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「午後の最後の芝生」夏の午後の、時が止まったように思える不思議なひととき

僕はとても夏が好きです。焼けるような強い日差し、蝉の声、空の青さ、夏雲のくっきりとした形、突然の夕立、夕暮れの涼しい風、夏祭り、どこかで聞こえる祭り太鼓、浜辺で眺める夕陽、そして、夏の午後の、ふと時が止まったようなひととき。
夏の午後には、時が止まったように思える不思議なひとときがあります。動くものはなく、聞こえる音もなく、蝉の声だけは鳴り続けているけど意識されず、すべてが眠ってしまったようにしんと静まりかえる瞬間。
大瀧詠一が「カナリア諸島にて」で「時はまるで銀紙の海の上で溶けだし、僕は自分が誰かも忘れてしまうよ。風も動かなああああーい」と歌う、あのひとときです。大人になって慌ただしい日々を送っているとめったに出会えませんが、子供の頃、夏休みには、よくそんなひとときがあったような気がします。
「午後の最後の芝生」は、僕にそんな夏の午後のひとときを思い起こさせる、大好きな一編です。

主人公の「僕」は夏休みの芝刈りアルバイトの最後の日に、ライトバンに乗って最後の芝生を刈りに行きます。
最後の芝生は都内から少し離れた郊外の住宅地にあり、夏の陽射しの中、そこに向かってライトバンを運転している「僕」の頭に浮かぶのは、砂浜とブルーのシーツ。それだけです。人は出てこない。動くものはありません。
ガソリンスタンドでの給油の間、「僕」は隣の草むらに寝転んで地面の音を聞きます。聞こえるはずのない音です。
最後の芝生の家のある辺りは、しんとして人影もありません。その家は生活の匂いの薄い、半分空き家のような家と描写されます。
そして、最後の芝刈りが始まります。「僕」はまるで何かの儀式のようにきちんと手順を追って、ていねいに仕事を進めていきます。
仕事が終わったあと、「僕」は家の主人である「くすの木」のような女性に請われて、家の二階にある一部屋へ入ります。その部屋は鍵が掛けられ、雨戸が閉められていました。雨戸と窓を開けると、そこは主人の子供であろう十代の女の子の部屋でした。その子はどうやらすでに亡くなっているようなのです。真夏の日差しと風に溢れる死者の部屋で、女性に請われて女の子のことを想像していると、やがてその女の子がぼんやりと現れます。

「光の海が作り出したほんのちょっとした歪みの中に彼女はいた」

「僕」は、儀式としての芝刈りを行い、芝刈りを依頼した女性の要請で、彼女の子供を死者の国から呼び戻したような感じです。
家の女性と「僕」のこんなやりとりがありました。
「うん、ああそうだね、芝生だ。今日は何日だっけ?」「十四日です」
十四日と言えばお盆です。死者が帰ってくる季節です。

その後、冷やりとした闇に包まれた廊下と玄関を通り外へ出た「僕」はほっとします。生者の世界に帰ってきました。帰路はもちろんとても疲れていて、ドライブインで眠ってしまいます。

「真夏のあの不思議なひととき」
それはお盆と関係があるとしたら、春秋冬にはあんなひとときには出会えないことも納得です。真夏の午後の時が止まったような瞬間、あの世から戻ってきたひとがそこを通りすぎていくのかもしれません。

中国行きのスローボート (中公文庫)
村上春樹(著)

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