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鬱が教えてくれることを初めて知った日

昨日の夜、なかなか寝付けなくて、悪い癖が出てしまった
DMMで電子書籍70%OFFが開催されていて
気になっていたのだけれど、睡眠導入剤を飲んでから買ってしまった
これはよくない
睡眠導入剤を飲んでから「人に連絡をしない」「物を買わない」と決めていたのに…油断した
仕事が正社員でないし、まだ使用期間で、アルバイトなので
家計をちょっと引き締めたいと思っていたのに…
ちゃんと理性があるときに買うべきだった
反省
それに、やはりちゃんとした時間に寝ていないから起きたとき
だるくて、久しぶりに疲れとは違う、鬱っぽい感じだった
起きたのは11時半過ぎで、起きて、プロテインとサプリを摂ったら
簡単に着替えてすぐに冷蔵庫の掃除に取り掛かった
冷蔵庫に汚染恐怖が発生するとともに、中がパンパンだったのだ
中を全部出して、簡単に掃除しながら詰めなおした
詰めなおしたら余裕が出来るかとおもったら、やっぱりパンパンだった
なんていうか、食糧がなくなるのが怖いのだ
正直、食糧をあれこれ買わないと、と焦燥感に駆られすぎてる
脳の奴隷になっていて、はやし立てられているように感じるときがある
それでも、少しでも減ると心配になって買ってきてしまう
あれもこれもと買い足してしまう
パントリーとか棚があったら、それを埋めていると思う
日用品も同じく、洗濯洗剤も買い置きが欲しい
ないと落ち着かない
そのことばかり考えてしまう
食べ物もこれが食べたい、飲みたいって思うとそのことしか考えられなくなる
それが怖くて勝手しまうのだ
だから、結局のところ、私は脳の信号にせかされている
それをすごく実感している
鬱が酷い時は動けないし、でも異様にお腹がすいたり
甘い炭酸が飲みたくてたまらなくなった
それでも体が動かないから、買いに行きたいけれど動けない
食糧が減っていく怖さを感じていた
またあんなふうに、食べたい・飲みたいってなったのに
家になかったらと思うと買ってしまうのだ
それに今は汚染恐怖が酷くて買ってきてもすぐに開けたり
使ったり、食べたりすることが出来ない
そう思うと、少しでも余裕があると買ってきてしまう
それが止められない

とりあえずその話はおいといて
冷蔵庫の掃除が終わったら、鬱っぽかったけれど散歩にでた
どうしようか迷ったけれど出た
そうしていつもの川べりまで行って、1時間ほど歩いた
今日は薄い麦茶とナッツバーを持って行った
野良猫は四匹ほどみた
暖かくなったからか、警戒心が薄れたのか近くで写真を撮ることができた
川べりはたくさんの小鳥、野鳥がいる
でもいつも私は爆音で音楽を聴いている
今日はちょっとイヤホンを外して鳥の声や風の音を聞いた
川べりはいつもびっくりするほど人がいない
だから行くのだけれど
今日は家族連れが珍しくいた
今、日記を書いていて思うのだけれど
家族連れがもっといたら、川べりはつまらなくなっていただろう
都心ではそんなことなかったけれど
田舎はファミリーのテリトリーに異質者がいることに厳しい
都心では何時に、平日の昼間でも、夜でも
カフェに女一人でいても、公園にいても変な顔されなかった
いろんな生き方、働き方があるし
1人でいることが異質でなんてなかった
でも田舎は違う
平日の昼間に歩いていたり、公園なんかにいたら、白い目でみられる
正直、休日の公園でもだ
ほんとそこらへん厳しい
私が見つけた川べりはそんなことがない場所でいくらでも往復しても見てくる人がいないから本当に心休まるのだ
ずっとそうだといいなって心から願っている
そうやって歩いて帰っていて、節約って思ったけれど、コンビニで炭酸を買い足した
喉が渇いたから飲むと思ったのだ
でも結局飲まなかった
14時半過ぎに家について、埃とりと床掃除をした
そしてゴミをまとめた
15時にはお風呂にはいって、あがったあと、ご飯を食べながら
15時半から映画をみた
頓服のクエチアピンも飲んだので身体がだるいけれどそれに任せることにした
というのも、この一週間とても明るい前向きな気持ちだったけれど
ちょっと躁状態なんじゃないか?と思うところがあったのだ
ということは鬱がきたら、明るかったぶん落ちるってことだ
私は躁鬱ではないけれど、過去に明るいとき、行動するときと落ち込むときの波がきて、その波の大きさをどれだけ平らにするかが大事と医者にいわれたことがあったのだ
今回の鬱っぽさは散歩にでたら、消えた
明るい気持ちまでにはいたらないけれど、普通、落ち着いてるまでに回復できた
これは「鬱」が、無理をするなとおしえてくれてるんじゃないかと思った
鬱で身体が、脳が、休めと、ブレーキを自分で踏めない私に
教習所の教官みたいにブレーキを踏んで教えてくれてるんじゃないかと
私の人生はジェットコースターみたいで、自分でコントロールすることが出来ない部分が幾つかあった
それで、暴走して、クラッシュして、鬱になったのかもしれない
あまりに暴走したときのスピードとエネルギーが激しすぎて
その後、年単位で鬱に苦しむことになったのだが
鬱が、そういう身体の枯渇や脳の疲れを教えてくれている
回復までは決してその手を緩めない存在だとしたら
私はずっと自分の人生に無理を強いてきたんだと思う
それは悪いことでは決してない
きっと周りや世論をみて必死についていってたんだと思う
それが普通だと思ったし、その世界しか知らなったから
だからはみ出てしまって物凄く不安だったし
自分をなじったし、生きていることが怖くなったし
生きていくことが出来ないと思った
でも鬱を乗り越える、つまり枯渇し、マイナスになった
心身的な何かを癒し補充出来るように、今現在なってきているとしたら
このちょっとした不調は、またそんな大事にならないように
鬱が教えてくれて、それを私が俯瞰してわかるようになり
休むタイミングをようやくわかるようになったんじゃないかということだ
これはものすごい進歩だ
鬱は私の都合なんて何も考えずに、大事な約束も、貯めたお金も、信用もなにもかも奪っていくだけで
コントロールすることも、いつやってくるかもわからない恐ろしい存在であった
でも、鬱がもし教えてくれているのなら、そしてこの程度ならなんとかなるかもしれない
鬱とうまく付き合って、建設的に生きられるかもしれない
そんな気がした

映画を一本見て、2本目をみて、休憩にお米を炊く準備をした
そして日記を書いている


鬱が人生の無理を教えてくれる、疲れ、スピードの出しすぎを教えてくれているのなら


強迫性障害は私に何を教えてくれているんだろう

・3食…食べたのか?
・入浴
・掃除
・散歩
・日記
・冷蔵庫掃除

お力添えありがとうございます。