見出し画像

「コピーは、コーヒー牛乳飲みながら。56」 南三陸町の復興支援者/公募情報ブロガー・八ツ橋哲也さんインタビュー

五十六杯目は、「3.11から10年が過ぎたこの場所で」

八ツ橋さん:Twitterのアイコンに使っているこのモアイ像、実はイースター島から贈られた本物のモアイ像なんです。もともと震災前にもあったのですが、津波で流されてしまって。それで新しく贈られたこの目の入ったモアイ像は、世界にたった2体しかいないんです。

この南三陸町は、私の母の実家がある場所でして。幼少期からずっと神奈川で育っていたんですが、夏休みになると家族みんなで遊びに来ていましたね。豊かな景色が広がって、その中で楽しく過ごしていたのをよく覚えています。でも、それがあの日変わってしまいました。

————あれから10年経った今、どうしてもこの記事を届けたかった。

みなさん、こんにちは。今回の「コピーは、コーヒー牛乳飲みながら。」は、宮城県南三陸町からお送りします。

画像1

今回、取材をお願いした方は八ツ橋哲也さん。長く宣伝会議賞に参加されている人なら、ブログ「センスなしド素人、コピーライターへの道。」を書かれていた方といえばわかるかと思います。

コピーライターを目指し奮闘する八ツ橋さんのブログであるのと同時に、様々なコピー関係の公募情報を掲載。その豊富な情報量と素敵な文章からこの記事の六杯目で取材した大井慎介さんの「すべては、宣伝会議賞を獲るために」とならび、日本中のコピーライター志望の方に愛されてきた名ブログです。

以前は自分がかつて住んでいた神奈川県にお住まいでしたが、2019年にこの南三陸町の隣の登米市に移住。今もなお続く復興支援のために、この地で活動されているとのことです。

八ツ橋さんがこの町に来た理由はなんだったのか? そしてあれから10年、復興はどれほど進んだのか? これからの10年のため、この目で見てきた物語を現地の写真とともにお伝えしたいと思います。震災当時の写真もございますが、どうか最後までご覧いただければ幸いです。

病気がちだった幼少期。探し続けた自分が本気でやりたいこと。
そんな中で出会ったのが宣伝会議賞とコピーだった

八ツ橋さん:幼少期の頃は、体調があまり良くなかったんですよ。一番やばかったのは、小学4年生の時。尿検査ってあるじゃないですか、あれに毎回引っかかってそのたびに病院で再検査していました。それが毎年なんでさすがに変だな?と思って。

そこで、別の病院に行ったら原因がわかったんです。なんと本来は痛みがあるはずの盲腸の痛みが起こらなくて、その結果腐ってしまい膀胱と腸が貫通してしまっていたんです。

画像2

————なんと。

八ツ橋さん:そのまま横浜にある子ども医療センターに入院して、そこで手術をしました。後々聞いたら「こんな病気聞いたことないくらい珍しい。学会で発表されるレベルだ」という事になって。手術して今はもう完治してるんですが。

————学会ですか。聞くところによると、まだ八ツ橋さんが12歳の時……。

八ツ橋さん:でしたね。そんな病気もあって、家で過ごす事が多かったんです。それで実家のお店を手伝いしながら、PCを購入しまして。そこからプログラミングに興味を持ち、志望するようになったんです。

その後進学した専門学校で、情報処理という単純計算に特化したプログラミングを学んでいたので、それを活かせる会社に入社しました。ところが、それから一年間の仕事がチェック作業中心でプログラミングの技術的な仕事をほぼやっていなかったんです。

翌年に実践的な仕事を振られても一切できず、上司から引き止めてもいただけたのですが……結局その2年後には退職する道を選びました。

————その後はどんなキャリアを?

八ツ橋さん:もともとプログラマーやっていたのでどの仕事がやりたいかわかんなかったんです。

何が向いているかを検討し、そこからは職を転々としました。最初は営業の仕事に就いたのですが、それがすごいハードな現場で、自律神経を痛めてしまって。これもダメか……とそこから配送業や食品工場でお弁当を作ったり、派遣社員などもしていました。

そんな自分探しをずっと続けてきた中で、配送業で仲良くなった方から会社作るから手伝ってほしいと頼まれたんです。

画像3

取材中、ご馳走になった「さんこめし」。たこ・穴子・イクラを使用した新しい南三陸町の名物です。

————その時は、何のお仕事をされていたんですか?

八ツ橋さん:この時も営業です。昔東京電話というサービスがありまして。回線引けば電話料金が安くなる、その契約を取るという。

一度営業をリタイアしているので抵抗があったのですが、チラシを配って東京電話を繋ぐ・切り替えてもらうという比較的やりやすいものでした。1日3円くらいのチラシを配って反響があった家に訪問するのですが、チラシのコストが高いため3〜4円利益がないと営業展開できないんですよね。でも5000枚配っても1件契約とれるレベルで。

仲間と「このままじゃ割に合わないぞ、ならこのチラシ自分たちで作らないか?」と話した結論になり、自分たちで作ることにしたんです。まずはまるまる似せたものを作ったんですが、それも結局反応がなく。

ならもっと自分たちオリジナルのものを作ろうかと、文言を考えるのをやり始めたんです。そこがいわばコピーに通じるものだったなと。その時に初めて友人が持ってきたコピーの本を読みまして。これが私とコピーが初めて出会った最初の瞬間でした。

————それが何年ごろですか?

八ツ橋さん:今から20年前、2000年頃ですね。自分たちのコピーで作ったチラシに対し反響があった。そのことが嬉しかったですね。あれが一番最初のコピーの楽しさを味わったところでした。

それで2005年に公募情報の載っている公募ガイドを読んで、何かコピーに関するものはないかを調べたらたまたま「宣伝会議賞」を見つけたんです。ちょうど一人暮らし始めた頃だったから、100万円もらえたらラッキーだなーと思って始めたんです。その時まぐれで一次通過したのを見た瞬間、「今まで自分探ししていたけど、これじゃね?」と思っちゃったんです。勘違いかもあったんですけど、プログラマーを辞めてから10年近く探していた自分のやりたかったことだと思えて。

ただその後応募しても全然ダメで「ああ、俺の勘違いだったな。もう才能ねえや」と一旦諦めたんですが……。そのタイミングの2009年10月、当時の仕事先で派遣切りにあったんです。

————リーマンショックの頃ですね。

画像4

八ツ橋さん:あの頃は、就職活動しながらも全然新しい職場が見つかりませんでしたね。ふとハローワークの帰りに本屋で公募ガイドを読んだら、久しぶりに宣伝会議賞の情報を見かけて。締め切りまで1ヶ月もあるのかちょうど今仕事もないしやってみるか……と再開したんです。

その頃他にも何かで稼ぎたいなと思っていて、ちょうど同じタイミングで「アフリエイトで稼ぐ!」という本を購入しまして。のちのちこっちでも収入になったらいいなという想いもあって「じゃあせっかく宣伝会議賞やってるんだし、それをブログにしたら面白いんじゃないか」と考えたのが40歳手前の時でした。

————それがあのブログ誕生秘話だったんですね。当時ブログ執筆にあたり、どんな工夫をされていたんですか?

八ツ橋さん:アフィリエイトに繋げるなら何か面白いものを、ということで「こういうコピーを応募しました!」という情報をアップすることにしたんです。(当時コピーのブログを書かれていた)方々は「受賞しました」という結果ばかりあげるんですけど、自分はそうではないようにしたいなと。

どういうものを応募してダメだったのか、それを見せたら面白いんじゃないかなと。

あと工夫と言えば、時間が経つにつれ色んな方が見てくれるようになり、もっとコピーに興味を持ってもらいたいという想いがあったので、さまざまなコンペ情報を載せるようになったんです。

画像5

八ツ橋さん:初期からもプロのコピーライターの方々がアドバイスを兼ねたコメントをしてくださっていて。ただ一番PV数がグッと伸びたのは、何だかんだ宣伝会議賞の結果発表の時でした。今回この課題ではこのくらい通過しました、あれが一日で1000PVくらいを更新したのかな。

ブログを続けていて嬉しかったのが、「これを読んで応募したら受賞しちゃいました」という声をいただけた事。江島さんという女性の方で以前オクーさん(「コピーは、コーヒー牛乳飲みながら。30・31」に登場された奥村明彦さん。八ツ橋さんのブログにはよくコメントされる常連さんでした)と会いに行った事があるんですよ。その方は宣伝会議賞でゴールドを獲られて卒業されて。オクーさん曰く「才能があるのだからもっと挑まれてもいいのに。いきなり卒業は勿体ない」と話していたのをよく覚えています。

2011年3月11日。母の故郷を襲った東日本大震災
大好きだった町が丸ごと消えていた

画像6

取材中、八ツ橋さんは何度もかつての南三陸町の美しい景色と震災当時の写真を見せてくださいました。

————そんなブログ運営と宣伝会議賞に挑まれる中で、あの2011年3月11日を迎えた。

八ツ橋さん:実家がやっていたお店の仕事を手伝っていました。扱っている商品が、すごい重くてそれをやりつつ家事もこなしながらで。同時に東京でリサイクル業をやっていたんですけど、その仕事を辞めて横浜に戻ってきたのが震災が起きる1ヶ月前。

その頃は父の体調も良かったため、(神奈川県・本郷台駅の)駅前のドトールでコピーを書いていたんですよ。そんな昼頃、あの地震が起きたんです。

画像7

八ツ橋さん:揺れが長く大きかったのをよく覚えています。

これはやばいぞ、とすぐに店を出て父に電話しても繋がらず。家に駆けつけたら彼は無事だったんですが、停電もしていてテレビも見れらないため、ラジオと充電が残っているPCで情報収集したんです。そしたらどうやら宮城沖が震源地らしい、しかも津波も起きてるらしいことがわかって。

そして停電が直った夕方、テレビのニュースで、あの被災地の光景が飛び込んできました。

————最初に映像を見たときは、どう感じましたか。

画像12

八ツ橋さん:想像を絶するものでした。

最初に映ったのが、港の魚を入れる場所が津波に流される映像で。そこは南三陸町ではなかったのですが……自分がいつも訪れたあの町はどういう状況か、どうなったのだろうと不安になりました。

この「旧南三陸町防災対策庁舎」の屋上では53名の方が避難されて。でも津波はその高さを大きく超え、押し寄せてきて……手すりやポールにしがみついた、ごくわずかな人たちだけが生き残ったそうです。

画像9

八ツ橋さんに案内され、訪れたのは「南三陸町震災復興祈念公園」。そこに佇む「旧南三陸町防災対策庁舎」の建物には震災が残した傷が10年経った今も色濃く残っていました。

画像10

八ツ橋さん: 当時は父の介護をしていたため、神奈川を離れることはできませんでした。一方で埼玉に住む叔父が頻繁に来てくれたので、彼がくれた写真からその様子を見てはいました。

だから実際にこの目で見れたのが、父が亡くなってから。友達の車に乗せてもらってからでそれが引っ越す前、2019年の8月。20年ぶりの訪問でした。

————実際その目で見たときは、いかがでしたか。

画像11

八ツ橋さん:何もない。真っ平らでした。俺の知っているあの町が丸ごとなくなっていた。

いつも歩いたあのお店はどうなんだろうとは思ったんですが、まさかここまで壊れてるとは。その事実に衝撃を受けました。でも整地された状況だったので、津波にありとあらゆるものが持って行かれた直後だったらもっとそう感じていたと思いますね。

画像12

震災はまだ終わっていない。 
未来の芽が咲くためにできることを
旧南三陸町防災対策庁舎で二人で献花した後、八ツ橋さんの車で現在の被災地の様子を見て回ることに。最初に案内していただいたのは、今度のNHK連続テレビ小説の舞台にもなる宮城県登米市。街の中心からそう遠くない場所に見渡す限り、広い土地がありました。

画像13

八ツ橋さん:実はこの一帯、震災後の仮設住宅があった土地です。震災があった直後は約350世帯が集まり、つい5年前までここに約90世帯の方が生活していました。

————この場所に、そんなたくさんの方々が……。

画像14

————八ツ橋さんが南三陸町支援のために、移住しようと思ったのはいつ頃からでしたか?

八ツ橋さん:2013年くらいからです。現実問題コピーライターになるのは厳しいと感じ始めていた一方で、でも何処かにこの技術を活かしたい、それはどこだろうと。そこから「コピーライターではなくこの場所でこの技術を活かすようにしよう、その為に宣伝会議賞に挑もう」と考えるようになったんです。

もし南三陸町でコピーの力を生かすなら、あらゆる方向に対応できる能力・スキルがないといけないなと。だから受賞云々よりも自分が応募した課題全てで通過できるように頑張ろうと思ったんです。そうしないとこっちに来ても通用しない。

画像15

画像16

街の脇道には、当時の傷跡を語る廃墟が少なからずありました。

————八ツ橋さんをそこまで心動かした一番の動機は、なんだったのですか?

八ツ橋さん:一番の動機は、震災が起きる前に亡くなった母でした。当時から結構、病気がちでいつ亡くなっても不思議じゃない人だったんです。ただなんだかんだもう少し保つだろうとは思っていて、残る3〜4年でこんなことをして喜ばせてやりたいな……と思っている段階で急に体調が悪くなったんです。

緊急入院した直後にすぐ危篤状態と聞いて、呆然としました。その1ヶ月後には亡くなってしまって……自分はその時、後悔しかなかったんです。だからその分その後認知症を患った父の介護を一生懸命したのですが、その度に思ってしまっていたんです。「ああ、こんなことお袋にしてやれなかったな」と。この想いを形にする方法、それは彼女の故郷の南三陸町に行って貢献することなんじゃないか。そんな想いがどんどん増すようになって。

————そして2015年の宣伝会議賞で、当時ではかなり多い一次通過の通過本数、51本を通過された。

八ツ橋さん:実際、目標にしていた全課題通過まではいかなかったのですが、その時コピーの神様に「これだけやったのなら宮城に行ってもいいよ」と言われた気がしたんです。2016年も一応応募したのですが、その挑戦できっぱりやめて、移住も視野に含めながら父の介護に専念するようになりました。

画像17


————そしてお父様が他界されてから、この南三陸町に行く道を選ばれた。まだ移住されて一年ですが、こちらでどんなことをされるご予定なんですか?

八ツ橋さん:コピーのスキルを活かすために、地元の特産品を生かした通販事業を立ち上げることを目指しています。

そのためにまず顔を覚えてもらおうと、この一年、地域のいろんな方に挨拶をして回りました。その次に始めたことが、町を少しでも綺麗にするための清掃活動。そうやって、少しずつこの街に馴染んで行こうとしています。

そして時間が空いたら海岸に行き、遺骨がないかを探しています。まだ見つかっていない人が211人いるんです。もし見つけたら家族の方にも返せることになる。特に歯はどんなに時間が経っても、残ってるそうなんですよ。だから歯らしいものは流れていないかも見ています。

画像18

画像19

↑(上)震災後、南三陸町から西表島に漂流した郵便ポスト。(下)歌津町に展示されている震災当時の写真。

画像21

画像20

一枚一枚に、決して忘れてはいけない光景が写っていました。


————移住されてからこの1年間、どんなことを痛感されましたか?

八ツ橋さん:この町から人がどんどん離れていっているのを痛感しています。復興がまだまだ進んでいないから、仙台市などの都市部にどんどん人口が流出してしまって。若い人もいなくなり、そのことでさらに復興が遅れているんですよ。

しかも昨年から続くコロナもあったので、今はダブルパンチで苦しい状況になっていて。「震災があんなに大変でまだ復興があまり進んでない中で、10年経ってもこんな追い打ちをかけるなんて」と悔しさと憤りを感じました。

画像22

今もなお、現地で行なわれている復興への工事。


————今日、八ツ橋さんと町を廻って、改めてあの震災はまだ終わっていないことを実感しました。

八ツ橋さん:あれだけ大きい震災だったから、傷跡は一生消えることはないんだと思います。「当時を思い出すから被災した建物は残さないでほしい」という人もいるくらいですから。

画像23

取材終盤に訪れた、南三陸町の景勝地・神割崎。

八ツ橋さん:結果はまだ伴っていませんが、少しずつ顔も覚えてもらえるようになってきました。それと自分がTwitterで情報発信したことで、南三陸町に興味を持ってくれた人も増えてきて。

「コピーはコーヒー牛乳飲みながら。」37杯目に登場した松尾栄二郎さんも、実は協力してくださっているんです。ホヤという名産品が最大の取引先である韓国輸出ができなくなってしまって、大きな打撃を受けていて。

画像24


八ツ橋さん:そこで国内での消費を伸ばすために若い人にホヤを知ってもらうきっかけづくりできないかなと思い、Tシャツ作りを始めたんです。ちょうど給付金が出たタイミングだったので、東京にいる松尾さんに協力をお願いし完成しましたね。

————本当に少しずつ少しずつ、事業を進めているんですね。

八ツ橋さん:親がこっち出身でも都会から急にきた自分は、地元の方にすぐに受け入れられる存在ではないと思うんです。コツコツ動きながら時間をかけてその成果を見ていただくしかないなと。

————これから南三陸町と生きていく上で、こうなって欲しいまたはこうなりたい。その想いを最後にお聞かせください。

画像25

八ツ橋さん:僕の役目はバトンタッチだと思っています。僕一人が何かを成し遂げるのは正直難しい、でも八ツ橋がここまでやったから今に繋がれたよねという状況へのきっかけを作りたい。後々その種が芽になってくれたらそれでいい。

今はたくさん失敗するだろうとも思っています。でもその中で一つでも震災の爪痕が残るこの町が未来へ進む一歩になってほしい。ないものからお願いしても誰も動いてはくれないけれど、少しでも体制を作れたら被災地のこの状況を変えていける。そんな未来への実現に少しでも貢献したいですね。


かつてたくさんの人にコピーライターになる道を、ブログを通し築いてくださった八ツ橋さん。この連載を始めた時からいつか絶対にお話をお聞きしたいと思っていたその人は今、この南三陸町の未来への道を作っていることを感じた取材でした。その今後のご活躍、そして1日も早い復興を祈り、宮城地元の地酒・日高見を、ぐいっ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?