小説『知の黎明にて』

5 若き悩み、あるいは、出立

思春期と人生の分岐点というものはなぜ、いちどきに訪れるのであろうか。

学校を卒業するとき、誰にも等しく人生最初の分かれ道がやって来る。そのときの選択がその人の人生を左右すらする。その大事な選択をすべきときに、往々にしてその判断に厄介な影響を与えるのが思春期というやつだ。

この頃、彼はことさら教会へと通った。学校が終わり、フェンガー家に行かない日は、家に帰る前に教会へ立ち寄った。そこは生まれた頃から家族と通ってきた福音教会で、この地区のドイツ系住民はみなこの教会に通っていた。リンデ氏の両親は大変熱心なクリスチャンであり、兄は学校を出ると聖職者として神に仕える道をとった。リンデ氏にとっても神様は物心の付いた頃からごく身近な存在であり、最大の導師であり、自分の全てだった。彼はいつでも神を祈った。兄が僧籍に入ったのはリンデがまだ小学生の頃であったが、その兄の姿はまぶしく、いつか自分も必ず兄の後に続くのだと、勉強に邁進したものだった。

小学生のリンデ氏はまだ知らなかったのだが、この頃、学校を出て教会へ仕えるべく出家する若者には、神への信心の深さともうひとつ、経済的な事情が背後にあった。つまり、僧籍に入り教会に仕えるということは「食べていくための一つの現実的な選択肢」でもあったのだ。家業が傾き、食っていくことも将来を描くこともままならない若者を教会は僧侶として受け入れ、住まいと手当を与えた。リンデ氏の兄が僧籍に入った理由も、本当は両親と弟に食わせていくためであった。当時リンデ家の経済状況はそれほどの苦境にあった。その苦境を救ったのはほかでもない、高校生のリンデ氏自身であったわけだが。

リンデ氏は毎夕、教会を訪れては祭壇の前で祈った。時間を忘れ、辺りが暗くなるのも、胸の前で組んだ手に血が通わなくなるのも気づかぬほど。リンデ氏の心は幼い時分から神に仕えることで固まっていた。高校を卒業したら兄に倣って僧籍に入るつもりでいた。その神への純粋な信心に満たされた心の奥に、あの人の姿がほんのりとただよう。ぶるっとひとつ背すじをふるわせ、その姿を消し去らんとさらに祈る。神よ、罪深いわたしをどうかお許しください、わたしの心をあなたの愛で満たしてください、あなたへの愛と畏怖の念とで、どうか満たしてください、罪深いわたしをどうか、あなたの愛でお救いください……

ルドヴィカ嬢がただ一度、どこかでに目に留まっただけの人であったら、リンデ氏の祈りももう少し容易であっただろうに。しかし彼女は週二日、決まった日にリンデ氏の前に現れる。しかも悪いことに、教えれば教えるほど、彼女は聡明になっていく。リンデ氏の教えは彼女にさらなる知性を与えていく。ああ、女性の知性とはなぜかくも美しく魅力的なのか。リンデ氏の理性は自らの感情を否定し、しかしフェンガー家へ向かう彼の足は彼の意志とは無関係に、なぜか軽やかに進み、その己の体がまた彼には厭わしかった。

実際のところ、ルドヴィカ嬢とリンデ氏の関係は、家庭教師と生徒、それ以外の何物でもなかったし、それ以上にも以下にもならなかった。それは彼も重々承知していた。ただ、リンデ氏の心の中でわき起こった思春期特有の感情はひたすら彼の純粋な信心を侵し、彼を苦しめた。

ある日、またいつものように放課後、教会で祈っていた。目を固く閉じ、手を胸の前で組み、祭壇の前でひたすら祈っていた。

「きみ」

誰かがその傍らで声を発した。

「はい」

リンデ氏は目を開け、祈りをといてその声の主の方へ面を上げた。

「先生……」

それはリンデ氏が恩師と慕う、リンデの通う高校の老教師であった。

リンデ氏は一抹のばつの悪さをおぼえた。たった今、自分の心中にあった悩み事をこの教師に見抜かれたのではないか。リンデ氏はいくぶん頬が紅潮するのをおぼえた。しかしなぜだか、この柔和な老教師の面を拝むうち、ふと、それを打ち明けてみたくなった。老教師もそれをはじめから察していたのだろうか。リンデ氏が何かを言い出す前にそっと彼の隣に腰かけ、体を軽く彼の方へと向けた。

「なにやら一生懸命祈っていたようだが、心配事でもあるのかい?」

「あの……ええ、あの、友人のことで……」

リンデ氏は言葉を探した。

「友人が今、とても悩んでいて……」

リンデ氏は、主語の「わたし」を「友人」に置き換えて、悩み事を老教師に少しずつ、少しずつ話してみた。

むろん、老教師の中ではリンデ氏の言う「友人」は「わたし」のことであることなど、とっくに知れていたのであるが。

どれくらいの時間を経たであろうか。リンデ氏の話をひとしきり聞き終えた老教師は、リンデ氏の肩に手をのせ、おだやかに言った。

「女性も、男性も、神様が等しく創られたのであるぞ。神様が創られたものを、なぜきみのご友人はかくも否定するのであろうか」

リンデ氏は驚いて老教師を見上げた。

「魅力的な女性に惹かれるのは人としてごく自然のことだ。神への愛を心惹かれた美しい女性にひとしく差し向けるのが罪であるとおっしゃるほど、神様の愛は狭くはないぞ」

「先生……」

「きみは……否、きみのご友人は、お忘れかも知れないが、我らが宗教革命の祖、マルティン・ルター師にも奥方はあり、子どももあり、大変仲むつまじいご家族であった。仲むつまじきことを神様はどれほどお喜びになるだろう。神様への愛を受け入れるのと同じように、きみのご友人も、彼自身の感情を素直に受け入れたらどうだろう」

「先生……」

「そのようにご友人にご進言さしあげたらいかがだろうか」

「……はい」

「一教師としてわたし個人的には、きみには祈りを捧げることに多くの時間を割くよりも、勉強することによりたくさんの力を注いでほしいと思っている」

「……はい」

「きみ、来年、高校を卒業したらその後はどうするつもりなのかね」

「……はい、あの、僧籍に入るつもりでおります」

「なぜ」

「……え」

なぜ、と問われてリンデ氏は言葉を失ってしまった。なぜなら、それに対する答えを持っていなかったからだ。

「きみは勉強は好きかね?」

「……はい。好きです」

「なぜ好きなのかね?」

「……え、あの……うまく説明できないのですけど、知らなかったことを知ることが、好きなのだと思います」

「そうだな」

老教師はようやくリンデの方から体の向きを変え、彼と同じ、祭壇の方へ向いた。

「神様のことを、もっと知りたいと思わないかね?」

「はい。知りたいです」

「だったら、大学で神学を学ぶという道もあるぞ」

「……えっ?」

リンデ氏は驚いてしまった。

大学、などという言葉は、いまだかつて、彼の中にはひとっつも存在したことがなかったからだ。

大学は貴族階級の子弟が行くところだ。貧しい錠前屋の息子が行く場所ではない。この教師はいったい何を言っているのか。

しかし、老教師は譲らなかった。老教師は実はこの悩める優秀な生徒を大学に送ろうと以前から虎視眈々と目論んでいた。この頃、トルンの街には大学へ入る生徒のための奨学金も用意していた。それを貴族階級の子弟ではなく、この勉強好きで優秀な生徒のために、使ってはならない理由などあるだろうか。

1789年。

リンデ氏がドイツ福音派の中心地ライプツィヒ大学神学科へ入学した年。

フランスでは中産階級の人々が結集し革命ののろしを上げていた。腐敗と圧政を拒絶し、自由と平等を求めるその波は次第にヨーロッパ全土に広がる。その波はやがてリンデ氏のもとへも訪れることになる。当時、社会に対して立ち上がった人々が求めたのは、金でも身分でもなく「知」であった。知への目覚め、啓蒙、それが人々を革命へと突き動かし、社会のあらゆる膿を知の力で洗い流そうとしていたのだった。

トルンを去る日、家族、友人、みなが馬車駅まで見送りに来てくれた。いよいよ馬車に乗りこみ、走り出し、徐々に速度を上げる車窓から見た人々。そのとき、白いハンカチーフをそっと眼にあてつつ手を振るルドヴィカ嬢の姿は、リンデ氏の中で永遠の像となった。