見出し画像

「かあちゃん」リアルなおとぎ話

貧乏長屋に暮らす「かあちゃん」と五人の子供と、不景気で金も家もなくなり、一家の家に盗みに入ったところをかあちゃんに説得されて、そのまま居着いてしまった男の話です。

一緒に暮らすことになった男は子供好きで、七歳の末っ子に寝物語を聞かせます。

男はあまり口かずの多いほうではないが、子供が好きな性分のようだし、話がうまかった。その話も一般のお伽ばなしではなく、自分で即興に作るらしい、ごく身近な出来事のなかで、子供の好みそうな筋をまとめて話すのだが、ときにはお勝やおさん、市太や次郎などでさえ、その話に聞き惚れることがあった。

本文の中で男の話の内容までは描かれていませんが、家族みんなが聞き惚れるほど魅力的な物語のようです。物語の内容は以下の会話から想像できます。針仕事をしながら、かあちゃんとおさん(長女)が男の寝物語について会話します。
「ゆうべの勇さんの話、あんまり可哀そうで、あたし涙が出てしようがなかったわ」とおさん。
「あの子は哀れな話ばかりするよ」と、かあちゃん。「もっと面白いたねがありそうなもんじゃないか、あたしはああいう哀れっぽい話は大嫌いだよ」
おさんは「あたしは好きよ、身につまされて、しいんと胸が熱くなってくるようで」かあちゃんは娘の歳を聞いて「十九ねえ、悲しい話が好きだなんていう年頃だね」と言い、自分はさんざん苦労してきたから、せめて話だけでも面白いものが聞きたいよ、と言います。
おさんはさらに、勇さんの話は全部、彼の身に実際に起こったことじゃないかと言います。「そうじゃなければ、あんなふうに話すことはできない」と。

勇さんの話は「哀れな話」ばかりのようです。住むところもなく、頼る人もいない彼の境遇を考えると、本当に自分の身に起こった不幸な出来事を元に話を作っているのかもしれません。そんな「哀れな話」にも関わらず、七歳の末っ子は「勇さんのおじさん、今日もお話聞かせてね」と催促します。子供が聞きたがる哀れな話って、どんな物語なのでしょうか。よほど勇さんの語りが上手いのか、物語が優れているのか。おそらくその両方なのでしょう。末っ子と一緒に勇さんの話を聞いてみたくなります。
おさんの言う「身につまされる」とは、物語の登場人物に同情する、感情移入するということですが、それは登場人物にリアリティーがあるからこそ可能になることです。おさんに「勇さんの身に実際に起こったことじゃないか」と思わせるほどリアルなのです。

どんな荒唐無稽な物語でも、受け手がその世界に入り込んで登場人物と共にわくわくどきどきできるのは、登場人物に人間としてのリアリティーがあるからです。それは熊のプーだろうがネズミのグリだろうが、ロボットのバンブルビーだろうが関係ありません。僕たちが荒唐無稽な物語にわくわくどきどきしながら共感できるのも、登場人物が「人間らしさ」というリアリティーを持っているからなんだろうと思います。

ひるがえって、この「かあちゃん」という物語、どちらかというと荒唐無稽なお話です。かあちゃん一家は近所の人たちの非難や陰口を浴びながら、見ず知らずの親子の再出発のために三年近くも一家総出で(七歳の末っ子までが)お金を貯めます。こんなあり得ないような話が、我々の涙を誘うのは、かあちゃんをはじめ登場人物のひとりひとりが、一家を非難する近所の人たちもちも含め、ちゃんと感情移入できる人間として描かれているからです。人間が持つ善意に対して無限の信頼を置く山本周五郎の真骨頂です。

それにしても、この勇さん、かあちゃんと子供たちからは「勇さん」と呼ばれ親しまれますが、作者からは最後まで「男」としか呼ばれません。何か意味があるのでしょうか。

おごそかな渇き(新潮文庫)
山本周五郎(著)

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?