒャルト・ヴァーグナー)の奥さんであるコージマに宛てた手紙の言葉である。
《私が人間であるということは、一つの偏見です。しかし私はすでにしばしば人間どものあいだで生きてきました。そして人間の体験することのできる最低のものから最高のものまですべてを知っています。私はインド人のあいだでは仏陀で、ギリシアではディオニュソスでした、──アレクサンダーとシーザーは私の化身で、同じものでは詩人のシェークスピア、ベーコン卿。最後にはなお私はヴォルテールであったし、ナポレオンであったのです。多分リヒャルト・ヴァーグナーでも……しかし今度は、勝利を収めたディオニュソスでやってきて、大地を祝いの日にするでしょう……時間は存分にはないでしょう……私のいることを天空は喜ぶことでしょう……私はまた十字架にかかってしまったのだ……》
これは何かの比喩だろうか。象徴だろうか。そうではない。文面の通りに受け止めていいと思う。じぶんが仏陀であったりイエスであったりナポレオンであったりする。精神が錯乱した人間のたわごとに過ぎないと思われるかもしれない。しかし、アーラヤ識の中で、それはむしろ当然のことなのだ。ぼくらはどうしても第六識や第七識で、言葉を解釈しようとしがちだ。第八識の次元ではもはや個が崩壊していく。そこには個人の経験や記憶を超えて、あらゆる人々の見たもの、聴いたこと、行ったことなどがすべて貯蔵されていくのである。ニーチェの手紙は、図らずも、そのことを雄弁に物語っている。
2013.3.27
もうすぐ4月だというのにやけに寒いので、再び着る毛布に身をくるんでパソコンの前に座っている。春休みに入ったので二人の娘は月曜日から従姉妹の家に泊まりにいっている。その代わり妹の家から姪をひとり、ぼくの家であずかっている。夫婦で姪のめんどうをみながら、過ごす数日で、気がついたことがあった。それは、大人は本来子どものわがままに寛容なのだということ。これは、ずいぶんと忘れていた気持ちである。ぼくら夫婦は、三人の子どもと暮らしているあいだに、いつの間にかわがままを許せなくなっていた。もちろん親は子を教育する義務があろう。それは一人前の大人になってもらうためである。いつまでもわがままを言って、周囲のことに配慮しないでいることは、将来子の自立を阻むことになると親は思っている。だから、三人のうちの一人が自分勝手な振舞いをして他の二人に迷惑をかけるようなことが起これば、注意し、叱り、諭し、教えるのだ。ところが、姪がひとりでぼくらの前にいて、彼女が気まぐれに行動するのを見ていると、とてもそれが子どもらしくて可愛い。そして、どんなわがままを言っても許せてしまうのだ。この感情。なんと表現したらいいのか。慈しみ。母性。父性。親心。子育てのプロセスで確実に感じていた寛容な精神なのだ。この子はぼくが守らなくてはならないのだという使命感。エスコートの心。そしてこの感情が以前はじぶんの子どもたちに対してもちゃんと働いていた筈なのだ。誤解をしないで頂きたい。じぶんの子どもが可愛くないのではない。やっぱり、どこの家の子どもより、じぶんの子どもが可愛い。そして守りたい。しかし、姪をみる目とは違う視線がじぶんの子を見る時には働いてしまうのだ。世間体? どうにか世間に通用する人間に成長し欲しいという願望が加味されるのか、「しっかりしなさい」とか「ちゃんとして」などの命令形の言葉がつい出てしまう。血のつながりの問題だろうか。親子の宿命か。ああしろ、こうしろ、あれはするな、これはするな、と口うるさい親にはなりたくないと思っていても、いつの間にか親になればそれをしてしまっている。子どもの頃、親に言われてなんら心に響かなかったセリフじゃないか、とじぶんでは分かっていても、だ。それは遺伝子の働きのように逆らえない。つまり、そうやって、親は自然と子どもたちに嫌われて、それが自立の引きがねにでもなって、子どもたちは親離れの段階に入っていくのかもしれない。そうだとすれば、よく出来たメカニズムだわい。繰り返しになるが、本来大人は子どものわがままに寛容な生き物なのだ。それができるくらい心に余裕があり、懐はでかいのだ。子どもは、そのなかでこそ安心して伸び伸びと成長していける。
2013.3.28
ぼくの読書は気まぐれだ。きょう姪がひまそうにしているから図書館に連れて行った。彼女が絵本を読んでいるあいだ、ロシア文学のコーナーでドストエフスキーの新訳でも見てみようと文庫の棚を覗いていたら「堀辰雄覚書」という文字が飛び込んできた。なんでロシア文学に紛れて堀辰雄が? そんなわけで遠藤周作の著書『堀辰雄覚書/サド伝』(講談社文芸文庫)を手にとった。ぼくのブログを今年の一月から見てくれている人ならぴんと来るであろう。宮崎駿監督の今夏の映画「風立ちぬ」というニュースから堀辰雄の『風立ちぬ』を読み始めて、堀文学の世界に入り込み、それがいつの間にかドストエフスキーやニーチェにまで話が枝分かれしてしまっているのが、ぼくの脳のなかで起こっている文学的混乱なのであるが、それがめぐりめぐって再び堀辰雄に戻されたという事態なのだ。でも、ほんとうに今読みたいのは『ひとはなぜ服を着るのか』(ちくま文庫)という鷲田清一さんの本の方なのである。モードについて、じっくり考えたことがなかったので、あまり服に興味がないぼくなのであるが、哲学者の話なら読めるだろうと思い、数日前から読んでいる。加えて、鷲田清一『たかが服、されど服 ヨウジヤマモト論』(集英社)も手にしている。こちらはカラー写真入りなので、ファッションに少しは興味が持てるようになるかもしれないと、平行して眺めている。仕事の合間に、家事の合間に、子守の合間に、数分ずつ頁をめくっては、思索。思索しては頁をひらく。ごった煮でできる料理がどんな味になるのか、じぶんでも分からない。分からないからおもしろいのかもしれない。鷲田さんの本は一通り読んでみて、また何か語れることがあれば、記事にしてみるつもりだ。遠藤周作は、堀辰雄を直接訪ねて交流のあった作家のひとりであるから、きちんと読んでおかなくてはならない。覚書は彼が24歳の時に書いた最初の本格的評論であるという。遠藤周作の出発に堀辰雄があったこと、そして彼が詩に大きな関心を抱いていたことを知り、少し驚いている。それも、いずれじっくり紹介したい内容だ。
2013.3.29
仕事が忙しい。年度末で、しかも週末。30日が土曜、31日が日曜、ということは土日が休みの人は、本日金曜日に全てを終わらせておかなくてはと、必死に残業している人も多いのではないか。そして新年度が月曜日からスタートする。子どもたちはまだ春休みだが、大人たちはフレッシュに仕事を始めることになる。考えてみたら、4月1日が月曜日というのは、きりがいい。カレンダーを見ると、6年後の2019年、11年後の2024年、17年後の2030年が、同じく4月1日が月曜日だそうだ。これにどんな法則があるか、どんな意味があるか、考えても出てこないだろうけれど、じぶんでこじつけて「エイプリルフールズマンデイ」という名称をつけて、特別な年度とすることを提唱してみたい。と言っても誰も反応しないかな。月曜から大きなウソをついてみんなをびっくりさせてみたいけれど、悪意があってはいけない。冗談で済む程度のものでないとそれこそ洒落にならないだろう。いちばんびっくりさせられた人に賞金をあげるというイベントがあってもいい。びっくりさせた人ではなく、びっくりさせられた人(エイプリルフール=四月のおばかさん)に「賞金」というところがミソなのだ。エイプリルフールがフランスでは「四月の魚」と呼ばれているらしいから、「四月の魚」というタイトルの詩でもつくってみようか。あすの土曜日、そして次の日曜日で、ウソの準備に余念なく。
2013.3.30
◆四月の魚 2013.3.30◆
ねえ そのサングラス似合わないから 外したらどお?
俺の目は生まれながらの色眼鏡 このサングラスを外したって 見えるものには色がついちまっているのさ
だったらその目玉 くりぬいちゃえば
目玉がなくったって 俺は俺の経験の上に乗っかって生きているんでね 世界の感じ方は変えられないさ
じゃあ記憶 ぜんぶ消しちゃえ
そんなことしても無駄だよ 俺をつき動かしているのは 目には見えないヤツなんだからな
アーラヤ識のこと
ああ アーラヤさ
死んでも変わらないわね
だから 困ってるのさ お前だって俺から離れたくて仕方ないのに 未だにこうして一緒じゃないか
アーラやだわってダジャレを言いたくなるくらい やあね アーラヤって
ああ あ
それはそうと あなたじぶんの背中をみたことはあるの?
鏡に映せばみられるだろ
それじゃ背中をみてるのではなく 鏡をみてることにしかならないわ
なんで急にそんなこと訊くんだい
あなたの背中についてるのよ
何が?
魚よ
魚?
そう きっと鯖よ
サバ?
しめ鯖 好きだもんねえ
だからって背中にサバはないだろ いつのまに誰が刺青したんだ?
刺青じゃないみたいよ だって泳いでいるもの
サバが俺の背中で泳いでる?
シュールだわ
シュールだよ
じゃあ あたしそろそろ
あ ああ
俺は次の日フランス人に声をかけられた
「サバ!」
「サ サバ……」
やっぱり背中で鯖が泳いでいるのだ
2013.3.31
鷲田清一『ひとはなぜ服を着るのか』(ちくま文庫)からぼくがおもしろいと感じた箇所を引用する。
《三宅一生は1938年の生まれです。そして次にご紹介する川久保玲は1942年の生まれです。〈衣〉へのかかわりにおいてかれらと並ぶ重要な仕事をしてきた山本耀司は1943年の生まれ。かれらが十代から二十代にかけて在籍していたのが、三宅が多摩美術大学、川久保と山本が慶應義塾大学の文学部と法学部というふうに、それぞれはじめからファッション・デザインの仕事を志していたわけではありませんでした。/かれらがファッション・デザインにかかわりだしたのは60年代という、きわめて政治的な季節でした。と同時に、戦後の世界文化のさまざまな局面でドラスティックに断層が走った時代でした。》(94頁より)
こういう話になると、ファッションに興味がなかったぼくでも、俄然関心が高まるのだ。政治や時代の話と結びつけて、モードがどんな働きをするのかを考えてみるというスタンスなら、ついていけそうだ。スチューデントパワーが爆発した1968年、1969年という時代への憧れがどこかにある。ぼくは1969年生まれだから、余計に気になるのだ。大学と学生がどうしてあんなに激しく対立し、それが世界的な運動となって広がったのか、研究書はたくさん出ているし、当事者たちは今でもその時代を引きずって生きているだろうから、証言もたくさん残っている筈だ。東大の安田講堂を占拠した学生と機動隊との衝突を、ぼくはもちろん映像資料や本でしか知らない。しかし、学生たちが国家権力の厚い壁におしつぶされていく姿を見て、その無念の思いに少なからず同情したのだ。ぼくらの世代は、大学に入って、たとえ同じようなことをしようとしても、状況がそれを許さなかった。それでも革命への憧れがぼくの中で燻っていた。
《だれもが闘争や反戦や自由や抵抗について大きな物語を語りだしているときに、かれらは衣服という、ある意味ではとても私的でマイナーな世界に眼を向けたのでした。時代のどのような感触がかれらをファッションの世界に引き込んだのか、ちょっと不思議な感じがしますが、ミューズの神はどうも世界のだれもが予見すらしない時期に若き天才たちを呼びだすようです。80年代にまるで革命のように登場したファッションの思想性は、60年代に仕込まれたのです。》(95頁より)
いよいよ面白いではないか。政治的な革命の挫折の先に、モードの革命が可能だったのだとしたら、これは見過ごせないではないか。その経過を鷲田さんが軽妙な語り口で教えてくれる。なんだかワクワクしてくる。ぼくは今日、〈コム デ ギャルソン〉で働いている友人を自宅に招いてランチをしながら、ファッションについて語り合った。この際、ギャルソンから話をどんどん膨らませてみたいと思う。つづく
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