米津玄師「KICK BACK」の歌詞考察(決定版笑)
ホモ・ネーモさんが「KICKBACK」の歌詞を考察していたので便乗させていただきます。(※チェンソーマンのネタバレがバリバリあります!)
実はこの歌詞解釈は結構前からやろうと思っていたのですが(ホントに)、すっかり忘れていました。ところでいま”キックバック”と検索したら、自民党安倍派などの政治資金問題がいっせいに出てきました。一気に嫌な気分になりますね。
ご存じの方も多いと思いますが、この曲はモーニング娘(つんく♂)の曲影響を大きく受けています。しかしその話はひとまず置いておいて、今回はこの曲自体にフォーカスしたいと思います。また、ミュージックビデオも考察には含めないことにします。個人的に映像ありきの曲ってあんまり好きじゃないし、この曲はそれなしでも十分素晴らしいです。
まず一つの大きな問題は、この歌詞をうたっている主人公を誰とみるかです。とうぜん正解はないのですが、大きく「米津玄師」とみるか「デンジ(アニメ「チェンソーマン」の主人公)」とみるかにわかれると思います。もちろんそれだけではなく、誰と明確に言えない側面や重なり合っている側面など曖昧さはつねにあるわけですが。
この曲の主人公を米津玄師とみた考察には、以下のようなものがあります。しかしこの記事では基本的に、主人公をデンジ(あるいは広く「私たち」)として考えることにします。
さて、この曲の主題ですが、ざっくり言って、即物的快楽と精神的幸福を対比させているように思います。また、デンジは最初は極貧の生活のしていましたが、マキマさんに拾われて一応安定したポジションに落ち着きます。その流れを踏まえたうえで、では実際に歌詞を見ていきましょう。
まずはなんといってもこの歌詞です。曲中に何回もでてきます。米津自身が「人はどん底にいるときほど抽象的にしかものを考えられず、幸せへの具体的な道筋を描けない」というようなことを言っていますが、それが端的に表れている部分でしょう。(出典は以下の記事)
するどい人間観察だと思いますが、それはそうと、この部分は資本主義の神話とでも呼ぶべきものを表していると考えます。そもそも最初に主人公を苦しめているのは貧困であり、それを生み出しているのは資本主義社会です。そしてその資本主義の精神とは、まさにこの「未来の(不明瞭な、しかし煌めいて見える)幸せへとつねに目を向け、それに向かって努力する」というものではないでしょうか。
それはウェーバーが「プロ倫」で暴いた精神構造であり、あるいはバタイユが「前望構造」と呼んだものであり、ポール・ヴィリリオが「ドロモロジー(速度学、個人や社会を追い立てる構造)」と呼んだものです。この歌詞が何回も繰り返されるのは、これが私たちの社会全体を覆っている精神だからと言えるでしょう。
主人公の日常のようです。いわゆるブルーカラーの職業についていることがうかがえます。この「頭の中で呼びかける声」というのも、さっき述べた資本主義の精神の一種と言えるでしょう。なぜなら、現代日本に住む方ならだれでもわかるように、この社会はつねに消費者の欲望を刺激してくるからです。あっちには広告、こっちにはCM、手もとにSNS、、、。「欲望とは他者の欲望である」という言葉もありますが、私たちは自分自身が自分の欲望から疎外されていて、かつ、とどまることを知らない”生産―消費”構造の中に生きている。そういう状況を示しているように思えます。
主人公(デンジ)の率直な欲望です。誰もが多かれ少なかれもっているホンネでしょう。「この手に掴みたい あなたのその胸の中」というのは、デンジがマキマの胸を揉みたいという即物的な欲望を感じさせると同時に、マキマさんから愛されたいという精神的な思いも感じ取れます。そして(他の記事にも書いてあったことですが)アニメと合わせて考えると、これはマキマ視点の歌詞とみることもできます。つまり、デンジは胸の糸を引っ張ることでチェンソーマンになるのですが、マキマはそのチェンソーマンを欲しているということです。
ここには文字通り、死ぬまで快適でいたいという、個人主義的な現代人の素朴な思いが表れているでしょう。「いつかみた地獄」というのは、主人公を米津ととれば過去のつらい時代であり、デンジととれば(おそらく)マキマに拾われる前の生活ということになります。ひとまず現在の幸せでもって過去を肯定的に受け止められるようになったということでしょうか。ただ、「ハッピーで埋め尽くして」という歌詞には、どことなく刹那的、あるいは即物的な快楽でもって人生をごまかしているという雰囲気も感じます。
この歌詞は解釈が難しいですが、基本的にデンジからマキマさんへの言葉とみていいでしょう。デンジはマキマさんに優しく扱ってもらえますが、それはデンジの中にチェンソーマンの力があるからです。だから、デンジ自身は本当は愛されていないのですが、そのことに薄々気がつきながらも、「それでもいい」と快楽に身を委ねているように見えます。デンジがマキマの犬になったシーンはその最終段階ですね。デンジのマゾ的側面が出てるようにも見えます。
一番のラストです。繰り返しのサビはすでに述べたのでいいとして、問題は「なんか忘れちゃってんだ」です。なにを忘れているのか。僕はやはり「資本主義の精神のなかで捨てられてしまったもの」と考えてしまいます。つまり、「努力 未来 A BEAUTIFUL STAR」に急かされるなかで忘れてしまったものということです。その具体的な内容はいろいろと考えられますが、デンジにとっては、マキマの愛情や本当の友達といったところでしょうか。
あるいは僕個人的な読みをすれば、資本主義の中で搾取される労働者(昔のデンジ)や社会的弱者が忘れられている、と見ることもできます。
さて、2番に入りましょう。ここからは繰り返しもあるのでサクサク行きます。
「4443で外れる炭酸水」とは、自販機のおまけみたいなやつで「4合わせにならなかった」ということですね。(これは↓の記事で知りました)
「ハングリー拗らせて吐きそうな人生」とは見事な歌詞ですね~。流石のセンスです。それはともかく、この部分はだいたい書かれている通りのメッセージでしょう。生活は苦しいし、欲望に際限はない。
というわけでこういうことになります。これまでは生きようとする欲動「エロス」が前面に出てきていたわけですが、ここでは一転、死への欲動である「タナトス」が激しく主張してきます。
、、、というか今考えてみるとデンジの心理ってめちゃくちゃフロイトっぽいですね。こう考えると一番のラストの「なんか忘れちゃってんだ」はデンジの内に秘めた(抑圧された)攻撃性ともとれそうです。最終的に彼はマキマさんを食べちゃいますし。それは考えすぎでしょうか?……
そうなると「あなたのその胸の中」の意味も違って見えてきます。タナトスは無への回帰への欲動でもありますから、この世の生をすべて捨てて「母(マキマ?)」に還ろうとしているようにも思えます。実際、漫画のなかで「おれはもう何も考えたくない」というようなことをデンジは言っています。
そしてまたサビ
「ハッピー」から「ラッキー」に歌詞が移っています。どちらも似たようなものですが、より「運」に身を任せるようになった印象を受けます。「良い子だけ迎える天国じゃ どうも生きらんない」とは、文字通り読むこともできますし、努力して頑張った人間しか幸せになれないなんておかしくないか? という風にも見えます。現代社会になぞらえて読むなら自己責任批判というところでしょうか。「ラッキー」という言葉がでていますが、そもそも生まれた境遇や広い意味での環境などに人間左右されるわけで、ハズレ引いたらもう救いはないのかよ!という声にも聞こえます。
そうなってくると、次の歌詞もどんどん皮肉に聞こえてきます。(重複している部分はカットしました)
わかるようでわからない感じですが、「ベイビー」とあるので子供のように生まれ変わったということでしょうか。若干強引な解釈になってしまいますが、子供(無垢)の心を手に入れたことで際限のない欲望から解放され、「なんかすごい良い感じ」になった、という感じでしょうか。漫画のなかでデンジも家族っていいなみたいな話になっていた気がします。
だから、「努力 未来 A BEAUTIFUL STAR」という音はまだ鳴り止まないけど、もはやそれは空疎に響いているだけで、主人公はそこから抜け出しつつある、そんな風に思えます。
しかし逆に、まだまだ「努力 未来 A BEAUTIFUL STAR」は鳴り止まず、最初に戻る、そういう風にも取れます。「kick back」という言葉には「ぶり返す」という意味があるようです。
まとめ
結局どうなんだよと言われれば、はっきりとしたことはわかりません(笑)。できるだけ漫画の内容によらず歌詞に内在的に考察したかったんですが、なかなか厳しかったです。しかしまぁできることはやった気がします。だいぶ時間かけたんで「決定版」ってつけさせてください。もちろん歌詞考察に「決定版」もクソもないんですが。
ここまで読んでくださりありがとうございました。
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