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「役に立つ」とはどういうことか

 「○○は役に立つ(あるいは立たない)」と言われることは多い。言い換えるなら”有用性”ということだ。一見自明に見えるこの言葉は、しかし実際には何を意味しているのだろうか。

 まず、「役に立つ」という事態はつねに、「~にとって(あるいは~のために)役に立つ」という形をとる。何か目的があって、そのための手段として役に立つ、ということだ。だから、この目的を抜きにした言明はそもそも無意味だといえる。

 パソコンが役に立つのはなぜか? それは例えばこうしてnoteを書いたり、仕事に使ったりすることができるからだ。ではなぜnoteを書けたり仕事に使えたりすると「役に立つ」と言えるのか? それはそうすることで文章をいろんな人に公開したり、賃金をもらえたりするからである。

 そしてこの目的をずっとたどっていくと、最終的に私たち人間の存在に行きつく。たとえば、「賃金のため→生きるため→私のため」というふうに。そしてそこからは、「~のために」という関係をたどることができない。なぜなら、人間は(ハイデガーのいう)道具的存在者ではなく、それ自体が問題となり目的となる現存在だからである。

〈ために〉はつねに現存在の存在に関係しており、この現存在にとっては自ら存在することにおいて、本質上この存在自体が問題なのである。
(SZ:84)

池田喬『ハイデガー「存在と時間」を解き明かす』p.184

 話を戻すと、「役に立つ」とはつねに「~のために・~にとって」という性質をもつのだった。ということは逆に言えば、「役に立たない」ということもまた同じように言えるはずである。

 世間では、「人文学は役に立たない」「学歴は役に立たない」など、「○○は役に立たない」と言われることがよくある。しかしここで重要なのは、それが「何のために・何にとって役に立たないのか」ということだ。

 人文学はたしかにお金を稼ぐことには役に立たないかもしれない(そんなこともないと思うが、一応ここでは話を単純にするためにそうだとしておく)。しかしそれはあくまで、資本主義社会のなかで資本を増殖させることには役に立たない、ということにすぎない。それは無条件に役に立たないということを意味しない。

 あるいは「○○は社会の役に立たない」と言われることがある。しかしここでいう「社会」とは何のことだろうか? 「社会」とは、おおざっぱに考えれば「人々の集まり」と考えられる。しかしそれではあまりに意味が漠然としすぎているのではないだろうか? 

 そもそも日本に「社会」という言葉が定着したのは、明治以降である。

 「世間」の概念は昔からあったようだが、これも、では「世間」とは何だろうか?と『人間失格』の葉蔵のような疑問を出さずにはいられない。

 もちろん様々なケースがあるだろうが、「社会の役に立たない」と言われるとき、実際には「資本主義社会のなかで資本を増殖させる(利益を出す)のに役に立たない」という意味で使われていることはかなり多いのではないだろうか。


 まぁもちろん色んなケースがある。一言ではいえないだろう。しかし重要なのは、「○○は役に立つ/立たない」と言われるとき、それは「何にとって・何のために」そうであるのかという視点を忘れないことだろう。往々にして「資本—主義」社会の中では資本が目的となっているという事実が見失われ、あるいは隠蔽されている。

 本来、最終的な目的というのは、人間でなくてはならないはずだ。「社会」「世間」などと表現するとしても、それを構成しているのは一人一人の人間である。それを忘れて人間を道具的存在者のように扱うとき、「役に立つ/立たない」の議論は逆立ちしたものになってしまうだろう。

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