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ずっと夫になりたかった

夫は、還暦前のおじさん。
涙もろくて、「はじめてのおつかい」を見た日には、大きいタオルが必要なくらいに、涙腺ゆるゆるなおじさん。

中肉中背、自称身長168センチだけど、ほんとうは167.3センチの、ちょっとタレ目のおじさん。

お世辞にも、モテモテタイプとは言いがたい。
出会った頃から10キロは太ったし、顔のお肉も垂れ下がった。
強いて言えば、おっきな口を開けて笑うところだけは昔から変わっていない。

そんなごくごくありふれたおじさんの夫に、私はずっとなりたかった。


26年前、二女のゆうが難病だとわかった時、私は心の安定を失った。
娘の病名は筋ジストロフィー。だんだん筋力がなくなり、動けなくなっていく難病だ。


二女には、長女の時になかった不安を、生まれてからずっと感じていた。
でも病名を告げられるまで、私たちは望みを持ち続けた。

そのうち首が座る、そのうち寝返りもできる、半年もしたらおすわりもするだろう、私に手を伸ばして抱っこをせがむようになるはず…。

その願いはあっさりと砕けてしまった。

私は、自分が壊れそうなくらい泣いてばかりいた。
でも、涙もろいはずの夫は、二女の病気を悲しんで泣いたことはほとんどない。

私が強く記憶にあるのは、二度だけ。

二女が何かをできるようになって、感動して涙ぐんだり、二女の手術が成功し、安心してポロポロ泣くことはあったが、彼が二女の病気を憂いで泣いたことは、私の前では二度だけだ。


一度目は、病気を告知された日の夜。

病院でも、うちに帰ってからも、私はずっと泣いていたが、夫は泣かなかった。医師から渡された医学書のコピーを見た時に、少し目が赤い夫には気づいたが、自分の悲しみが強すぎて、私はそれをあまり気にしてあげられなかった。

その日の夜中、寝静まった部屋で夫が声を殺して泣いていた。
私は言葉をかけられなかった。

「平均寿命20歳って、そんなかわいそうなことがあるか!」

そう言いながら夫は泣いている。

私のせいで、彼は泣けなかったのかもしれないと思った。夫の背中をさすりながら、私も隣でいっぱい泣いた。
そして夫の涙に、少しホッとしたのを覚えている。


二度目は、二女が特別支援学校の小学部4年生の頃だった。

二女は知的にもかなり重い障がいがあり、話すことも、こちらの話を理解することもできない。ただ表情が豊かなので、彼女の気持ちを察することはなんとかできている。

横になっている二女の目の前に、プラスチックのカラフルな立方体のブロックを積み上げ、彼女の肘を支えてやると、どうにか動かせる肘から先で、当時の娘はブロックを倒せた。
この遊びが大好きな二女は、ブロックを倒して、私の大げさな歓声にニヤニヤ笑っていた。

ふとキッチンを見ると、洗い物をしていた夫が泣いている。驚いてわけを聞くと、夫が答えた。

「赤ちゃんの時からやっていた遊びが、10歳になっても変わらないな、と思って。なんかさ、泣けてきてしまった。」

実際に二女は、知能的には赤ちゃんの頃から大きく変わらないのかもしれない。でも、彼女には経験があり、実年齢に見合った成長はしている。
この時、私は泣きはしなかったが、胸が苦しくなった。
赤ちゃんの頃から使っていたブロックの代わりに、彼女が手を使える遊びを考えようと思った。

この日以来、二女の遊びに赤ちゃんのおもちゃを使うのはやめた。



26年間で、この2回以外に、夫は二女のことで悲しむ姿を私に見せなかった。

それに対して、来る日も来る日も、私は泣いてばかりいた。特に二女が1歳になる頃までの私はひどかった。
夫は、そんな私の話をじっと聞いて

「そうだな、でも、ゆうは可愛いからいいやん!」

と、いつも言ってくれた。
それが他人事のように感じた日もあったけれど、それを聞きたくて夫に話していたような気もする。

普段は穏やかな夫も、彼の許せるラインを越えてしまった私には、チクリと意見することもあった。
例えば、二女の前でも泣く私に、

「頼むからもう、泣かないでやってくれ。ゆうの前では笑っててやれよ。」

と、厳しく言われたことがある。
その時は、そう思える夫に「そんな風に悟ったみたいに、ひとりで先へ行かないでよ。」と悲しくなった。
自分でもわかっているけれど、その頃の私はどうしても理性的になれなくて。

私は、自分が二女に背負わせた運命を悲しんでいるのか、自分の背負った境遇を悲しんでいるのか、自分でもわけがわからないくらい頭がごちゃごちゃだった。
変化し過ぎた自分の状況を受け止めきれず、とても疲れていたんだと思う。
その日の育児日記に、込み上げる思いを書き殴ったことを覚えている。

夫婦なので当然、夫に当たり散らしたり、喧嘩になったりする時もあったし、「産んだ私の気持ちは、夫にはわからない」と、虚しく感じたこともあった。

でも、苦しい気持ちを聞いてほしい相手は夫だけだった。


夫は基本的に、深く考えていないし、考えないふりもうまい。
私の気持ちを聞いた後、言った本人はすぐに忘れてしまうほど自然に、ひとことふたこと、思ったままを彼はポロリと言う。
それがいつも、悔しいくらいに私にまっすぐ響き、胸に残った。

そのうちに私は、「夫ならどう考えるか」を自分の軸にするようになった。
夫に答えを求めるように、苦しくなったら何でも彼の考えを聞こうとした。

夫になりたい。
夫のようになろう、と努力した。


ほんとうは人に二女を見せたくないし、誰からも何も訊かれたくない。
人の言葉をまっすぐ受け止められないし、自分がいちいち傷つくのもわかっていた。

でも必死で、平気な親でいようとした。

私は二女の母親なんだから。
長女も私を見ているんだから。

「自分は平気だ、大丈夫だ」という自己暗示の鎧を着けて、外へ外へと気持ちを向けようとした。

もちろん、そんな「作り物」の気持ちは、ほんのちょっとのことで簡単に崩れそうになったけれど、その都度夫と話すことで、彼の「天然物」の感覚を吸収して、私はどうにか自分を前に向かせた。

そうして次第に、夫の感性のようなものが、自分の中にも徐々に芽生えてきたように感じる場面が増えた。



二女の母になり、10年、20年と月日を重ねることで、いろんな出会いもあり、仲間もできて、私は母親としてずいぶん強くなったと思う。

「もしも」のような期待も剥がれていき、夢の中でも私は障がいのある娘の母になっているし、昔の知り合いや新しい友だちにも、二女のことを頑張らなくても話せるようになっていった。

何より、二女の笑顔が私を強くしてくれた。

「ゆうの前では笑っていよう」と頑張ることなく、二女の前では笑顔になる。それはきっと、どんな時も二女が笑ってくれるからだろう。
あの子は強い人だと思う。

そして長女や末っ子の息子の存在も、私の大きな力だった。

26年間の月日は、私をまるごと、障がい者の母にした。

この日々は、想像していたほど特別でもなく、たいしたことでもなくて、どこの家庭にでもある子育てと同じくらいに幸せな時間だったと、ようやく自分の言葉で言える私になった。


夫になりたいと、今は思わない。
自分で考えて、思う方に動きたい。でも私はこれまで通り、夫と話して、彼の考えを聞いていたい。
答え合わせをするみたいに。



最近、夫と話をしていると、最後に彼はこんなことをよく言う。

「俺はお前みたいに、いろいろ深く考えてないからなぁ。やっぱ、お前はすごいな。」

そう言って、二女の横に寝転がって彼女のほっぺをつっつくと、あっという間に寝落ちする。
ほんと、腹が立つ!
彼は、私の「ニンマリ」のツボを知り過ぎている。

だから、夫のポヨンとしたビール腹をつねる代わりに、ついつい彼にタオルケットをかけながら、「まぁ、いいか」と妙にホッとしてしまうのだ。


こんな彼が夫で、子どもたちの父親で、一緒に生きていく人で、よかったと思っている。






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