見出し画像

【短編小説】ホテル・カリフォルニア

 あの男が残したのは車だけだった。

 冬のまだ夜が明けきらぬ頃合い。
 私は真っ赤な旧型のジープに乗り込み、車の量が少ない明け方の道路を走りつづける。しかもときにはブレーキをできるだけかけないようにしながら、尋常ではない速さで疾走するのだ。
 家では、ベビーベッドの柵の中で赤ん坊のマヒロが眠っている。私は、薄暗い部屋でマヒロの寝顔をそっと見下ろす。赤ん坊はすやすやと寝息をたて、ときどきその小さな唇にギュッと力をこめたり、眉間にシワを寄せたりしながら眠っている。

 しばらくの間その寝姿を眺めたあと私は、ひとり車に乗り込むのだ。アパートから少し離れたところにそのジープはとめてあった。エンジンをかけると非常に大きな音とともに、振動が体に直に伝わってくる。この音でもしかしたら赤ん坊が起きているかもしれない、と頭の片隅にそんな思いがよぎるのだけれど、その激しい音の震えはもちろんうちのアパートまで届くはずもなく、その時にはもう私のジープは道路へと走り出てしまっているのだ。
 あいつが残した、この赤いジープ。あの子が生まれる前に私とあの男とで、どんな車にしようかと長い間悩んだ末に買った、中古で旧型のジープだった。狭い街には似つかわしくないくらい大きな車であるが、中古車屋で見たときにその姿にまず最初に私が惹かれたのだ。あいつも気に入り、この車があれば赤ん坊と一緒にどこへでもいけるね、などと仮定の話をしたりしながら購入したのだ。

 ひとりでその車に乗っていると、その空間がとてつもなく大きく感じる。その空っぽな感覚は、まるで自分の心のようだと私は思う。これまで、自分の心の中にはたくさんの想いが詰まっていたはずだったのに、あの時を境に揮発し蒸発していくかのように徐々に密度を失い、そしてゴツゴツとした骨格だけが遺物のように残ってしまったように感じるのだ。
 私は、カーステレオでイーグルスの曲を大音量でかけた。そうすることで空っぽな心がイーグルスの歌声とギターの旋律で埋められていく気がするのだ。

 狭い路地から国道に出、私は赤信号で停車する。歩道を歩く人物はたまにしかいない。しかし、その男性の姿はほぼ毎日見かけた。朝早い仕事なのだろうか、それとも夜の仕事を終えて帰ってくるところなのだろうか? どちらにせよ、その暗い表情と背中を丸めながら重い足取りで歩くその男性は、いつも何かに取りつかれ、疲れ切っているかのようだった。
 しかし信号が青に変わると、私の心はその男性から瞬時に離れ、私はアクセルを強く踏み込むのだ。まるで離陸直前の滑走路を走る飛行機のように強烈なGが私の体にかかる。その感覚の中で、私は恐怖と同時になにか別の振り切った感情を覚えるのだ。
 どうしてあいつの記憶とつながるこの車に私は執着しているのだろうか? あるいは猛スピードで走ることで、最終的には私もろとも破壊してやりたいと望んでいるのだろうか?
 しかし私には部屋で待つ赤ん坊がいるのだ。そのことは決して頭から離れることはなかった。そして、生まれた赤ん坊の姿を見ることなく、名前を呼ぶこともなく去っていったあいつに対する怒りが、腹の底の方からマグマのように突如として湧いて来るのだった。

 ひとしきり走ったあと、私は再びアパートに戻ってくる。ドアの郵便受けには、何日も前から家主からの手紙が挟まっているが、私はそれを無視したまま部屋にはいる。ドアの閉まる音で目を覚ましたのか、靴を脱いでいると赤ん坊が泣き出したので私は抱き上げると、おむつを換え、そして母乳を与えた。この子は哺乳瓶からは決してミルクを飲まなかった。母乳しか飲まないのだ。私がいなければこの子はたちまちお腹を減らし、それを満たされることなく弱っていくしかない。この子には私が必要なのだ。
 薄暗い部屋の隅で、壁にもたれかかりながら授乳をしていると、赤ん坊の規則正しい呼吸が聞こえてくる。この子は一生懸命生きようとしている。その顔を見ながら私は思うのだ。私は赤ん坊の柔らかな髪を撫でながら、ただその無邪気な顔を眺めるしかできなかった。

 私は携帯電話の通知音で目を覚ました。を抱いたまま、私はいつの間にか眠っていた。マヒロも母乳を飲みながら眠ってしまったようだ。冷たい床に座り込んでいたために下半身がひどく冷えているのを感じた。
 赤ん坊をそっと目を覚まさないように気をつけながらベビーベッドに寝かし、携帯電話を床から拾い上げた。
 待ち受け画面の明るさに一瞬目の奥が痛くなる。メールを開く、そこには私にとってはまるで意味のない、随分昔にネット注文した業者からの宣伝メールが届いていただけだった。その他のメールや着信やメッセージはただのひとつも届いていなかった。
 私は携帯電話の重みを手のひらに感じながら、連絡先を開けてみた。多くの人の名前が並ぶその画面は、まるで墓石のように私には感じられた。その多くの人たちはすでに私との関係がすでに断たれている人たちばかりだったからだ。
 そこには母の連絡先も残っていた。私はしばらくその画面を眺め、そして母の連絡先を確認した。そこには母の携帯電話の電話番号と、私が設定した母の写真が残っていた。母がどこかの海を背景に笑っている写真だった。果たしてどこの海だったろうか、思い出そうとしたけれど思い出すことはできなかった。そしてこの母はもうどこにもいないのだ。

 私は身支度を整え、マヒロを抱っこして市役所に出かけた。赤ん坊はまだ小さいけれど、早く保育所に入れ仕事を見つけなくてはならなかったのだ。
 私は保育所の申込みのため保育課に行った。
 「お子さんは何ヶ月ですか?」
 保育課の職員は言った。
 「もうすぐ4ヶ月になります」
 私は女性職員の方を見ながら答えた。
 「今現在はお仕事はどうされてるんでしょうか?」
 「どういう意味でしょう?」
 私は聞いた。
 「産後休暇をとられているとか、育児休業中とかですか?」
 そう言ってその女性職員はマヒロの顔を見て笑いかけた。
 「いや、今は仕事はしていないんです」私はうつむきながら言った。「なんというか、これから仕事を探さなければいけないなって思ってるんです」
 「なるほど」
 女性職員は頷いた。そして言った。
 「実はですね、今からではもう4月の募集は終わっておりまして、申込みをされたとしても最短でも5月以降にってしましますがよろしいでしょうか? 5月に入れるかどうかも、その時の空き状況と申込状況によりますが」
 女性職員は、申し訳なさそうに眉をひそめながら言った。
 「今すぐとかは無理ですか?」
 私は聞いた。
 「今すぐは、無理ですねぇ」
 「車がありますから、少し家から遠くても大丈夫なんですが」
 「今はもう2月ですし、ちょっと難しいですね。去年の12月中に来ていただいていれば、4月入所で申込みはできましたけれど・・・」
 赤ん坊が私の口を触ろうとして手を伸ばしてくる。
 「失礼ですが、家族構成とかを教えていただけますでしょうか?」
 彼女は言った。
 「私とこの子のふたりです」
 私は言った。職員は、はい、と頷きながら私の次の言葉を待つ。
 「夫とは離婚しました。 というか、出ていきました、離婚届だけ残して」私は言った。「マヒロが生まれる少し前にどこかに行ったんです」
 「そうなんですね」職員は冷静な口調で言った。「では、ひとり親、ということでよろしいですね」
 「はい。なので早急に仕事を見つける必要があるんです。どうにかなりませんでしょうか?」
 「申し訳ございませんが、今でも待機児童がたくさん出ている状況でございまして」

 これ以上何を言っても変わらなさそうだったので、私はとりあえず5月の入所申し込みだけをして帰るしかなかった。
 当面は切り詰めればしばらくは生活できそうでもあったけれど、滞納している家賃を払ってしまうとたちまち困窮に陥ってしまいそうだった。そのことを相談すると、生活保護とかの相談をされるしかないのではないか、とその女性職員は言った。もしくは、親元に帰られるとか、と。

 
 次の日の朝も、私はジープを走らせた。大音量でイーグルスの曲をかけながら。イーグルスの曲は何度も何度もループしながらエンドレスに流れ続けた。そしてホテル・カリフォルニアを曲を聴くたびに私はあの男のことを思い出してしまうのだ。この曲はあいつが好きな曲だったのだ。そして、あいつと一緒に聴くうちに、私自身もその曲がとても好きになり、その曲は私達にとってかけがえのない大切なものとなったのだった。その曲に憧れて、私たちは新婚旅行にもカリフォルニアを選んだのだ。
 私はどこで人生を間違ってしまったんだろう。
 悔しさとも悲しさともつかない感情につまり、私は涙を流した。涙で視界が悪くなったとしても、構わずアクセルを踏み続けた。

 実家にはまだ年老いた父が住んでいるはずだった。しかし、父は、私が中学にあがったころから仕事がうまく行かなくなり、急に酒を大量に飲みはじめた。毎晩、食事をするこたつに居座ったまま、ビールや焼酎を何時間も何時間も飲み続けた。そしてそのうちに、私や母に手を上げるようになっていったのだった。
 私は高校を卒業するとすぐに就職し、逃げるように実家を出ることを選択したのだ。母に一緒に来るように言ったのだけれど、母はどういうわけか父のいる家を離れるのを拒んだのだった。
 父と最後にあったのは、母のお葬式だった。父は喪主であるにもかかわらず、親戚の人たちとはほとんど口をきかず、ただずっとアルコールを飲み続けていたのだ。体はひと回りほど小さく縮んでしまっているかのようだった。どこかしら生きる気力というものが失われ、目の光もとても弱々しくなっていた。彼は私とは目も合わせず、どこか私のことを避けているかのようだったのだ。
 しかし考えてみればそれはそうだろう。自分の行いのせいで私たちの心はばらばらになってしまったのだから。
 もしかしたら、反省しているのかも知れない、後悔しているのかも知れない、やり直したいと考えているのかも知れない。私は彼の姿を、彼の外側に曲がった細い足を見ながら、哀れだな、と思った。けれども、それで私の心が和らぐということは微塵もなかった。むしろ得体のしれない憎しみのようなものが大きく私の胸を大きく揺さぶったのだ。私は彼の姿を見ると、大きく動揺し、鼓動が速くなった。そのため、葬儀が終わるとすぐに私は、いとこや叔母が引き止めるのを振り切り、その場を後にするしかなかったのだ。
 母はどうしてあんな父と暮らし続けたのだろうか? 私と一緒に来ていれば、もしかしたらもっと楽しく暮らせたかも知れないのに、もっと長く生きられたかも知れないのに。
 私はその夜、暗い部屋の真ん中で長い時間泣き続けたのだ。
 その後父がどのような暮らしをしているのか、知らない。どうしてそんな家に戻ることができるだろうか?

 アスファルトはどこまでも灰色で、厚い雲に覆われた朝の鈍い光の中に沈んでいる。私は、猛スピードでカーブを曲がる。生きている。外側に体を振られながらカーブを曲がるときだけ、私は生きているのだ、と実感することができた。私の中で、獣のようなものがやどり始めているのだろうか。そんな恐ろしさを感じながらも、どこかでそれを享受する喜びを感じている自分がいるのだとも思った。そして同時に、死に対する感覚に最も近いところにいる、という観念が狂おしいほどに胸をざわつかせるのだ。

 信号が赤に変わり、私は急ブレーキをかけた。タイヤが金切り声のような音を立てながら横断歩道にかかるわずか手前で車は停車した。
 横断歩道を渡る者はいなかった。私は、荒い呼吸をしながら目の前に続く道を眺めた。空には厚い雲がかかり、道路も、そして世界全体がその黒ずんだ雲と同じ色に染まっていた。ただ目の前の信号の赤だけが妙にけばけばしく私の網膜を刺激していた。
 私はハンドルにもたれかかりながら息をゆっくりと整えた。思い出したかのように、イーグルスのホテルカリフォルニアが耳に入ってきた。
 とその時、目の前に国道を一台の白いトラックが横切ったのが見えた。それは食材を運ぶトラックのように思えた。瞬間に私は身を起こし、ハンドルを握り直した。
 唐突に激しい感情が湧き上がるのを感じた。それは怒りであるのかもしれない。もしかしたら、悲しみと寂しさと、そして歓喜というものの中間に位置する何かだったのかもしれない。とにかくそれは、突発的で激しく衝動的なものであることに間違いはなかった。

 あのトラックにはあいつが乗っているかもしれない。
 私は、赤くにじむ信号を睨みつけながら、その色が変わるのをじりじりとしながら待った。そして青に変わるやいなやアクセルをぐっと踏みつけると、白いトラックが過ぎ去っていった方向に向けて走り出した。
 視界がぐっと狭まっていくような感覚を覚える。道路の両端に植わる並木が流れるように後方へと過ぎ去っていく。私は赤い金属に囲まれた空間で、エンジンの爆音と大音量のイーグルスの曲に包まれながら、ただあいつの車の影を追いかけること以外何も考えることはできなかった。今さらあの男を追いかけてどうすることができるのか、なんのために自分はあいつを探しているのか。私はあいつに向けた自分の感情を理解することができなかったが、どうしても追いかけずにはいられなかったのだ。
 100メートルほど前方で角を右に曲がるトラックのテールランプが見えた。あいつのトラックの姿を捉えたのだ。私は激しい衝動にかられ、自制することもできずに車のスピードをさらに上げた。
 あいつが今も、私達が一緒に生活していたときと同じ仕事をしているらしいことが無性にムカついていた。あの男は今もかつてと変わらない生活を続けている、そのことが私にっとてとても耐えることのできない屈辱のように感じた。

 私はあいつと同じ交差点をあいつと同じように右に曲がる。信号は黄から赤に変わったところだった。重力が外側に大きくかかり、私はハンドルをしっかり握り締めながら助手席側に持っていかれる体をしっかりと支えなければならなかった。タイヤがかすかに悲鳴を上げた。
 と、赤いジープがその角を曲がり切ったとき、車の後ろでサイレンがなるのが聞こえた。私は一瞬何事が起こったのか分からなかったが、ルームミラーにパトカーの姿が映り、自分の置かれた状況を理解するに至った。
 「前の赤い車、止まりなさい」
 パトカーの拡声器から声が聞こえてきた。
 彼らは信号無視をした私を止めようとしているのだ。しかし私は今は止まることなどできない、あいつを追いかけ、追い詰めなければならないのだ。
 私はアクセルを踏むのを緩めず、あの白いトラックの影を追った。後方からはサイレンが止むことなくなり続け、警官の声がけたたましく叫び続けている。
 私は走り続けた。あいつの車は今やどの方向に進んでいったのか、もうわからなくなっている。ただ、懸命に走り続け、かつ懸命に逃げ続ける私がここにいるだけだった。

 一瞬、赤ん坊のことが頭に浮かんだ。

 そうだ、今朝マヒロを抱っこしたとき、あの子の体は少し熱くなかっただろうか?

 あの子はもしかしたら熱を出して苦しんでいるかもしれない。私は今ここで捕まるわけには行かないのだ、早く帰ってあの子を抱き上げなければならないのだ。そしてあの子を病院へ連れて行かなくてはならないのだ。でないと、何もかもが手遅れになってしまう。何もかも失ってしまう・・・

 パトカーはどこまでも追いかけてくる。無意識に私の喉からうめき声がもれる。私は意味不明な低い声を発しながらパトカーを振り切るために猛スピードでジープを走らせた。

 混乱のなか、マヒロの顔が思い浮かぶ。マヒロのよく通る高い声が締め付けられる私の胸に去来する。
 マヒロが家で私の帰りを待っているのだ。私は何よりも今、家に帰りつかなくてはならないのだ。
 車は役所の前を通り過ぎる。数日前の役所の保育課での会話が心のなかに蘇ってくる。保育課の職員の丁寧ではあるがまるで気持ちのこもっていない口調で言ったのだ、保育所に空きはないのだと。空きができるまでマヒロは保育所に入ることはできないのだと。
 保育所に預けることができなければ、あの子にはもう私しかいないのだ。だが、保育所に空きができなければ、私たちの生活はこれからどうなってしまうのだろうか? 誰かが守ってくれるのだろうか。

 車の中で、私は汗をかいていた。顔には汗が玉のように吹き出し、流れ、体も汗でびっしょりになっていた。
 訳の分からない感情が喉かの奥から溢れてくると同時に、顔がぐにゃり大きく歪み、目から涙がどっと溢れたでた。まるで水の中に沈んでしまったみたいに視界が液体のように歪む。そして液体に満たされる躰とは逆に口の中はからからに渇きを覚えている。聴覚は?

 

 あいつのトラックのテールランプが向こうに見えた。私はマヒロの顔を脳裏に浮かべながら、そのテールランプに向かって突進していく。

 私は今、何のために走り続けているのだろう。あいつを捕まえるためなのか、それともパトカーのサイレンから逃れる為なのか。
 そもそも私はなんのために、毎日早朝の町を、ひとり孤独に走り回らなければならなかったのだろう。
 混乱の中で頭に浮かんでくるのは、やはりマヒロのことだった。あの子の顔が、そしてあの子のよく通る高い声が私の胸に去来するのだ。
 私はマヒロのために走っているのだ。なぜだかわからないけれど、そう思った。マヒロが家で私の帰りを待っているのだ。私は何よりも今、家に帰りつかなくてはならないのだ。
 役所の保育課の職員の丁寧ではあるがまるで気持ちのこもっていない口調が思い出された。マヒロを保育所に預けるまで、マヒロには私しかいないのだ。だが、保育所に空きなければ、私たちの生活はどうなってしまうのだろうか?誰かが守ってくれるのだろうか。
 私は冬の車の中で、汗をかいていた。顔には汗が玉のようになり、流れ、体は汗でびっしょりになっていた。
 顔がぐにゃりと歪むのを自覚するのと同時に、目から涙が溢れたでた。まるで体全体が水の中に沈んでしまったかのように視界が液体のように輪郭をなくして歪む。液体に満たされる躰とは逆に口の中はからからに渇きを覚えている。耳鳴りがし、パトカーのサイレンが次第に遠くなっていくようにも感じた。
 東西に伸びる真っ直ぐな国道。私は交差点に猛スピードで侵入しようとした。その時だった。
 毎朝、見かけるあの男が私の車の前に歩みだしてきたのだ。いつも暗い疲れ切ったような表情で、足をひきずるように歩くあの男だ。彼は私の前にゆっくりと歩を進めると、弛緩したような瞳で私の方を見た。私はその男と一瞬目があった。
 危ない!
 私は無心にブレーキを踏みハンドルを左に一気に切った。タイヤとアスファルトの高い摩擦音を鳴り響き、窓の右側にその男の背中を丸めた弱々しい姿が後ろに流れていくのがスローモーションのように見えた。
 同時に、眼の前に銀色にガードレールが急速に迫ってくるのが見え、次の瞬間、大きな衝撃が私を襲ったのだ。
 轟音とともに、車が横倒しになるのを感じ、大きな力で体が前後左右に強引に揺さぶられるのを私は耐えることしかできなかった。
 エアバックが眼の前で飛び出すように開き、それと同時にフロントガラスが割れ、そして
私の記憶もそこで途絶えたのだった。
 意識を失う寸前、我が子であるマヒロのことが脳裏に浮かんだ。あの子を抱き、あの子のあたたかい体温がすぐ私の胸の中にあるかのように感じた。私はあの子のためにも、どうしても家に帰らなくてはならないのだ。
 しかし、体は意に反してまるで動いてはくれなかった。
 涙が横ざまに流れていくのをなんとなく感じながら、私の意識は次第に幕を閉じるかのようにゆっくりと暗闇へと落ちていく。
 薄れゆく意識の向こう側で、イーグルスのホテル・カリフォルニアが大音量で流れているのが聞こえていた・・・




読んでいただいて、とてもうれしいです!